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成長というノルマ

仕事をしていると成長という言葉聞くこと多い。
どの視点で語るかで意味合いが大きく変わるだろうが、
被雇用者の目線、個人的な仕事感で考えてみる。

みんな、成長はしたいですか?

私はしたいと思っているし、努力はしている。
理由としては下記だと思っている。

  • 成長→評価→所得に繋がるから

  • 今後のキャリア形成で有利な選択をできるようにしたいから

  • 人にナメられたくないから

でも時折思う。自分は最初から成長したいと思っていたか。
先生が、上司が、社会が「もっと成長していこう。そうでなければ衰退だ」という声を浴び続けた影響ではないだろうか。
成長のない者は虐げられる世界だ。その恐怖感が成長を促す。
そもそも成長とはなんだろうか。使われる文脈によって変わるだろうが、ビジネスシーンでは「売上へのコミット力」ではないか。
少し話がそれてしまったが、私が成長したいと思うのは、ポジティブな結果を望むよりもネガティブな結果を避けるためであり、社会に虐げられないように周囲に合わせているだけ。世の中は弱肉強食なので、当たり前のことなのだろう。

成長の測量によりノルマ化が促進されている

人事評価で点数が付けられることは多いだろう。
数値化の難しい定量的な観点(デザイン、技術力、コミュニケーション力、etc)でも何らかのルールに基づいて採点する企業も多いだろう。
いまは成長が測定できないと困る社会なのだろう。一昔前のように、経営者が「〇〇くん、なんか頑張ってるね。昇給させるよ」みたいな感覚評価は時代にそぐわない。そういった意味では「気に入られること」が成長よりも重要だったのかもしれない。

成長の測定促進によって変わったことの一つに、
全員参加ゲームになったことだと思っている。
成長の定義が組織ごとに整備・マニュアル化され、効率的に測定できるようになってきた。汎用的な物差しとなり、営利組織の属する全員がそれによって測られ、より効率的に能力に合わせて人件費が分配されるようになった。
給料あげたいでしょ?もっといい待遇ほしいでしょ?だったら成長しなくちゃ。みんなそう言われるよね。

成長を他人に正義される息苦しさ

誰かの作ったルールで成長を測られる。もちろん良い評価はされたいし、そのための努力はする。特段、ルールに不満があるわけでもない。
でもなんだろう、定義された成長が示せないと感じる、あの恐怖や申し訳なさ。そして自己効力感の低下。成長できていないのは罪なのだろうか。

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