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「口紅」

「本記事は、ある人の散文(或いは詩)を元に、私が独自の解釈を交えて物語化したものです。最後に載せているので、そちらも合わせてお読みいただければ幸いです」


 五月病に罹患した。気怠くて鈍い空気が小部屋に詰め込まれ、じっとりと纏わり付く湿度は梅雨の気配がする。いや、煩わしい。別に夏は嫌いでない。でも季節の変わり目の、このどんよりとした重苦しさは、ひどく私を憂鬱に誘う。

 ああ、出かける支度をしなきゃ。
鳴る予定だった、携帯のアラームを止めて、うんと頭に力を入れる。

 私は今年で、大学二年になる。去年は、いいえ、従来私という人間は、進級を案じられてきた。人々の慈愛と慈悲に挟まれて、やあっと生命を保っている。社会に出たらどうするの、と問われる事があるけれど、私を受け入れる社会なんて、くたばればいい。なぜって、きっと長続きしないもの。

 今日は、10時半過ぎからの、二限目に講義がある。間に合わせるため、いつも6時に目を覚ます。お家から大学は近い、けれども、身支度に最低で2時間かかって、余裕をもたせている。女の子はお出かけの用意に時間がかかるというけれど、私は殆どが休憩に当てられる。もぞもぞと、ベッドから右足、左足と投げ出して、立ち上がろうとして、くらくらする。誰も見ていないのに、なんだか気恥ずかしくて、逃げるように洗面台へ向かう。

 少し冷たい水で、ぱしゃぱしゃ、顔を洗う。ひょっと顔を上げると、うつろな視線と目が合う。やあ、と笑ってみせると、彼女もにっこりと笑った。私と正反対に生まれる、笑窪が愛らしい。徐に指をうずめたくなって、手を差し伸べると、彼女も一緒の魂胆だったらしく、コツンと指同士が邂逅した。

 次に、お顔に色を載せて、魔法をかける。何度も、何度も、通った線をなぞり、眠たげな瞳はあどけなく見える。仕上げに、メルティールミナスルージュのリップを塗って、両の唇をすり合わせ、いじらしい蕾の花咲くように、ぱっと口を開けた。真向かいの、呆けた少女は消え去って、ぱっちりとした女が私を見つめる。私ははっとして、お化粧ポーチの一番底から、CHANELと書かれた口紅を取り出す。

 中学の頃、お母さんの口紅をつけた。適量もわからず、ぐってりとして、赤色は白い肌でやけに際立った。およそ校舎で、お菓子を啄む人が抱くような、後ろめたさと高揚感に支配され、私は当時付き合っていた、彼のもとへ駆け出した。どんな反応をするだろか、彼のことだから、似合ってないって、カッと笑うかもしれない。それか案外、軟体動物のようにくねくねと照れ始めるかもしれない。どちらでも、私にとっては幸福だった。いつもの渓流で、彼を見つけた。彼は私を認めると、私の目線の少し下を見つめながら、ぬらぬらと歩み寄り、抱擁に似たキスをした。

 それから、私は、二度とこの口紅をつけなかった。

 大切な箱があった。私はどこへ行くにもそれを抱えて、無くさないように、壊れないように、慎重に愛していた。ある時に、本当に中身はあるのかという不安と、好奇心に気圧されて、そっと蓋に手をかけてしまった。中で漂っていた、得体のしれない、何かは、ふわふわと風に溶けて、あっという間になくなってしまった。私は悔しくて、嗚咽に似た泣き声をあげながら、宙を掴んでは透かし、泣いて、透かして、泣いて、くたくたになった頃には、空虚な箱が残った。せめて一つ、残り香を確かめようと、顔を近づけると、隅っこに小さく「CHANEL」と書いてあった。

 どっと胸の奥底から、マグマの吹きこぼれるように、嫌悪感が湧き上がってきた。私は耐えられなくなって、ぐわんぐわん揺れながら、トイレに駆け込み、悪いものを、だらだらと吐き出した。大学、バイト、試験、飲み会、自炊、クレジット、そしてお化粧。むせびながら、飲み込んだものが溢れる。こんなにも、どうして。

 やおら、両の手で乱雑に、ぐいぐいとチークを剥がす。こんなの、こんなもの。マスカラは涙と混ざって、人差し指を黒く染める。いやだ。いやだ。もう、顔がなくなるぐらい、掌を出鱈目にまわす。途端、頬に痛みが走る。ふと我に返ると、手には、鉄の香りがする液体がついていた。私は酷くげんなりして、しょぼしょぼと洗面台へ立ち返る。鏡を覗くと、小さな切り傷ができていた。それを見つけた私は、宝物のように撫でた。

 森で駆け回って、ころんだ少女が、可憐に笑っていた。


「不甲斐ない、口紅映えて、泣いていた、恐る恐る明けた箱、その瞬間、影がゆらり揺れて、ふわりと消えた。これは、大失敗。隠せその蕾、花開く前に。包めその林檎、梅雨の中転がって、腐っていく前に。筆先の透明が、混ざって混ざって汚くなってしまうのを防ぎたくて、泣いて、涙で薄めようとした。」(原文)

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