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【特集】岩間と植芝盛平

翁の修業と瞑想の地をさぐる

(1)岩間 合気道生誕の地  文・スタンレー・プラニン
(2)岩間の開祖の技をまもって  斉藤守弘 茨城道場長
(3)岩間道場設立をめぐって  赤沢善三郎 戦前の内弟子
(4)岩間 大先生と過ごした日々  磯山博師範 合気道八段
                                                      島田栄 茨城県合気道連盟会長
(5)一を知って十を知る自分で感じる稽古を  斉藤仁弘師範

くぬぎ林の森厳としたたたずまいのなかで、
戦中戦後の日々を修行と瞑想に没頭する植芝盛平
盛平武道の究極の姿である〝和〟の合気道への第一歩が踏み出された。

我々が合気道の発祥地はと聞かれたら、ほとんどが即座に本部道場のある“東京”と答えるだろう。しかし、合気道史を注意深く見るならば、東京以外の名が浮かび上がってくる。
本特集では、植芝盛平が自分の修行のための道場を建て、また合気神社を建立した岩間町(茨城県)に注目する。開祖はこの地で、現代合気道を開花させた原動力“武産合気”を生み出したのである。

本誌編集長による岩間の歴史的考察エッセイにつづき、岩間で開祖とともに修業の日々を送った斉藤守弘九段、戦前の内弟子、赤沢善三郎、少年時代に入門した磯山博八段、島田栄、藤枝一弘、父守弘と共に岩間の伝統を守る斉藤仁弘六段の各氏にお話をうかがった。
※所属や肩書きは、季刊『合気ニュース130号』に掲載当時のものです。

(1)岩間 合気道生誕の地 
    文・スタンレー・プラニン

はじめに

 日本のみならず世界中の合気道道場では正面に植芝盛平翁の肖像写真が掛けられてあり、入門者のほとんどは、「合気道の創始者は?」と聞かれたら、植芝盛平と答えるだろう。しかし、盛平翁がいつ、どこで、どのように合気道を完成させていったかを質問されたら、たとえ合気道の中、上級の人たちでも正確に答えられる人はいないのではないだろうか。

 今日、合気道という武道がこれほど知られるようになったのは、開祖というより、藤平光一、植芝吉祥丸、塩田剛三、富木謙治、望月稔などの植芝の直弟子たちに負うところがはるかに大なのである。それには、第二次世界大戦と大戦後の諸事情が関係する。1950年代初期に現代武道としての第一歩をやっと踏み出した合気道だが、当時すでに70代に達していた植芝は茨城県の田舎に引退したとみなされ、道場運営、組織づくり、カリキュラム作成や昇級、昇段審査、国内外への指導員の派遣などは、主に上に述べた直弟子たちにゆだねられていたのである。
(2001年8月 ラスヴェガスにて)

岩間までの日々

 岩間での合気道誕生を述べる前に、植芝が茨城の農村に落ち着くまでの彼の経歴を簡単に述べてみたい。

 1883年12月14日、和歌山県の海辺の町・田辺に生まれる。生家は中産階級で、父親は町会議員を何年も務めている。中学校を卒業後、19歳の時上京し、商売の道に進もうとするが、1年足らずで帰郷。
 1912年、植芝は、北端の地北海道の荒地に田辺から入植者のグループを引き連れて移住、この田辺からの入植者によって白滝村が開村された。1915年、植芝は高名な柔術の使い手・武田惣角と白滝村近くの町で出会う。自分よりはるかに秀でた彼の武術に魅了され、以降5年間、植芝は大東流合気柔術を懸命に学び、惣角の高弟の一人となる。

 7年間を北海道で過ごした植芝は、父危篤との知らせで北海道を去り田辺に帰る。帰途、回り道をして京都郊外の綾部に立ち寄り出口王仁三郎聖師(大本教の創始者の一人)に会い、父親の病快癒の祈祷をしてもらう。そののち、1920年、家族とともに大本の町・綾部に居住し、王仁三郎および大本教の忠実な支持者となる。王仁三郎も植芝に対し大本信者への武道指導を通していっそうの技の練磨をするよう奨励するのだった。

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