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父に会う

 電電公社の横須賀研究所でAdaコンパイラの開発を希望したが、配属は武蔵野。交換機のプログラム開発だから、まあ良しとしよう。さあ、すぐにプログラムを書けると思ったが、研修ばかりである。働いてないのに給料もらってていいの、と憤慨していたら、「おまえたちはまだ人件費じゃない、物件費だ」とたしなめられた。
 一九八一年は四月から七月まで座学の研修ばかり。八月から十月は現場実習。実習先は北海道または九州と希望したら京都になった。初めて実家を出た。
 大学の友人でメーカに就職した奴に現場実習の話をしたら、その会社では工場で一年、何をしていてもいい、最後にレポートを出す、そこで原価低減や品質改善を提案する。だが、毎年先輩たちが検討してきているから、途方に暮れていた。
 なるほど、電話局での現場実習も、そういう狙いか。意気込んで独身寮の門をたたくと、寮母さんがすごい形相である。女子寮ではないか。
 男子寮は太秦映画村のすぐ近くだった。夕方、嵐山線で帰ってくると、照明がもれている。声が聞こえてくる。プログラムを書くこともできず、電話局では「本社からのお客様」と放置され、映画村に心が揺れた。
 改善の種を探そうともがいたが、素人にそう見つかるわけもない。「ここはどうなっていますか?」と聞くと、担当の課長さんが飛んできて「そこはもうとっくに」と反撃された。
 熱は冷め、京都を楽しもうと居直った。定時に退社して寮に帰る途中、名所に途中下車した。大文字焼きは電話局の屋上から、時代祭も許可をもらって見物に行った。寮生と一緒に社交ダンスを習ってみたりした。
 現場実習も残り僅かとなり、父親に会っておこうと思った。私が一歳になる前に家を出て行った男である。いまは大阪で家庭を持っていると聞いていた。奈良の大仏で日曜に会いたいと手紙を書いた。。イニシエーションだった。
 目印に雑誌を持って、とドラマのような設定。私は父の顔を知らない。母はアルバムから、その男の写真をすべて破棄していた。半分破かれた写真の意味を知ったのは、成人してからだった。
 一目で分かった。ぎこちなく挨拶し、拝観。鹿にせんべいをあげてから喫茶店に入った。思いもかけない台詞が口からあふれ、私は一方的にしゃべっていた。
 なぜあんなにしゃべったのか、帰りの電車で考えた。①弁明を聞きたくなかった。母は父を憎んでいた。恨んでいた。一人で息子を育てたことを母は誇りにしていた。いまさら言い訳を聞きたくなかったし、謝ってもらいたくもない。②自慢したかった。国立大を出て電電公社の研究所に入った。それなのに、私は「研修ばかりでつまらない、辞めようかと考えている」など言った。そんな考えてもいない台詞が口をついたのは、ただ③男を困らせたかったからだ。
 そろそろ帰るときになって、黙っていた父がぽつりと言った。
「辞める件だけど、もう少し考えてみたらどうだろう」
 赤ん坊がうるさいと家を出て行った男から、そんな言葉が出て来ると思わなかった。
「研修はいずれ終わる。それから様子を見ても遅くはないのでは」
 その後、結婚、出産を葉書で報告した。父から返ってきたのは、息子の私立高校入学の葉書だけで、次に会ったのはお葬式だった。
 さて、現場実習の報告書は、交換機の端末を現場で実際どれだけ利用しているか。実習先の電話局に交換機は四台あり、それぞれに端末がつながっていたが、利用時間は七%に過ぎなかった。経営工学で習った作業時間の推定法が役立った。それなら、一台の端末で交換機四台を操作できるし、もっと多くを遠隔集約可能だ。これは、のちに本当にそうなった。

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