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岡﨑廣志 弓道範士八段

的に向かい自分を磨く
弓道は時代を支える人間をつくる道


「的というのは動きません。動かないから、
 迷いや心の乱れは必ず自分に跳ね返る。
 自分の心と対峙することが弓道の特長なのです」

現代における武道の役割とは何か。狩りも戦争も、弓が活躍する場がない今、社会に貢献できる人間を育てることこそが弓道の役割であると説く岡﨑廣志弓道範士。
弓道一筋に歩まれてきた氏に、弓の魅力と師からの学び方、日本が抱える課題についてお話しいただきました。

※所属や肩書きは、季刊『道』に取材当時(2012年2月23)のものです。
 山形県米沢 ご自宅にて。

<本インタビューを収録『武の道 武の心』>


弓道は自分の心と対峙する武道

―― 先生は、ご自身で弓道の手袋、弽(かけ)を作られることを仕事とされるほど、弓が生活の中心でいらっしゃいます。海外にもご指導に行かれていますが、日本との一番の違いは何でしょうか。

 海外の稽古生はなかなか深い質問をしてきます。たとえば「的の後ろに何があるんですか」と。
 「的の前」とは技術的なことです。「的の後ろ」にこそ弓道の大切な道があるのです。探究すべき道は「的の後ろ」にあって、心などの見えないものを追う。「的の前」は見えるもので、それは人に褒められるとか、成果がわかるものですね。日本は今、この「的の前」の見える部分ばかりを一生懸命やっているような気がします。「的の後ろ」のことは見えないから評価にならない。しかしここが武道なのですね。

 海外の弓道は、弓聖と言われた阿波研造(1880~1939)に師事し『弓と禅』を著わしたドイツ人、オイゲン・ヘリゲル(1884~1955)から始まっています。つまり東洋哲学・禅として弓道に入っているのです。ですから海外の人たちは、精神的〝修行〟として弓があるのであって、「試合を目的としないと思っていたら、日本に来てみたら試合の多さに驚いた」と言われていました。

 現在、形や作法に評価の占める度合いが多くなってきました。しかしそれは「見える部分」ですから、「的の前」のことです。それも大切ですが、弓を引いている時の心のあり方を重視する必要があります。的を見て、「中てたい! 上手と褒められたい」という邪心に心を奪われ、的に合わせて「今! 中る」と思って放してしまったか。それでは煩悩に負けたことです。そこからは感動は生まれません。卑しい弓になります。

 たとえば体操やフィギュアスケートなどは「技」に点数がついていますね。だんだんと現代弓道がそういうものに近づいてしまっているのではないでしょうか。
 弓は精神格闘技と言われてきたんです。弓だけが相手がいない武道なのです。的というのは動きません。動かないから、迷いや心の乱れというのは必ず自分に跳ね返ってくる。すべて自分です。自分の心と対峙することが弓道の特長なのです。ですから、そこを除いて、体操のようにしてしまうことには私は賛成できません。

 しかしそういったことを重視しすぎると、今度は現代に普及するものとして成り立たなくなります。公益法人の認定を受けた今、なおのこと弓道発展のためにも健康維持・スポーツ弓道等、いろいろな目的の弓道が求められます。これから大いに取り組んでいかなければなりません。そのバランスをどうするかがこれからの弓道の、そして日本全体の課題だと思います。

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熱心に岡﨑範士の講義を受ける海外の稽古生
ドイツの講習会にて 2000年頃

「狙うな」の本当の意味

―― 先生の師はどんな方だったのでしょうか。

 十段範士 安沢平次郎先生です。阿波研造に師事した方です。安沢先生ご自身は日弓連の役員などはされませんでしたが、「弓は安沢」と言われる方でした。上手に綺麗な射というのではなく、安沢先生が引くと他の範士の影がなくなる、武人の風格つまりオーラを感じさせる先生でした。
 ところが我々には訳がわからないことばかりおっしゃる先生でね。「宇宙と融和するんだー!」とか「的を狙うな!」とか。……狙わなきゃ中らないじゃないか、と若い頃は当然陰で……(笑)。

 弓を引いて、すぐに放すと怒られるし、途中呼吸しても怒られるから、ぐーっと我慢するわけです。「今なら中る、ここだ!」と思えば放したくなる。その誘惑が誰にでもあるのですが、それをやると怒られるわけです。するとさらに中らなくなる。訳がわからない。ただ、安沢先生が弓を引くと理屈抜きの雰囲気があったから、すごいなと思っていました。

