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交換プログラムの改良

 新人で開発に参加した交換機がダウンし、新聞沙汰になった。電話網デジタル化の要の交換機だ。新聞の切り抜きが回覧されたが、私はすでに研究にシフトしていた。
 交換機のダウンは、極短時間なら気づかれない。「あれ?」受話器を置いてかけ直してくれる。しかし、長引くと問題だ。一つの交換機には数万台の電話がつながっている。半径七キロ程が通話不能となる。一時間越えのダウンでは電話局長が左遷にもなった。研究所に怒鳴り込んできた人を見たことがある。
「菓子折もって謝って回ったんだぞ。蕎麦屋に賠償しろって詰め寄られた」
 上司が当時のメーカチーフたちを非公式に招集し、情報交換した。交換機のハードは二重化してある。故障した装置を切り替えれば通話に影響はない。切り替えは一瞬である。長時間になる原因の大半は人間にある。数分も待てば自動で回復するのに、慌て余計な操作をして、かえって長引かせてしまう。だが、問題の長時間ダウンは、もっと複雑だった。
 故障したハードが「俺、故障しました」と自白するなら、対応は簡単だ。実際には何も言ってくれない。他のハードが「あいつ、変です」と通報してくる。そこから容疑者を推定し、仮に逮捕してみる。それで通報がなくなれば、犯人が確定する。障害処理の基本ロジックだ。
 故障個所によっては通報が複数あがってくる。たとえば、ケーブルを引き抜くと両端の装置からあがってくる場合がある。基本、通報一つずつに対応する。非同期にあがってくる複数の事象を総合して推定するのは、コンピュータは不得意だ。ELISでエキスパートシステムを作り、この犯人捜し(障害処理)をシミュレーションしてみたことがある。エキスパートシステムの小手調べのつもりだったが、無限ループが起きて、うまくいかなかった。私の技量不足と思ったのだが、実システムでもリブートを繰り返し、ダウンが長時間になるケースがあった。
 弁明させてもらうと、研究所は開発前に様々な評価やシミュレーションをやっていた。たとえば、電話のデジタル化で音質がどうなるか、膨大な評価をしていた。デジタルでは信号エラーが奇妙な雑音になる。私も被験者をやった。昼休みに呼び出され、短い文章を聞いてはボタンを押す単調な評価を1時間もやらされた。
 電話がつながるまでに要する時間(接続遅延)は決められている。北海道から九州まで、交換機を中継して接続しても何秒以内と。プログラムの概要設計を終えた時点で、待ち行列のモデルを作り、接続遅延時間をシミュレーションした。負荷をかけたとき、規定をクリアできるか、プログラムが出来上がる前に確認した。これは同期のテーマだった。私は待ち行列モデル作りを手伝った。待ち行列は経営工学の重要な分野だ。
 障害処理のシミュレーションはやっていなかった。ELISでシミュレーションしたのは開発完了後だったし、その結果が次期開発にフィードバックされることはなかった。
 障害処理の試験は、せいぜいケーブルを抜いてみる、回路基板を抜いてみる程度だった。本番さながら多数のハードを搭載し、複雑な故障を発生させるところまでやっていなかった。簡単な故障なら、切り替えれば正常になる。難しいのは犯人がなかなか見つからないケースだ。切り替えても切り替えても通報があがってくる。犯人捜しを無限に続けるより、容疑者を切り離して運用を続行する割り切りが肝要だが、その判断は難しい。
 新聞沙汰のあとも、研究所は、開発が完了したシステムの再評価や改善には乗り出さなかった。研究所は常に「次期」である。しかし、全国導入された交換機を放置し、次期を待っているわけにはいかない。次期開発には早くても三年はかかる。そこで、社内に出来ていた開発部門が「改良プロジェクト」をスタートさせた。
 プロジェクトには、社内の「交換専門家」が集められた。しかし、交換機も種類がある。たとえば、自動車専門家と称する人に「では、このダンプを改良してください」と言ってみても、易々と引き受けられないだろう。しかも、開発から関わった社員はとても少ない。大半は導入からだ。そこで、この交換機の開発経験者を研究所から呼べ、となった。
 私が入社した九年前、外部からやってきた新総裁が、これからは研究者も開発に参加し、電話網の問題をメーカに頼らず解明できるように、と研究所に檄を飛ばした。私は、まさに、この交換機の開発会議の議事録を書き、2モジュールを担当し、教科書づくりにも参画した。新人の二年間は、この日のためだった。このプロジェクトは、私を待っていた。しかし、どこからどう手をつけるか、アイデアは無かった。
 ダウン対策とは別に、「内製化」も重要な目標だった。社内で問題を解明し、社員で開発する。それが大方針だ。そして、この交換機には、開発要望が積滞していた。毎年、全国から要望が五百件以上挙がっていた。要員は全国から集められていたが、多国籍軍は迷走のまま、すでに一年を経過していた。
 緑が多い武蔵野から品川駅前に異動にした。プリンスホテルの反対側には、牛肉の処理場と、どぶ板の飲み屋街しかない。駅の長い地下通路は、雨が降ると浸水し、駅員がボートで客を運んだ。沖電気の工場跡地に電電公社が衛星通信のためのビルを建てた。通信機用だった広大なフロアにただ机が並べられ、換気口には蚊取り線香が並べられていた。隣の汚水処理場から蚊がやってくるのだ。武蔵野では昼休み、中島飛行機跡の公園をジョギングしたが、品川でのジョギングコースは汚水処理場だった。

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