爪癖

二十二時過ぎに喫茶店のシャッターを閉めた.重苦しい気分が立ち込め始めた.涙が止まらなくなることや,動悸や冷や汗が止まらないこと,世界が崩壊していく感覚,窓の外やタオルケットですら敵に感じてしまうような息苦しさを,常の三割感じているのだが,
今の私はとにかく一人になってみたいと思っていた.寂しい,ということからは私が私しかいない限り逃れられなかった.私と全く同じように生きている人,同じ考えを持っている人,或いは与える方か与えられる方か,ということを考えれば全く等しい人と居ても満たされることは無いだろう.かといって全く等しい私を右と左で分けてみても,それはそれはただ私の中で私が自問自答を繰り返しているだけでこれまた寂しいということには変わりなかった.かと言って他人であれば同じ感情を共有できるかというとそういうことでもないのだった.私の複雑に考えていることが表面を正論で撫でてまとめられ,それってつまりこういうだけでしょう.と言われることが,私も他人にそういうようにすることを知っているが,同じように,違う方法で,思考がどんどん複雑に迷い込んでしまっていることを他人に求めているのかもしれないと思った.私は人を一人呼び出した,「今日の夜もし暇なら,厚着をして外へ出てきてくれませんか?」
何もかも駄目だ,と思ったときに解放されてくる衝動性を捨ててしまうことが大人びるというようなことかと思った.大人というのはもっといろいろなことを諦めていて,ゆっくりと物事を考えられるものだと思っていた.しかし私は未だ衝動的だった.雷が響いて夜中に大雨が降れば裸足で家を飛び出してそこらの花をむしり取ってしまった.
真っ暗で,人気がなかった.つまりここでいきなり走り出しても誰も奇異の目で見ないということだ,と思いながら,大きな講堂まで歩いてきた.盗賊,われはただ一度入学をしたときにこの中を見た,そう,そう,食堂は下へ続いていないが.ここは馬鹿みたいにだだっ広く昼間も木陰に人が昼寝していたり談笑していたり,この前皆既月食が起こったときには望遠鏡を持ち寄った人たちがここでみんな座り込んで空を見ていた.それはそうと,私は最早ここを夜中庭のように使っていたため,毛布を家から持ち出してそれを被って,空を天井にして横になった.ときどき風が吹いた.それがとても心地良かった.忙殺から解放されて世界と一体になったと思った.芝が夜露で濡れていたから,垂直抗力が湿り気として分かった.そしてきっと彼女が発見してくれるだろうと信じて,目を閉じた.しばらくして,遠くから自転車のブレーキ音が聞こえた.私はまだ目を開けなかった.足音が近づいて,私のまわりを一周したあと,遠ざかっていった.私は怖くなってきた.警備員さんが来て,私のこの自由の場所を奪ってしまったらどうしよう.
強い光が瞼を貫いてきた.私は意地張ってまだ目をつむっていた.彼女は私の顔にフラッシュライトを当ててまじまじと見ていた.恥ずかしくて,今起きたというふりをして,あるいは,眩しい,邪魔をするな,という不快をあらわにして,眉間にしわを寄せながら目を開けた.ぐずぐずしていると,彼女は私の毛布を剝いできた.「おはようございます」「ああ,おはようございます」「本当にいたんですね」「本当に来たんですね」「あなたが凍えても貸せるように,上着を余計に着てきました」「はい」
彼女は私の隣に倒れこんで,空を仰いだ.「ああ,いい気持ちだ」とでも言うような表情をしていた.
「それで,何か悩みが?」「まあ,慢性的に誰しもそうな気がします」「それもそうかもしれませんね」「はい」このとき私は特段悩みがあるわけではなかった.ただ,慢性的な感覚的鬱憂性という遠い気質が,群生する桜が,体力を使い切って顔を出したのだ.私はこのときまだそれが分からず,俯いて黙り込んでしまった.今度口を開いたのは彼女だった.「最近,人の感情の根源を考えていました」私はこのとき,この一言でとても嬉しくなった.この目の前の人が,考えなくてもいいことを変に悩みこんで路頭に迷っていることが私の気分を非常に高揚させた.「だから,君が今何を考えてるのかと思って,それを知りたくて,ここへ来たんです」私はこの一言一言を疲れた日に沈む湯船と同じ心地良さを感じた.「続けてください」「例えば,私は,すべての基底に論理的なものがあると思っていました.もっと言えば,そうであってほしいと思っていました」「そうではなかった?」