 しかし今では私自身が、「お前は安沢先生みたいなことばかり言う」と言われています。「宇宙だ、自然界だ」などと言ってしまうものですから(笑)。「的を狙うな」などと言う人がいなくなってきたので「変わり者」と言われますが、そのかわり私は図解をして、なぜそういう言葉になるかを説明します。今は安沢先生が言った「狙うな」という意味がわかるんです。理論的に考えると理屈が通っているんです。

 「飛び道具としての身体」という原理からすると、「狙うな」が正しいんです。たとえば銃を何発か連続で撃った時に、ばらばらのところに弾が飛ぶのであったら立派な銃とは言えませんね。銃に癖があったとしても、同じところに弾が飛ばなければなりません。弓で言えばその銃にあたる「飛び道具としての身体」を正しくしておくのが本当なんです。ところが人間というのは「狙う」と力の流れに乱れが生まれ、狂う原因になります。道具である身体が崩れてくる。だから「狙うな」と言っているのであって、本当に的に矢が向いていなければ当然中らないわけです。「狙うな」というのはそういうことを超えた言葉なのです。

「武」とはできないことに対して
果敢に取り組むこと

 今、指導が教えすぎになっているんですね。昔はみんな口伝だったんです。しかもあまり教えてくれないので、先生のを見て自分でやってみる。怒られる。なぜ怒られたのかなと考えて、また先生のを見て、「ああこういうことか」と自分で察して、工夫をこらす。そうやって見取り稽古、工夫稽古を重ねたんですよ。ところが今は安易にマニュアル本をつくってしまいがちです。楽ですから。そこに書いてある通りでなければ駄目だとするから、人の稽古を見る必要がなくなります。当然そこには工夫もなくなるでしょう。ただマニュアル通りに器用にこなせるかどうかになってしまう。そうなったら、もう〝道〟ではないのです。

 こういう伝統文化には、どうしても「踏襲」ということが言われる。「昔はこうだった」とそれに則ろうとする。温故知新、そこから新しいものを見い出すことが大切である。弓道だってイノベーションがなかったら存在の意味がない。弓道は武道という、精神面と射技という運動面で成り立っています。精神面は人間としての生き方、考え方ですので、不変的な面があります。技術面や組織面では進化しなければなりません。

 私の考えですが、武道というのは、わからないこと、できないことに対して果敢に取り組むのが〝武〟なんですよ。踏襲するだけでは武ではないんですね。「武」とは「矛をもって足を使って前進する」という意味ですから、前に進む、技術革新をしていかなかったら、衰退の道を辿ることになります。ダーウィンが言う、「変わらなければ」生き残れません。

 踏襲だけでは時代とともに伝わることが小さくなっていって、そのうち生きた内容がなくなってしまう。今までずっと進化しながら変化しながら時代に合うようにやってきて現代に生きているのだから、今それをやらなかったら時代に取り残されてしまいます。ドラッカーは、これらを「すべてのものが陳腐化する」と……。


現状に満足せず、
「優勝」を疑ってみる

―― 先生は、天皇杯(全日本弓道選手権大会 優勝)を3回もおとりになっていらっしゃいます。

 優勝すればそれにもっと磨きをかけて次に向かうのが一般的かと思いますが、しかし私にはそれができません。天邪鬼ですから「同じやり方で何度優勝しても同じじゃないか」と思ってしまう。自分自身変なヤツと思ってしまいます。完全なものなどないのだから「今良しと思ってやっていることは間違っているはずだ」、今自分としてベターだと思っていながら、それに無理矢理あらゆる角度から弓以外からも取り入れてケチをつけて叩きます。「あれ? こんな考え方もできるのか」とひらめきが生まれます。「ああ……駄目だった」ということは年中ですが。優勝できたやり方を「正しい」とした上で修正しようとすると、必ず守りになって、壊すことが怖くなる。すると変わっていくことができないんですね。

〝身体〟が技を覚える
稽古をしなさい

―― 先生ご自身はどのようなご指導をされるのですか。

 私は基本的に指導が嫌いなんですね。怖いのです。45歳の時あまりにも早く八段をいただき、全弓連の中央講師を任じられて立場上しなければならなくなったからで……。
 「こうだ!」と教えることが怖いのです。自分はいつも壊しては新しくつくるタイプですから、今ベターと思って言ったことが次には変わってしまうからです。「それでは前に言ったことはどうする」となるわけです。ですから「私は今はこう思っている」としか言えないのです。「どーんといけ!」と、いいかげんです(笑)。「あなたのやり方だと理論的には少々不合理と思うけど、あなたのやりやすさがあるからね、感性を大切にしなさい」と。他人にはやりにくくても、あるいは少々不合理でも、それが「できる」ということが大事であり、またそれが自分のものである。指導者である私たちはそれをつくるお手伝いしかできないんだからな、と。あまり形や技にこだわると、そこに思いと心が留まるから駄目だよと。

