Ξ雨Ξ
雨が、降っている。
しんしんと降り注ぐ雨は空気の抵抗を押し退け、夜の路地に張った水面に弾けて飛沫を振り撒き、大小様々な円を描いていく。
雨は規則正しく、不変のまま景観を形作っていた。
その時、一際大きな波紋が飛沫を上げ広がった。水面を長靴が踏み抜いたのだ。水柱が打ち立てられる。
それは漆黒の装衣に身を包んだ男だった。硬質な輝きを帯びた防弾ベストの上からフードのついた琺瑯加工の外套を羽織り、右手に血刀を思わせる真紅の刀身の日本刀を握り込んでいる。
男は人として考えうる限り最速で移動していた。何かを追跡しているのである。言うなれば世界最高峰の陸上選手といえども彼と並び続けるのは至難の技であろう。男は刹那的に、かつ連続的にその足を高速で運び続けているのだった。
男が足を一歩前へ進める度に水飛沫が上がり、波紋が音符の様に連なって描かれる。男は複雑に入りくねった路地を右へ左へと曲がる。適当に歩みを進めているように見えて、男には自らの進むべき道が見えている様であった。
そして男は辿り着いた。路地の終着点、三方を廃墟の楼閣の壁に囲まれた広間に。
そこには先客がいた。ビニールの様な黒い質感の膚を持ち、鎖で雁字搦めになった死体袋を思わせる艷やかな異形。それは頭頂に天使の様な、しかし黒々とした輪を頂いていた。背中に生えた一片の羽と黒ずくめの軀が烏を思わせる。
「やっと追いついたぜ」
男は真紅の刀を地面に突き刺すと、指の骨を鳴らし、そして覆いを上げた。
中から現れたのは楽しげに笑う男の顔。ツイストパーマのかかった黒髪、彫りが深い顔立ち、高めの鼻、黒目がちで奥二重の瞳、線は細めだが口元に意志の強さが現れている。
「烏、成仏の時間だ」
宣言と共に振りかざされる刀。雨に濡れて妖しく光る。刀身を返し、居合の体勢をとる。
対する烏と呼ばれた異形は、男の殺意に反応したのかその表面を微動させる。どこからか唸り声ともとれる異音を発し始めた。
互いに微動だにしない一瞬が続いた。だが所詮それは刹那。束の間過ぎ去るものでしかない。
踏み出した。骨の力矩《トルク》を脚部に叩き込み、その運動エネルギーでもって地面を蹴。体を押し出し、烏へ肉薄せんとする。路面が砕かれ、宙に土柱を打ち立てる。
雨が静止した。それほどの加速。頬に当たる水滴が痛いくらいだ。しかしそれは男にとって何ら障害と成り得なかった。
光線の速度で烏に肉薄。真紅の刀を横薙ぎに振るい、その身体の一刀両断を試みる。
烏が蠕動した。死体袋の皮膚から突き出した羽を伸張させ、双剣と化さしめたそれを瞬足で払う。男は上体を反らし、斬撃を回避。続く足払いも刀を支柱に宙返りの要領でいなして見せた。
両足を地につけた男は後方転回、追撃を寸毫で躱し、距離を取る。真紅の刀身が雨に濡れて煌めいた。
「この程度か?烏」
烏が唸る。言葉は通ずともその意図する事は理解できるとでも言う様に。
それを見て男は笑う。
「そうか、もう死ぬもんな」
今度は烏が仕掛けた。その羽を交差させ、胴体を寸断する構えだ。
一閃。
漆黒の軌跡が宙に走る。だが男はそこにいない。烏の視界の遥か上、路地を見下ろす複雑に絡み合った電線の上で、異形を睥睨していた。
烏が察したが、時すでに遅し。男は跳躍し、体を縦回転させ蹴撃。烏頭部の輪を砕いた。
その衝撃は凄まじいものだった。路地に乱立する電柱を尽く揺るがし、水面を震わせ、廃墟の硝子を砕いた。
烏が断末魔の悲鳴を上げる。だが男は止まらない。刀を握ると烏を滅多斬りにした。腕部の膂力が唸りを上げ、烏を切り裂き、その内から黒い液を余す事なく吹き出させようとしているらしかった。
「さてと……これで仕舞いにしようか」
粗方切り尽くした男は誰にともなく言うと、右足を時計回りに宙で回転させ、その遠心力の勢いを殺すことなく左足で回し蹴り。
その蹴撃を食らった烏の頭部が飛び、路地の地面に音を立てて落ちる。やがてそれは火花を散らして現世から空滅した。
それを満足げに見やった男は刀を地面に突き刺すと、懐に手をやり端末を取り出した。何やら弄り始めると、誰かに向かって通話をはじめる。
「……おお、俺だ。烏の駆除を完了、今から戻る。ボーナスは弾めよ?ああ、じゃあな」
それだけ言うと男は刀を担ぎ踵を返して去った。
後には雨の静けさと規則正しく広がる波紋だけが残った。
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