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原発爆発

 NTTを退職し、娘の養育義務も果たした。ロンドンの娘のアパートを根城に、ニコンの一眼レフをさげて放浪した。
 二〇一〇年暮れに帰国し、盲人ガイドのボランティア、初詣、朗読ボランティア、「記憶の銀行」のボランティア、法事、台湾から来客と続き、渡英は三月一日になってしまった。
 四月二十九日がウィリアム王子の結婚式である。その写真撮影を頼まれた。ある出版社が「王室カップル誕生秘話と挙式のすべて、おめでとう!ウィリアム王子」の発行を準備していた。式の前に発売するので、当日の撮影ではない。パレードコース沿道の風景だ。時間がない。
 式を挙げるウェストミンスター寺院からバッキンガム宮殿までの一キロ半、どこをどう撮るか。ビッグベンの時計塔やザ・モールの一直線の道路は写真映えがする。あまり知られていないが、戦没者記念碑もコース上重要だろう。こっちは地味だから、赤い二階建てバスを一緒に入れよう。しかし、この時期イギリスは天気が悪い。何日も通い、何度も往復し、三百回もシャッターを切った。
 王子と妃の子供時代からの写真が満載なのだが、これらはプロから購入したものだ。私が撮った写真の中から採用されたのは七枚だった。それでもスタッフとして巻末に名前を載せていただいた。NTT退職後、初めてのバイトである。
 三月十二日、フットパスを歩く会があった。早朝、郊外の駅に集合。「大変でしたね、ご家族は大丈夫でしたか?」参加者に次々訊かれた。娘が借りたアパートは会社に近く、帰宅困難な友達を泊めたとメールがあった。妻はカウンセリングの仕事中だったが、明治通りを歩き、帰宅は深夜になった。家族は無事、日本は地震多いから慣れてます、と笑顔で答えた。
 「みなさん三分サイレンスしましょう」欧米の人は黙とうが好きだ。二〇〇一年、水産高校の練習船「えひめ丸」がハワイで米国潜水艦と衝突して沈められた翌日、定例の電話会議の冒頭、米国側から「黙とうしよう」と言ってきたっけ。
 その日の帰り、駅で呼び止められた。「日本人ですか?」黒いベールを被った女性が「祈らせてください」という。他にもアパートに帰りつくまで何人か祈ってくれた。一体日本はどうなっているんだ。
 テレビはない。ネットを検索すると、地震、津波の動画が多数アップされていた。揺れる高層オフィス、明治通りを黙々と歩く帰宅者、津波、そして福島第一原子力発電所の爆発。
 高校三年物理の最後の授業で、先生が突然黒板に数式を書き始めた。何かの状態方程式を変形していく。黒板の左上からびっしり書いて右下まで来たとき、あのアインシュタインの有名な式、エネルギーは質量と等しい、にたどり着いた。「という訳で本当に導き出せるんです」と先生が言ったところで鐘が鳴った。(あれで先生は何が言いたかったのか)
 二〇〇二年、娘を広島に連れて行った。その夏休み、ちょうど原発の無料見学会があった。原発を見たあと魚市場で買い物するというツアーの参加者は数人だった。運転中の東海原子力発電所の中まで入れてくれた。ほんのり暖かかった。あれが核分裂エネルギー。「ほら安全でしょ」という宣伝だった。私もそのときはそう思った。
 小松左京は、日本人が日本を捨てざるをえない状況を作るため、「日本沈没」を思いついた。放射能汚染でも同じだ。日本人は東北を捨てることになるのか。
 すぐに帰国しようか。放射能汚染で空港が閉鎖されるかもしれない。米国やフランスはすでに駐在員の国外脱出を呼び掛けている。妻や娘も避難したほうがいいのではないか。それなら私はロンドンで待とう。
 原発について調べているうちに東京電力の記者会見にたどり着いた。ネット中継は二十四時間体制になっていた。深夜でも急変があると緊急会見があった。タブレットで中継を見ながら、会見に出てくる専門用語をパソコンで検索。自炊、記者会見、仮眠、緊急会見、自炊。そんな生活がつづき、冷蔵庫は空になってしまった。
 東電の記者会見は、日比谷の本社で開かれていた。旧電電公社の本社ビルのすぐ隣だ。入社式をやり、人事部で過ごした。記者たちはガード下のラーメン屋で食べてきたのだろうか。
 ツイッターに英語で質問が投稿されていたのだ。「いまのはどういうこと?」「東電は溶けてないと言ってる」会見を要約して投稿していた。私も協力することにした。
 「食糧を日本に送ろう」という呼びかけがきた。しかし、物流が混乱している状況で、海外から小包を送るのは迷惑ではないか。「子供たちの疎開に協力していただけませんか」と連絡してきた人もいた。放射能の影響を受けやすい子供たちを国外に逃がそうというのだ。チェルノブイリでは夏休みの疎開を実際やったそうだ。協力したいが、このアパートは狭い。
 原発を設計した東芝の技術者OBたちがネットに登場して、事故原因や当時の信頼設計について話していた。似たような議論を交換機でもやった。電話の明細情報の転送網を設計したときも、信頼設計に一年近く費やした。
「故障したディスクを交換している最中に別のディスクが故障する確率」そんなひとつをとっても、予備のディスクをどこに配備し、運ぶかが議論になった。しかも通行止めになっているかもしれない。空想科学小説のような議論だと思ったが、実際に起きてしまった。それを英国からネット経由で見ている。(SF映画を観ているような気分だ)
 電話の明細が数日失われるのと、原発の電源が失われるのでは、影響は桁違いだ。自分史に手がつかない。いやもう王子の結婚式どころではない。四月二十九日の飛行機で帰国することにした。
 妻のお母さんの故郷、釜石にボランティアをしに行こうとしたが、宿は避難所になっていた。ボランティアがようやく泊まれたのは九月だった。それでも、まだ客の大半は工事関係者だった。
 夫婦でボランティア保険に入り、鉄の中敷きを買った。瓦礫撤去をやる覚悟だった。ところが、実際やらせてもらったのは写真の洗浄だった。それはそれで思い出だが、技術者として、私にも、もう少し役に立つ仕事があるのではないか。
 再度就職する気になった。今度は本気だった。しかし、なかなか適当な仕事が見つからない。ようやく一つ面接の運びになったのだが、二カ月待っても連絡が来ない。とうとう諦めて翌年、また三月から渡英する決心をして、飛行機を予約した。電子カルテシステムの開発をちょっと診てほしいと頼まれたのは、その直後だった。それが退職後、二つ目のバイトだった。

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