「論理の根源に,感情があるのかもしれないと思ったんです.自分の,気分の良くなるように,筋道を立てているだけなのではないかと思い始めました」「きみ,面白いね」私は気分が著しく良かった.彼女の手を,厚い上着越しに握った.「どうしていま手を握った?」「握っていないよ」私はその力を強めた.「押しつぶしていると言いたいの?」ここで,凍えるから,と答えるのはナンセンスだと思った.そうしている方が気分が良いから,と正直にも言えなかった.そして私は,「あなたは,私ではないのですか?」と言った.「違いますね」と彼女は言った.私は私の左の手のひらを触って,「これは,私です」「そうですね」次に私が着ている服を自ら触って,「これは,どうでしょう」「それもあなたの一部かもしれません」「この毛布は?」「どうでしょうね,あなた自身はどう思っていますか?」「私にはいまもうこの叢も私のように思えます」「垂直抗力を与えているものは,あなたではないのでは?」確かにそうだと思った.しかし,「それじゃあ,私がこのように両手を合わせたとき,どちらが私なのでしょう」「それもそうか」「それでは,あなたは,私ですか?」「どうでしょう」こうやって思考的な迷路に迷い込んでいくのだと思った.少し衒っているうちに,事態は思いもしない方向に進んでいくのかもしれない.それは素晴らしいことだと思った.そうあるべきだと思った.つまらないと思わなかった.この夜をきっと何年先も覚えているのだと思った.ところで,私が彼女の手を取ったのは,何の論理に由来していた?私は生きていると言った.その時彼女はそれをどう解釈したのだろう.彼女は,こちら側に寝返りを打って,視点を空から私に移した.私の目を,じっと見ていた.それがわかるくらいに,私も彼女から目を離さなかった.息をしているのが分かった.「じゃあ,風邪をひかないように」と言って彼女は起き上がった.「もう帰るの」「うーん,」私は寝たまんま腕をあげた.「何」「起こして」「どうぞ?」「駄目だ,届かない」「所詮その程度ということです」と言って彼女は口をパクパクした.「噛んでいいよ」「本当に噛むよ」「私はいつでも生きているよ」
第二関節に痛みが走った.彼女がそのとき,私にとって何よりも正しいような気がした.
私は彼女の手を振り払って,立った.そうして何度か草を踏みならした.シワシワと小さな音が聞こえた.「じっとしていられない」「良いよ,きみは,昼間よりも夜中の方が元気みたいだね」「知ってる」そう言って,私は草むらを駆け回った.露でジャージの裾がビショビショになっていった.足の裏に枯草がへばりついた.気分が著しく良かった.まだ動かずにはいられなかった.「まだ帰りたくない気持ちだ」「じゃあ,お散歩しようか」「します」途中,白詰草の群生があった.「花冠を作りたい」と言うと,「作り始めたらわたしは帰るから」と返ってきて,私は俯いて固まってしまった.「わかったわかった,迷ってくれてなんだか嬉しいよ,一緒に行こう.またそれはいつでも作れるでしょう,でも今日のわたしは今日しかいない」「それもそうだ」
そうして私たちは歩き始めた.私がまたも走り出すと,彼女は「ああ,身体が,病体がやられていく,緩やかな自殺だ」と言いながら自転車を片足に引っ掛けて車輪を回し,後ろに追いついた.
それが気になった.「私もそれができるようになりたい」「いいですよ,教えてあげます」
「右足を乗せて,体重を任せます」と彼女は実演して見せた.私もそれを真似てみたのだが,うまくいかない.「もっと寄りかからないといけないのでは?」「そうすると向こう側に倒れた時どうすればいいかと思って」「転ぶことはないよ,左足で地面を蹴ってスピードをつけるといいかもしれない.それから右足でもペダルを少し後ろへ蹴ればそれでもスピードが出る.ジャイロを利用していかなくちゃいけない」私はそれを,とても論理的だ,これの底に感情はないだろう,私が理論と論理をごっちゃにしているのかもしれなかったが,無論,その通りにしてみれば随分滞空時間が長くなったように思われた.そこで下り坂に入った.バランスのとり方が分かった.ブレーキをかけて,加速しないよう釣り合いをとった.
「上手だ,覚えが早い」「そうなんですよ,いきなり伸びるんです,私」

気分が晴れない,気分が晴れない.あまりよく覚えていない.ただ少しずつまた気分が悪くなっていった.