 私は揮毫を求められると「無技」と書くのです。それは何かというと、「技は、稽古し、身につけるものであって使うものではない」ということです。技を使おうとすると、必ず意識がそこに留まる。だから駄目なんだよと。使うな、何もするな、必要に迫られた時に技は勝手に出てくるのだから意識的に使うのではない、ということなのです。ですから「技を覚える」ではなく、「〝身体が〟技を覚える」稽古をしなさい、ということです。そして技を〝使おう〟ではなくて、それが勝手に出てくるようになるまで訓練すればいいのです。
 だから「なんでもいいから、どーんとやれ!」と言うのです。中りはご褒美だよ、と。中ったから良いというわけではないのです。

結果だけに
目を奪われてはならない

 昔は講習会で講師が3人いたら、みな違うことを言うわけです。だけどその講師それぞれに、それを言う理由があるわけです。受講生をさておいて講師が議論をしている時もありました。
 講師がそれぞれ言うことが違って本気で議論する。それを受講生が聞く。すると「なるほどな」と。自分たちが求めるものの窓口が増えるわけですね。だからおもしろかった。それが、誰がきても何名きても同じことを言っていたらつまらないですよね。そのほうが効率がいいと言えばそうかもしれませんが、そうかなぁと。

 今、あまりにもそういうことが多い気がしますね。学校の試験でも、あれは答えを出す訓練であって、一つひとつ考えていたら時間内にできない。ふつう、研究といったら一つのことを何年も何十年も考えて答えを出すのでしょう。受験のための勉強では決められたことに従うことはできるが発想力豊かな人間は育たないと思います。違う答えの出し方のできる生徒が生まれません。

 それは、武道でも同じです。固定観念に合わせることを進めるだけでは駄目なんです。スポーツはルールがあって、そのルールの範囲の中で記録等競い合います。しかし武道はあらゆる状況に応じて道に則り結果を出すものだと思います。規格に合わせすぎると本質からはずれていってしまうでしょうね。それを本来のあり方に戻すのは、なかなか大変です。なぜなら、規格に合わせていれば、その規格内の結果につながりやすく、楽です。人間は結果がほしいですから、欲や我が働く。それを捨てたり、そこから脱することは大変なことだと思います。

 弓というのは何の役にも立ちません。昔は狩とか戦争の役に立ちましたが、今は浪費するだけです。弓が上手くたって社会的に何も貢献できない。健康面ではあるでしょうが、それでは大きな意味がないでしょう。弓を通して、社会に貢献できる生き方や考え方をもてる人を育てることによって、弓道は社会的存在意義が生まれる。弓道の存在の意味とは、今の時代を支える人間をつくること、それが一番なのです。

 とかく武道を猛々しいものととらえがちですが、それは違うんですね。もちろん「強くなること」は大きな武道の目的です。その「強さ」とは何を基準にするかというと、力や技だけでなく人として強くなれるということです。本当に「やさしくなれる」ことなんですね。私がいつもたとえるのが、赤ちゃんに威嚇する人はいないですね。それは力に大きな差があるからです。だけど、チンピラが肩で風切って歩くように弱い人間は必ず威嚇しますね、強く見せるために。だから強さとは「やさしくなれるか、なれないか」だと思うのです。そこを鍛えるのが武道だと思うんですね。

 しかし今、何でも手っ取り早く簡単に成果が出ることを求めるようになってしまっている。中った、上手い、きれいに見える……そこに評価の基準がいってしまう。そこだけに目を奪われてしまったら、武道というのは意味がなくなってしまうと思います。

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巻藁射礼(まきわらしゃれい)を行なう岡﨑範士。
悪魔祓い、場を清める儀式。弓は神事でもある 


心の豊かさが現われ
美しい姿となる

 武道は礼に始まり礼に終わると言いますが、何か格式ばったものを礼だと思っているようなところがあるのではないでしょうか。礼というのは本来、その人の人間としての豊かさ、人間性、優しさが形・姿として現われたものが〝礼の作法〟なんですよ。そういう形は無駄がないんです。
 「私はできますよ、上手でしょう」などと、取ってつけたようなこれ見よがしの作法は、全く礼の根本を見失ったものでしょう。慇懃無礼というものです。

