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ぴあ展

 ぴあ展は、その後、PFF(ぴあフィルムフェスティバル)となり、現在まで続いている。その第一回に、私は参加していた。
 全関東高校放送劇コンクールで2連勝した。そこで、大学では映画にステップアップしようと思った。電気通信大学の経営工学科に入学しておきながら、映画監督を夢見たのである。
 考えてみると、それまで大して映画を観ていない。高校までに観た映画は、「沈黙の世界」、「戦争と平和」、「ゴジラ対キングコング」、「ガリバーの宇宙旅行」(宮崎駿によるラストのどんでん返しが有名)、そして「ベニスに死す」。
 まず映画をたくさん観ることだ。池袋の文芸坐に通うようになる。文芸坐で二本、そして文芸坐地下で二本、四本をまとめて観ると交通費を含めた一本当たりコストを抑えることができる。大学一年と二年は、年間二百本以上を観た。
 最初のうちは、どの作品も観たことがなかったから手当たり次第だった。しかし、だんだん四本すべて初というわけにいかなくなる。観るべき名作も分かってきて、いつどこで何をまとめて観るか、探すことが重要になってきた。
 当時、映画館の情報は新聞にしかなかった。新聞に小さく上映作品名が載るだけである。そこに雑誌「ぴあ」が登場した。これで名画を追う効率的な計画を綿密に練ることができるようになった。
 映画鑑賞コストを下げるため、交通費にも工夫した。中野までなら自転車で行く。往復二時間かかったが、「影武者」と「乱」の二本立てはお買い得だった。出演者の大滝秀治さんに会ったのはトイレである。武田の家臣、山県昌景の役で影武者に出演していた。「連れしょん」だった。撮影からもうずいぶん経っていたであろう。しかし、大滝さんは顔を紅潮させ、体を震わせた。まるで、いま黒澤監督から叱咤され、中座して駆け込んできたようだった。
 定期券を貸してくれた大学の友人には感謝である。彼はバスケットボール部のキャプテンで、練習日は夜9時くらいまで体育館だから、私は彼に定期券を借りて調布から池袋まで行き、映画を二本観てとんぼ返りした。そのためには大学を四時には出なければならない。火曜日の実験は午後一杯の長い授業で、実験データを得られれば終わってよい。実験の手順を事前によく読み、周到に進めれば四時に帰ることは可能だった。しかし、よいデータがとれないと何時になっても帰れない。七時八時まで格闘することもある、名物授業だった。
 当時、日本映画は斜陽であった。映画館は次々廃業しており、有名監督でもメガホンをとれない。黒澤明ですら、「乱」を撮るのに苦労していた。若造が映画を観ているだけで監督になれるわけもない。八ミリ映画の同好会に参加してみたが、映画は放送劇のようにはいかなかった。技術も資金もスタッフも不足していたし、何より、そもそも何を撮りたいか、何を作りたいのか、明確な目標がなかった。ただ映画を作ってみたかった。
 映画同好会に参加しながら、一方で私は、放送劇にも未練を残していた。徹夜で書いた台本を高校の放送部に持ち込み、後輩を使って録音するようなこともやっていた。
 気持ちの整理をつけたのは大学三年である。一人で私を育ててくれた母が、そろそろ仕事をやめ、引退したいと言い出した。年齢的に急ぎの翻訳は身体に応え、この頃体調を崩すこともよくあった。一方、私は大学院への進学を決めた。コンピュータのソフトウェアを仕事にすることにしたが、四年で卒業して社会に出るのは不安であった。ちょうど景気が悪く、就職が大変だったから、大学院の費用はバイトと奨学金で賄うと親を説得した。
 大学四年は、卒論と大学院受験の準備で忙しかった。四年生から研究室に所属するシステムだったから、もう自由勝手に映画を観に行くこともできなくなっていた。そんなとき、第一回「ぴあ展」の募集があった。「ぴあ」に掲載しているバンドや劇団が大泉学園の東映撮影所に集まる。それはまるで「ぴあ」の紙面のように混沌としたイベントになるはずであった。
 「ぴあ展」への参加を、私は放送劇の卒業と位置づけ、応募してみることにした。神田にあった「ぴあ」の本社は意外に小さく、古い雑居ビルだった。道路にまで長い行列ができていた。ビルの階段を登って行き、「次の方」と声がかかる。ビル全体がバーゲンセールをやっているようだった。ぴあの社員が総出で対応していた。
 他の応募者を観察していると、劇団やバンドだけでなく、パントマイムのように一人パフォーマーもいた。それなら私にもチャンスがあるかもしれない。私は中年の男性に呼ばれた。大半の社員が若い女性の中、男性は珍しかった。もしかしたら、ぴあの社長ではないかと思った。
「で、何をやるおつもりですか?」
「放送劇を聴いてもらいます」
 私は臆面もなく答えた。企画書も何も持参していない。男性は少し考えて、
「面白いですね。でも、どうやって聴かせますか?」
「テープデッキを持ち込みます」
「部屋とかスピーカを置くスペースはとれないのですが」
「だいじょうぶです。ヘッドホンで聴いてもらいます」
「なるほど、いいでしょう」
 机を一つ、百ボルトの電源を一つもらえることになった。テープデッキは、オープンリールのTEAC A3300。重量は15Kgもあった。背負子を使って担ぐ。手には十号のテープとヘッドホン。冬なのに会場に着いたときには汗びっしょりであった。
 撮影所のスタジオ内は劇団やバンドが占めていて、私のような一人パフォーマーは屋外である。道路の両脇に数メートル間隔で並ぶ。四月の大学で新入部員を募集するクラブの列のように、十二月の撮影所に不思議な列ができた。
 私の隣は、全裸の舞踏家だった。全身を黒く塗っている。ふんどしも黒いから、全裸に見える。最初はアフリカ人かと思った。それが地面にうっぷし、うめき、振るえ、のたくっている。のちにテレビで田中泯さんの踊りを観てハッとした。もしや、あれは田中泯だったのではないか。
 テープデッキの前から離れることができなかったから、じつは「ぴあ展」をほとんど見ていない。もだえ苦しむ黒人の隣で、行きかう人たちに「放送劇、聴いてみてください」と、朝から夜まで呼びかけ続けた。会場は全体騒然としていたから、ヘッドホンをつけても、静かに放送劇を聴く環境ではなかった。二日間で聴いてくれたのは、わずか数人だった。
 食事に行くこともできない。昼も夕も持参したサンドイッチだった。友人知人に声をかけていたが、会場に来てくれた人はいなかった。唯一ガールフレンドが来てくれたが、それが彼女に会った最後となった。
 放送劇と映画の夢をきっぱりあきらめ、コンピュータ技術者に転身した、つもりだった。ところが、「ぴあ展」で放送劇を聴いてくれた一人が、芝居を手伝ってくれと電話をしてくる。電電公社の現場研修は、京都の東映太秦撮影所の隣の独身寮になる。そして、結婚して池袋に。文芸坐は徒歩圏になってしまった。

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