剛腕少女

 僕の幼馴染はその人並み外れた剛腕で子供の頃から損ばかりしている。
 初対面の時、挨拶のつもりで握手をしたはずみに手首を折られた。まだ保育園の時分のことだ。なぜそんな無茶をできたと聞く者があるかもしれない。なんてことはない。彼女──剛腕寺火憐ごうわんじ かれんが人並み外れた膂力と頑強さを持っていたからに過ぎない。
 遊戯の時間に暇だから「高い高い」をして欲しいと頼み込んだ。しかし天井に頭を突っ込んで突き破って「他界他界」しかけたために、以来やっていない。
 非弱な僕を虐めにきた二人組がいた。小突いたり唾を吐きかけられたりした。見咎めた火憐が一人を持ち上げて頭上でくるくる回すと口から昼食をゲエと吐いて動かなくなった。それから園で虐められることはなくなった。
 ある日わんわん泣いているから問いただしてみると、飼っていたインコをうっかり握り潰して殺してしまったのだという。かわりに僕がいるだろうと慰めた。
 以来二人で過ごすことが多くなった。
 それから同じ小学校に通った。力の使い方を覚えたのか怪我をすることはなくなった。敬遠されていた彼女の周りに人が増えた。
 なんだか、少し寂しかった。
 それでも一緒に学校に通った。
 季節は巡り、二人して同じ中学に通った。
 
 空から少女が降ってきた。
 といっても誰も受け止めたりはしない。高重量にして超高密度の高速物体の射線上に身を晒すのは自殺行為である。
 案の定、空からすっ飛んできた彼女は校庭のグラウンドで轟音と共に砂煙を巻き上げて着地。土柱が起立すると、パラパラと小粒を撒き散らして地響きと共に地に帰った。
 歓声が上がる。
 校舎のあらゆる窓からは、この朝の恒例となったイベントを見ようと全校生徒が身を乗り出している。
 砂煙の中から少女の形に縁取られた影──剛腕寺火憐が姿を現した。
 火憐は一つ大きく息を吸うと、
「おっはよー!」
 窓ガラスが震えるほどの大声。圧に何人かが倒れた。
 歓声。
 八時二〇分。
 ロードバイクに跨って息を切らしながら遅刻ギリギリで校門から滑り込んだ僕にもその波動は到達した。相変わらず元気なものだ。
「草太!」
 僕の存在に気づいた火憐が駆けてくる。一四歳にして身長一八五cm越え、体重に関しては口に出すことが憚られる彼女だが、足音は不自然なほど抑えられていた。シャツの袖から覗く腕といい、スカートから伸びる脚といい、その筋肉の畝りが刻む陰翳は彫像のような芸術的威光すら放っている。
 惚れ惚れするほど美しい。
 対する僕は身長一五八cm。体重四八kg。喧嘩をしたら一〇〇%敗北。
「遅刻?」
「いや…ギリ……ギリ」
 喘ぎながら答えると同時に期限のチャイムが鳴った。
「担ぐよ。掴まれ!」
「ちょ……」
 有無を言わさず彼女はロードバイクごと僕を肩に担いだ。爆速で駐輪場にバイクを下ろし、教室まで肩車で駆けた。その間僕は舌を噛まないよう気をつけねばならない。途中、それを他生徒に見られて笑われた。
 ははは、と誤魔化し笑いをする。
 死にたい。
「おろしてよ!」
「遅刻したいの?」
 言ってもこの調子だった。
 よせばいいのに、火憐はそのまま教室のドアを開けた。途端、室内の視線が一気に突き刺さった。
 歓声。
 だから彼女と一緒に登校したくはないのだ。もう幼い頃とは違うのに彼女は無神経にもまるで態度を変えない。
「頼むから降ろしてくれ」
 懇願が聞き入れられ、やっとのことで地に足をつけた。ははは、と誤魔化し笑いしながら赤面を下に向けて席に着く。
 その隣に火憐も座った。こういうところまでツイてない。
 同時に教室のドアが開き担任の闇崎が入ってきた。ざわつく教室が静まる。体育教師を兼ねているこいつはクラス全員から敬遠されていた。
 奴は舐めるような視線で教室を見渡し、僕を見つけるとニヤリと笑った。
 やつの視線は大嫌いだ。胸のムカつく思いがする。
「オラお前ら席つけオラァ。草太ぁ、お前嫁に送迎してもらっていいなオラァ。なぁ草太ぁ。オラァ?」
 とセクハラスレスレな発言をした。
 ははは、と誤魔化し笑い。拳がギリギリと音を立てる。
 教室中が爆笑した。
 火憐はえらく動揺したようで、ずっこけそうになりながら、
「よ…嫁って!そんなわけないじゃんね?!草太?」
 と無神経に僕の右肩をバンバン叩いた。
 ……その剛健な膂力そのままに。
 そういうわけで窓ガラスを割りながら外へとふっ飛ばされた僕は、三階の高さから落ちて足を骨折し、肩を脱臼することとなった。
 骨がはずれる物凄い音がして、僕は額を花壇に激しく打ち付けてながら、
「ギャッ!」
 と悲鳴をあげる。
 そして気を失った。
 