 私は流石に素晴らしいと感じた作法があります。それはこの度の東日本大震災で、天皇陛下、皇后陛下が東北の被災地に足をお運びなされた姿をテレビで拝見した時でした。「これが礼の作法だ!」と心を打たれました。一般的に言う作法等、当然身につけておられるはずです。形式ばった姿などまったく感じさせられることなく身をかがめて被災者に寄り添われる様子に胸が熱くなりました。両陛下のお人柄が形となって表われたものでしょう。

 相手を思い、心の豊かなものが現われる。それは無駄な動きがなく、美しい姿となるんです。それに少しでも近づけるように努力する。そのなかに、礼法の形があればいいということなんです。それは弓もまったくその通りだと思います。

「子供のため」の
武道・スポーツになっているか

―― 様々な分野で、低年齢化が見られます。弓の世界も同じでしょうか。

 弓はあまり小さい頃からやるのは、弓の圧力もかかりますし、あまりすすめません。それよりも、子供はもっと全身的な走るなどの運動をしたほうがいいと思います。小さい頃からやって、それで弓が上手くなるかは疑問です。今のスポーツや武道は勝ち負けだけになってしまっていて、子供の身体を壊すような状態になっているのではないかと心配されるものが見受けられます。子供は体重も軽いし、あらゆるスポーツでの低年齢化は勝つためにはいいかも知れませんが、まだまだ成長する身体・関節等に負荷をかけて、競技生活が終わり後遺症等出れば後の人生が心配になります。成績のために小さい時から無理なことをさせてしまいがちです。オリンピックも「勝つために」しか考えていない。本来のスポーツって何なんだろうなと考えてしまいます。

 私は弓でも「中らなくても、下手でもいい」と言っているわけでははないのです。上手くなるためには、「勝つこと」は非常に大切な要素です。その「勝つこと」を探求するなかで、どう考えれば「勝ち」につながるか。そこに向かって取り組むことに意味があり、また取り組んだ結果として「勝ち」がある。

 ただ、後々子供の身体に悪い影響が出るようなことを、親や大人が「勝つために」と追い込んでいいものか。行政にとってジュニア養成は大切なことです。立場として成績を上げるノルマもあります。確かに両立はむずかしい面がありますが、子供を使い捨てることになることなく、将来を考えてやってほしいと思います。

天邪鬼気質から生まれる工夫

 私は若い頃30キロという特別強い弓を使っていた時があります。両手には合わせて60キロになる。それを引いて20秒もがんばっていると手が言うことをきかなくなる。「馬鹿だ、それでは天皇杯はとれないよ」と言われました。どんどん手の感覚もなくなります。早く放して中てれば形も崩れないし失敗は少なくなります。わかっていながら意地で頑張って持ち続けてしまいます。中る条件はだんだん悪くなります。早く中るところで放したい気持ちが生まれます。しかし「妥協したくない! もっと自分を追い込め!」。誰もやらないのは当然です。だけど、人がやらないことをしたくなる(笑)。「俺はそれで勝ってみせる」と、結局、私はそれなんだな。

 強い弓をどう引くか。思ったのは米屋なんですよ。昔の米俵は60キロあるんです。若い者でも担ぐのは大変です。ところが米屋の、ほんとうによぼよぼしたようなじいさんが、くるくると担ぐんです。それはなんで?と。力があるわけがないんです。結局リズムなんですね。体をうまーく使っている。弓も力で引こうとすると駄目なんです。力ではなく、リズムで身体をすっと弓の中に寄り添うようにすればいいのに、それを弓を自分の力で引き寄せるから負担がかかる。広い空間に思いを寄せ、弓と身体をお互いに寄り添わせればいいのです。形を力でなぞったら窮屈になります。万事に同じかな。
 私は弓の引き方とか、考え方が人とは変わっていると言われます。勝手に良く言えば個性というか、とにかく「人と同じことをしたくない」というのが私の基本ですよ(笑)。昔から天邪鬼なんです(笑)。

―― まず弓が好きということと天邪鬼がいろいろな工夫、努力につながっていったのですね。弓のことを話される先生は本当に楽しそうです。本日はありがとうございました。

―― 季刊『道』 №172(2012春号)より ――

〈プロフィール〉
岡﨑廣志 おかざき ひろし
全日本弓道連盟 範士八段(号 無争)
昭和15年(1940)山形県米沢生まれ。
全日本弓道選手権大会(天皇賜杯)優勝3回(昭和57年、60年、62年)
全日本弓道選手権大会 最高得点賞2回(昭和61年、平成2年)
全日本弓道連盟 業務執行理事
東北弓道連盟連合会 会長
山形県弓道連盟 会長
 手型別誂専門店 岡﨑弓具店 店主



 

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