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 眠気も飛ぶような妙な夜であった。
 私はふと目を覚ますと窓の外で猫が鳴く声がしたので床から抜け出し、肌寒さに毛をそそけ立てながら寝床の緞帳をめくり、窓を開いて宙に白い息を吐いた。
 満月の夜である。
 はるか先に超高層の楼閣を拝みながら窓枠に肘を置き、腕でその身体を抱え込んだ。
 ここに居を構えてからもう数年になる。始めは違和感を生じさせた天井と地を繋ぐ卒塔婆の群れや、赫色に明滅する遊乱燈も見慣れて久しい。
 それの景色の真ん中に、一人のくノ一が屋根のへりから逆さにぶら下がってこちらを見返していた。
 私はひとつ、鼻息を吐いた。
「こんな夜更けに何の用かな?不忍しのばず
 女は腕を組みながら、
「やあ津ゝしんしん。夜食をもらいにきた」
「ということはまた仕事だったのかね?」
 私は寝巻きの内懐に手を突っ込みながら問うた。
「いかにも。今夜は後輩が小鬼にまわされて・・・・・しまってね。宥めるのに苦労した。そこから立ち直れるかどうかが忍の資格の有無を測る分水嶺となる」
 私の質問に不忍はくつくつと忍び笑いを漏らした。
「難儀なものだね。忍というのは」
 私は台所の土鍋から冷えかけの白米をよそい、次いでこちらは完全に冷えた味噌汁を温めにかかった。鯖の味噌煮にも再び火をかけ、次いで食に関しては性急で忍耐の薄い不忍の胃袋を抑えるために、昼間に買っておいた大福を三つ皿に並べた。
「ありがたい」
 不忍は窓から流水の如くするりと室内へ滑り込むと、ちゃぶ台の前に正座した。猫のようなしなやかさだ。そして大福を一つ手に取ると、目にも止まらぬ速さで口元にそれを運ぶ。口いっぱいに大福を納めると、頬を膨らませながら咀嚼する。音一つ立てなかった。
 こうして見ると、不和郷ディストピア一恐れられている暗殺集団の包する中でも最強格にある戦闘員とは思えないくらいの可愛げがある。大福を噛むたびに顔の横に垂らした髪の房が揺れるところも大層に愛らしかった。ひたすらに大福から目を離さない真剣なところも好感を誘う。
「ん?」
 ふと気になったのだろうか。不忍は窓の横にある私の書机に目を移すと、正座を解いて側転の要領で軽々と宙に身を浮かせ、とんぼ返りで書机の前に着地した。もちろん大福は手に掴んだままである。
 そこには書きかけの原稿用紙の束があった。分厚さは人の頭ほどもあった。
「なんだいこれは?」
 不忍はそれを指差す。そして何枚か適当に掴んでしげしげ眺め始めた。
 私はしかめ面を作ると、
「あまりお前のような女子おなごが見るようなものではない」
 と嗜め、ひったくろうとした。
 自分の書いた三文小説にも劣る淫文が他者の目に晒されるのはどうにも耐え難い羞恥を覚える。特に忍の少女が触手の怪物に散々に犯されて花を散らす様が赤裸々に克明に描写されている様子を、原型モデルになった少女に読ませるというのは自らの屈折し倒錯した欲望を少女に押し付けて悦に浸るに等しい。
 大変よろしくない。
「ふむ…」
 しかし何を思ったか不忍は私の手をすり抜けると朗読を始めた。
「なになに…『陰部から波のように得体の知れない液体が流出する。私はそれを浴びながらごぼごぼと笑い声を上げ続けた』。ふーん」
 私は悲鳴を上げながら、今度こそ不忍に覆い被さるようにして原稿用紙をひったくった。
「やめろやめろ!」
「別にそう大きな声を出さなくてもいいじゃないか。名文だよ」
「迷文だよ…」
 あゝ恥ずかしい。元より地上でしでかした乱痴気騒ぎのせいで複数の男女に命を狙われ、遥々地下まで逃げ込んできた身である。同じ失敗は繰り返さぬぞと文に吐け口を求めて満足を得るまでは良かったものの、行きずりで仲を結んだ殺し屋の少女に読まれてしまうとは。
「ほら味噌汁が温まったぞ飲め。鯖の味噌煮もあるぞ。うまいぞ」
 私はそう言ってお椀を不忍に渡す。
「あんな文を読んだ後じゃあねぇ」
 不忍は味噌汁の入ったお椀を鼻先で揺らしながら言う。
「お前はそんなに私を苦しめたいのかね?」
 私は自作怪文をせっせとダンボールに詰めて隠蔽する。朱色の筆で『コノ箱ニ触レルベカラズ』と記すと押入れの奥に押し込んだ。押入れには似たような箱が十はあった。
「旨いぞ、津ゝ。腕を上げたな」
 背後で不忍は味噌汁を啜ると満足気に頷いた。
「どうも」
 ひとまず不忍の気が逸れたのにほっと息を吐く。
 それからしばらく、私と不忍はちゃぶ台を挟んで黙々と過ごした。不忍が腹を満たしている間、私は硝子の杯で麦茶を飲む。ステンレスの箸が陶器の茶碗を突く音と、時折杯を木机に置く音だけが夜の静けさの中に響く。
「今日の仕事は大変だった」
 不忍が口を開く。
「非時香菓のシノギを狙う枯葉会傘下の若葉組が破斬魔からの輸送飛脚を襲ってね。どうやら組の若手に中毒者がいたらしい。襲撃に遭った際の応援ってことでうちらが加勢することになったんだが、連中、触手持ちだった。股間からたくさんウネウネ生やして後輩を誘拐して行きやがった。それから後は、想像にお任せするよ。とにかく奪還に手こずった。その代わりに散々にお灸を据えてやったがね」
「それは大変であったな」
 それから後がどうなったのかとても興味溢れるが、見栄の手前詳しく深掘りすることはしなかった。
「うむ…ごちそうさま」
 不忍は合掌する。
 では、と次いで窓に向かった。窓枠に腰掛けると、
「馳走になったな。謝礼はここに置いておくぞ」
 手裏剣一つと、銭の詰まった小さな巾着袋を置いた。銭は言うまでもなく郷中通貨で、手裏剣は武具屋に売れば金になる。手裏剣の方は製造の型番も年月日付の手彫りで刻印されているため、その道の蒐集家ならかなり高値がつけてくれるだろう。もっとも、扱い一つ違えてうっかり身体のどこかに刺そうものなら手裏剣内の爆殺機構が発動し、身を吹っ飛ばしかねない物騒な代物だが。
「いやいらん」
「遠慮するな。貴様のような淫文しか書けない三流作家は生活の苦労が容易く想像できる。そんな貧乏にはこれでもかなり足しになるだろう。『天の与うるを取らざれば、反ってその咎を受く』とも言う。遠慮も行き過ぎれば無礼というもの、ありがたく受け取って欲しい」
 そう言い残して不忍は背中から窓の外に身を投げた。
 その先に薄らとのっぺりとした平面の朝日が顔を覗かせた。遠くどこかで工場の始業の鈴が鳴った。
 一陣の風が吹き通っていった。
 私はため息をつくと窓から下を覗き込む。不忍がいないことはわかりきっていた。
 いる時は手を焼かせる娘だと思うが、いざいなくなると寂しさを覚える。
 やや消沈した気を感じながら窓を閉めた。

 続

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