「ごめんなさい」
 彼女は開口一番にそう言った。
 目が覚めると始めに知らない天井があった。
 そして傍に火憐がいて、泣き腫らした目をしていた。
「ひっ!」
 僕は驚愕に目を見開き、次いで反射的に彼女から逃れようともがいた。激痛が肩に走って悶絶する。
「動いちゃだめ!」
 火憐は僕を抑えようと手を伸ばしたけど、思いとどまったのか途中で静止した。
 その間に僕は寝かされていたベッド端まで逃げる。
 僕は痛む肩が寄越す恐怖の虜になっていた。未だかつて彼女に対してこんな感情を抱いたことはなかった。そしてそんな自分を誤魔化そうと笑おうとしたけど、それすらうまくいかない。口の端が引き攣っただけに留まる。
 額に巻かれた包帯がズレて目にかかった。
 露出したそれを見たのだろう。
「傷……」
 無造作に火憐は僕の額に指先を近づけた。
 その瞬間、あの時の記憶が脳裡に雪片の如く乱舞し、ドッと雪崩れ出した。
 悲鳴が漏れる。
 それに耐えきれなくて、
「やめろ!」
 それを振り払おうとして、手で叩いたけれども非力な僕にはどうしようもなかった。ぺしり、と貧弱な音がしただけだ。
 それでも明確な拒絶の意思は伝わったのか、彼女は素早く手を引いた。
「ごめん……」
 沈黙。
 その間に僕は彼我の間で交わされるべき言葉を探った。
「今は……」
 少しして口を開く。
「今は、君と話したくない。君が怖いんだ。このままじゃ……君が嫌いになりそうなんだよ」
 これが今言える精一杯だった。
 それは彼女の心をいたく傷つけたらしい。
 ごめん……と再度謝って彼女は力なく病室を去った。
 その背中に向けて何か言うべきだとわかっていたけど、僕はその言葉を知らなかった。
 ただ一人、自分の矮小さに愧赧した。

 それから僕らは疎遠になった。
 互いに関係が決裂した経験もなく、僕自身どう言って関係を修復したものか検討もつかない。
 まだ火憐に対して恐怖を感じるか、と問われれば僕は答えることができない。
 あの時、彼女に害意がなかったことはわかってる。
 けれども今回の怪我はあまりに久々過ぎたし、なによりも大きすぎた。
 幸い脱臼の後遺症もほとんどなく、僕は概ね普通の生活を送れるようにはなったけど、やはり火憐との関係は戻らなかった。
 僕のあの卑怯な物言いが彼女を傷つけてしまったことは十分に承知しているから、なおさら僕は彼女に対して申し開きができなかった。彼女は力が強くて鉄塊にぶつかっても無傷なほど堅固だ。けれどもその内心はただの一四歳の脆いと言ってもいい少女のものでしかない。
 それを砕いたことに、僕は向き合えずにいた。そしてそんな臆病な自分も嫌いだった。
 だから僕らは曖昧な距離感のままで過ごした。目が合ってもすぐにそらす。挨拶もそこそこ。登校時間も極力ずらした。
 火憐はあのスーパージャンプ登校をやめた。周りの生徒と肩を並べてとぼとぼ歩いているのをごく稀に目撃した。
 そんな様子だから、僕らの間に起きたことは噂となって校内を駆け巡った。何人にも同じようなことを聞かれ、何回も同じように「知らん分からんどうでもいい」で押し通した。
 彼女もそうだったかは知らない。

