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呪いの言葉は、いつまでも私の心の深いところに根付いている


子供の頃。たしかあれは中学生ぐらいのときだった。私の弟に対して母親が怒りまくっていたときに、母親の口からポロッと出てきた言葉がある。

「この家が気に入らないかもしれないけど、この家庭に生まれることを選んだのは自分なんだからさ」

今年30になった今でも、このときの光景も、母親の表情や声色もはっきりと鮮明に覚えている。実際にこの言葉を向けられたのはそこにいなかった弟だが、私もこの家に生まれた人間であるから、母親の意図は分からないけれど私にも向けられた言葉であることには変わりはない。

正直、子供ながらにも「えっ?」と思った。腹の奥からどす黒いものが溢れそうだった。しかし、母親に反抗したり否定するのは許されることでは無かったため、静かに頷くことしかあのときの私には出来なかった。


絵本作家であるのぶみ氏の発言を見かけるたび、私の胸はひどく軋む。

子供は母親を選んで、自分の境遇もすべて分かっていて、そのうえで選んで生まれてくる。

というような内容の発言を見るたびに、私はあのときの母親の言葉がフラッシュバックして、行き場の無い怒りと苦しさに襲われるのだ。だから、私はのぶみ氏が炎上するたびに彼の言葉が視界に入らないように避けてきた。それぐらい、母親からの言葉は私の心に深い傷を残したのだろう。

父親はギャンブル依存症でほとんど家におらず、たまに顔を合わせたと思えば不機嫌でちょっと反抗すれば殴られ、殺されるんじゃないかって震えながら布団に包まる夜もあった。母親はそんな父親との関係や姑からの嫌がらせで精神を病み、一時期は私が母親の看病をしながら弟と妹の面倒を見ていた。母親も父親と同様、反抗したり気に入らないことをするとご飯抜き、無視などの精神的虐待をすることがあった。

この家庭に、私は「選んで」生まれてきたのだろうか。そんなの、絶対に違う。私は、もっと普通の家庭に生まれたかった。


「子供は母親を選んで生まれてきた」

この言葉に救われる人も多くいるのだろう。その人達のことを否定する気はまったく無い。自分が何を信じるかは自由だし、自分がその言葉に救われたのならそれがその人にとっての「欲しい言葉」だっただけの話だ。しかし反対に、その言葉がナイフとなって心をズタズタにしてしまうこともある。この言葉を見かけるたびに、私は「だったら、何で虐待で幼いながら命を落としたり、今でも苦しい思いをしている子がいるの?その子達に、あなたは自分で選んで生まれてきたんだよ、って言えるのか」と心の中で叫んでいる。それと同時に、「私は、自分が生まれる場所を選んだ覚えはない」と自分に言い聞かせている。私の代わりに誰かが同じような苦しみを味わうのは絶対に嫌だけれど、だからと言って自らが進んでこの苦しみや痛みを選んで生まれてきた、だなんて微塵も信じたくもないし思いたくもないのだ。


誰かを救う言葉は、違う誰かを傷付けているかもしれない。
自分が救われた言葉でも、また違う人にとっては心を切り裂く言葉になっているかもしれない。

そのことを忘れずに、これからも書くことに向き合っていきたい。


やっとこの気持ちを吐き出せたことに少し安堵している。でも、これから先も、母親からのあの言葉は私の心の深いところでずっとずっと根強く生き続けるだろう。それはもう、「呪い」として。




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