気味良くなって倒れこんだ彼女を撫でていたら,突然グイと引き寄せられて暗い部屋の中で私はバランスを崩し,彼女に覆いかぶさる形になった.アウトロがまだ流れていた.彼女はすぐ私を跳ね飛ばした.言葉は無かった.
私は帰りたくなった.今すぐ逃げだしたくなった.最悪だと思った.積み上げたものが臨界に達して全部壊れてしまったと思った.

泣きながら歩いて帰った.この世界には人間しかいないことを再認識して泣いた.途中,もう意識が眠気で朦朧となりながら花冠を編んだ.大きなトラックが目の前の道を通った.白詰草も露でひどく濡れていた.

私はこう言った.「感情が先に来る論理というのは.ただの正当化に過ぎませんね,私はそう思います.思いました」「まあ,そうでしょうね」
私は苛ついた.
「妥当性のある言い訳です」「ごめん」

のちに,理性が飛んだと言ったお前を私は許せそうになかった.誰も彼も人間だった.
「もう少し自分を律せる人だと思っていました,実際私が手を取っても困った表情をしていた」
「しかし,すぐ我に返って,どうしたらいいかわからなくなって,突き飛ばしたんだ.ごめん」「まあ,身体なんか,血肉と精神を包んだ皮膚でしかないので」「あの時,何を考えていた?」何を?「あのね,齢二十の小娘が考えていることなんか」
嫌な気持ちだった.

「お前は私のことをなんだと思っているのだろう.私は確かに一瞬本当に分かり合えた気がしたんだ.お前のことも私のことも全部理解した気持ちになった.それが違かったんだ.私は何なんだ?あなたの中で.他人として生きているか?私はあなたのことを素敵な人だと思っていた.理解できなかったからだ.人間味が少しな無いように見えたんだ.きみも私を理解に苦しむものとして多少同じように気に入っているのだと思う.ところでそれは,他人としてか?一人の女性としてか?それとも,深夜泣きそうになったときにないよりはマシと言えるような大きくてふわふわなぬいぐるみのようなものだろうか.私はお前のことをこれまで見たことのない生き物だと思って勝手に期待していたんだ.でも,そうじゃなかった.私ごときにほだされてしまうような人間を私はどうやって尊敬したらいいのだろう.しかしこういうことが勝手だということを私は分かっていた.いつか失望することを分かっていた.それでもお前も所詮人間だということが分かって少し安心した.もうここで縁を切ろう.私はこれを求めていたんだ.この高揚も虚無的な感情をお前と関わらなければ得られなかった」
「私に,変な期待を抱くのはやめなさい」
「無理ですね」
「もう,関わりたくないと言うんでしょう」
「はい,もう貴方から得られるものがもう無いので」
「君は損得勘定で他人と関わる節がある」
「損得勘定以外の感情なんかないですよ,関わっていて何も得られない人と関わりたくないだけでしょう」
「ああ,そうやって君は生きていくんだ.気まぐれに他人と縁を切っても,また誰か他の人がやってきてくれるのだろう.でもそれは君が,どれだけ理屈で取り繕っても,根本が優しいからなんだろうね」
「ありがとう,また仲良くできると良いですね」
「どうだろうね」
論理的にお話ができる人は破綻していない言い訳を上手に話すものなのかもしれないと思った.きっと違うだろうと思った.見てくれの良い偏見で丸めた皮膚の破けたのを汚いと思っただけでそれもまた先入観の一部だった.申し訳ないと思った.それに,彼女の哲学が私と関わって混ざってしまうのも嫌だったし,私も私のままでいたいと思った.それでもほんの一瞬の分かり合えたような錯覚が,きっとこの先の私を何度も助けるだろうと思った.
夜が明けようとしていた.

私は深呼吸して,彼女の連絡先を消した.

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