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何故陽キャはエスカレーターにカートを落としてしまうのか

 先日、若者が降りエスカレーターにショッピングカートを落とす映像が出回った。聖人君主たる皆様は、彼らがいかに阿呆で迷惑かを語り、日本の未来を案じているかも知れません。

それでは、何故彼らはあの様な行動に至ってしまったのか。私は彼らの動機を構造と心理の面から分析していこうと思います。なぜなら、人の出来に高低差はあっても、メリットデメリットの計算が出来ない人間は少ない。何の意味もなく小銭をドブに捨てる人間はいないのです。

傍観者効果

 集団心理において、責任の分散というものがあります。これは人数が増えるほど、個人の責任や損失が軽くなったと錯覚するもの。例えば、群れてる時だけやけに上から目線で、ドヤ顔で「アイツ不細工だよねw」とジャッジを下す不細工がこれにあたります。5人グループであれば、もし相手が怒っても自分にかかる敵意は5分の1になるので、人は群れると大胆な行動を取ってしまいます。

動画では「カートを落とした人」「横で見てる人」「撮影している人」の少なくとも3人がいるので、一人当たりの罪の意識が軽減されていた可能性が高いです。

社会性の高さの罠

 陽キャは社会性が高い。孤立している陽キャを見つけるのは、単身で猪木に勝つより難しい。勿論やらかしたばかりで、見放されている場合は除外します。

悲しいことに、善悪の基準はどの社会に属しているかで決まります。日本で猫を食べると炎上するし、スーパーエキゾチック泥飯教において人間の飼育は禁止されています。恐ろしいことに「目新しいことやったら勝ち!」の小社会において、カートを落とす勇気と行動力、企画力は善になり、さらに仲間が笑ってるから大丈夫だ!と勘違いしてしまうのです。

因みに、何であんな不良がモテるんだ!と嘆きの限りを尽くされた方がいらっしゃれば、これが理由です。学校という切り離された社会で、暴力という単純明快な権力への対抗手段はありません。よって、時に最高権力者である先生ですら脅かす不良は、外の社会について明るくない人間からすれば、最も優れた人間として認識されるのです。もし全ての教育機関を経て、未だに不良にときめく場合、現在の環境を省みた方が良いです。知らんけど。

クソな小社会の形成

クソはクソとしかつるまない(ドロ・ハン 1759〜)
皆さんクソは好きですか?私は嫌いです。そうです、みんな嫌いです。だから、クソは誰かと一緒になろうという時、余った者同士で組むしかない。今回問題を起こしたのは社会性のあるクソなので、社会性のないクソはこの集団に属することが出来ません。私のことです。

クソはまともな人に距離を置かれ、残り物が集まる。まるで腎臓みたいに、社会全体では差別が行われています。私にも優しくしてください。
残り物が集まった結果、クソはクソな事を正しいと勘違いして、クソな振る舞いをしてしまいます。これによって更にまともな集団から距離を取られ、ズブズブとクソ道を極め、師範代になる頃には刑務所で健康的な暮らしをしています。

行うべきは批判だけではない

 私は性善説を信じてはいませんが、生まれながらのクソムーバーは存在しません。何故ならその方がメリットがあるからです。
いくらクソでも、やる事はクソじゃない。そんな人は沢山います、私のことです。

そこで、彼らには道徳を説くことはせず、社会全体で見て正しい行いをする動機付けが必要です。なんでおかしな奴らの為にそんな手間をって思うかもしれませんが、貴方の考え方は、貴方が築き上げたんですか?

最後に

 遺伝子があって、家庭環境があって、生まれながら平等なんてあり得ません。あいつクソやんって思っても、ちょっと無理のない範囲で、理解の手を差し伸べても良いんじゃないかと思います。貴方の事です。

念のため、理解したから優しくするべきとかではないです。浮気や詐欺などのクソムーバーは、諦めて沈めてください。

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