 そんなある日のことだった。
 体育の授業を終え、体育倉庫で片付けをしている時、闇崎が僕に言った。
「お前、最近剛腕寺と話してないなオラァ」
 正直その時は疲れていたし、なにより火憐との関係のことで頭がいっぱいだったから散々冷やかしを入れてきた闇崎に辟易していた。だから、
「そうですか」
 とだけ言ってその場を去ってやろうとした。
 すると奴はとんでもない早さで僕の方肩を引っ掴むと、思い切り壁に叩きつけた。
「おえっ」
 胸が圧迫されて呼吸ができない。
「お前なんだその態度はオラァ」
「なにを……」
 やつの目にはこれまで見たこともない光があった。それはえもしれぬ凶意と欲望の入り混じった視線だった。それに射竦められてしまう。
 次いで頬を引っ叩かれる。ふっ飛ばされた。口の中に血の味。
 床に倒れた僕にさらなる追撃。蹴りが脇腹に突き刺さった。
 あまりに唐突な暴力。
 闇崎は倉庫の戸を閉めると僕を押さえつけ、と足のあたりで何やらゴソゴソしていたかと思うと、ジャージの下を脱がせた。
 困惑に動けない。
 闇崎は下卑た笑みを浮かべる。そして、自らのジャージの下も脱ぐと、醜悪なそれを披露した。
 そこでようやっと脳が追いついた。
「ったく手間取らせやがってよぉ。あのクソ邪魔なバケモンがいなくなってくれたおかげでようやくてめぇと仲良くできるぜオラァ。お前もあんなクソ女より俺で童貞卒業する方がいいだろうオラァ。なぁ草太?」
 その時、僕を支配したのは猛烈な怒りだった。自身の貞操の危機よりも彼女を愚弄された怒りが勝った。
「…まえ、なんかが……」
「あぁん?」
「お前なんかが、火憐を侮辱するんじゃあない!」
 押さえつけられた状態から無理に闇崎をぶん殴る。
 だが──非力な僕の拳はぺしり、と奴の頬を打ったに留まった。
 それが奴を激高させたらしい。
「こんのクソガキャあ!」
 拳、拳、拳、その連打に意識が朦朧としかける。
 その時だった、錠のおろされた倉庫の扉が物凄い音を立ててひしゃげながら吹っ飛んだ。それは僕を組み伏せる闇崎の肩をかすると、背後の壁に突き刺さった。
 拳が止まる。
「剛腕寺……!」
 逆光を背に、火憐がいた。瞳は憤怒に燃えている。
「なんでここに?!」
 闇崎は慌てて立ち上がると、手を突き出して誤解だのなんだの言い訳を始めた。
 彼女は聞く耳を持たない。大股で闇崎に近づくと、奴の抵抗などないかのように肩口に手をかけ、ブチブチと肩から先をもぎとった。
 世にも悍ましい悲鳴。吹き出た血潮がコンクリートの床を濡らす。
「殺す」
 それは心胆寒からしめる冷酷な宣言だった。
 火憐はもぎとった右手をヌンチャクみたいに振り回すと闇崎の顔面を激しく打った。奴は吹っ飛んで背後に積み立てられた跳び箱に突っ込んだ。
 それだけに留まらない。火憐はぶっ倒れてビクビク痙攣している奴に近づいて、髪を引っ掴んで自分に向かせると、上顎と下顎をがっちり把握し、思い切り引き裂いた。胸の悪くなる音だった。顎骨と腱が露出して舌が独立した生命のように微動する。
 仕上げにもう半ば死んでいる奴を持ち上げて壁に向けてぶん投げた。その勢いは凄まじく、あまりの素早さに把握していた闇崎の腹の皮膚が破けて腸がはみ出し、遅れて叩きつけられた残りの部分は扁平になって壁に張り付いた。闇崎は絶命した。
 僕はそれを呆然と眺めていた。
「草太」
 火憐が僕に駆け寄ってくる。砕けやすい宝石でも扱うみたいに僕を抱き上げて立たせてくれた。
「傷……」
 腫れに気づいたのか火憐は叩かれた僕の顔に手を伸ばし──そしてなにかに気づいたように、指先を強張らせた。
 僕はその手を掴むと自分の頬にあてがう。
 妙に視界が滲んだ。
「ごめん」
 僕は嗚咽する。
「本当にごめん。火憐は僕のことずっと見ていてくれたのに、僕は……僕はひどいことばかりしてた」
「わたしも怪我させてごめん」
 潤んだ声だった。
「みんなに嫁だって囃されて、動揺してうまく力が抑えられなかったんだ」
 真っ直ぐな目が僕の瞳を射抜く。
 でも、
「わたしは草太を大事に思ってるし、草太が好き」
 ──わかってた。そんなのとっくの昔にわかってた。僕は素直にその気持ちに答えるべきだったのだ。
「ごめん。僕が、意気地なしなばかりに」
 だから、僕も彼女の気持ちに答えねばならない。
 僕は彼女を力の限り抱きしめる。
「僕も、火憐が好きだ。大好きだ」
 どうしてこんな簡単なことなのに言えなかったのだろう。
「ありがとう」
 飛び上がるような声音だった。
 泣きながら彼女も僕を思い切りぎゅうっと抱きしめる。
 そして二つは一つとなり──全身の骨が砕ける音がした。
「ぐえっ……!」
「っ!ご、ごめん!!」

 そうして僕は入院する羽目になった。
 とほほ。


〜fin〜

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