わが師 梅路見鸞
内弟子 池田正一郎氏に聞く
弓道家・梅路見鸞。
中西政次『弓と禅』(春秋社)に無影心月流流祖として紹介されているこの人物は、多くの伝説的逸話とともに知る人ぞ知る武道家として今日まで一部弓人の間で語り継がれてきた。
その名に比して、今日まで実像が語られることのなかったこの弓道家に昨今は多方面から興味が高まっていたが、そんななか、梅路見鸞の側近として『弓と禅』にも登場した池田正一郎・神奈川県海老名市弓道協会会長が『弓道四方山噺』を発刊し、話題を集めている。ライフワークの古文書研究のかたわら、自宅道場で日々弓道指導に勤しむ池田氏に梅路見鸞老師の思い出を語っていただいた。
(平成11年7月26日会見)
※所属や肩書きは、季刊『合気ニュース』に掲載当時のものです。
<本インタビューを収録『武の道 武の心』>
梅路見鸞
梅路見鸞(1886~1951)
うめじ けんらん 本名 山本寿六(一説に日出夫)
大分県生まれ。虎洞、天龍窟とも号す。
9歳で円覚寺に入り今北洪川、釈宗演老師に参禅し、25歳で印可を受ける。柔道、剣術、居合、馬術などの武芸ならびに書、浄瑠璃、俳句、茶の湯などの芸道を修行。いずれにおいても傑出する。大正5年、橘流弓術32代羽賀井和順の門に入り、33代を受け継ぐ。弓道による人間形成を構想して弓禅一味、射裏見性を標榜する無影心月流を創始、大正15年大阪箕面に『梅路武禅道場』を開く。昭和9年『武禅』(機関誌)を創刊、日本の弓道界に大きな波紋を起こす。
“外したら今日から弓を捨てる”と宣言して2本続けて的の中心に命中させる「一手受け負う」など、神技的なエピソードが多々残されている。
中西政次『弓と禅』において無影心月流流祖として紹介され、広くその名が知られるが、近代の弓聖として知られている阿波研造も梅路見鸞を心の師として仰いでいたという。
わが生い立ち
―― 先生は梅路見鸞老師の数少ない内弟子のお一人だったそうですが、梅路老師との出会いをお話しいただけますでしょうか。
はい。ですがそれをお答えするには私の生い立ちからお話ししたほうがいいでしょう。
私は兵庫県御影に生まれました。入籍のため、故郷の海老名に帰り、ここの小学校を卒業して父母の住む茅ヶ崎の家より湘南中学(現湘南高校)に通いました。二年生の時、下級生の父に弓道範士富岡貞吉という方がおられて、弓道場を寄付されて弓道を教えて下さった。これに参加したのが私の弓道の始まりとなりました。
その頃は弓道の何たるかも知らず、中(あ)てっこに一喜一憂していました。よく稽古しました。小笠原流の弓道でした。夏休みには茅ヶ崎から毎日、大船の富岡先生の明心道場に通ったものです。
旧制高校一年生の時、初めてインターハイに出て、大前に立って引いたのですが、あまり緊張して弓倒の時、審査員の先生の頭に弓をぶっつけて……アァいけネェ、と青くなったりして(笑)。
――その後ますます弓道にのめり込まれた……
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