きものリインカーネーション

ここで着付けと同時進行で進めている祖母のきものを直すプロジェクトについて書く。
オレンジ色に金でオリエンタルなんだか抽象柄なんだかわからぬ刺繍のしてある半巾帯は、洗ってもシミだらけだった裏を取り替えた。
超モダン柄の袷の白泥大島(そもそも、ドットで柄を構成する、例えば若冲の『鳥獣花木図屏風』的思想がモダンなわけだが)を洗い張りし、単に直した。ほどいて分かったことだが、糊がついたまま仕立ててあったらしい。「よくかびてませんでしたね」と言われた。これは洗って単にしたにも関わらず、しゃっきり硬かった。
「え、大島ってこんなに硬いのですか?」と聞くと、「おばあ様の焦げ茶蜀江文の大島は長いこと着てしなやかになっていますが、大島は、はじめは硬いものです。はじめからしなやかなんて、ラッキーなんですよ」と言われて赤面した。

能楽『安宅』の勧進帳の場面を、かわいらしい人形の姿で表現した、お太鼓と前帯部分だけ残してある、古い古い古い帯があった。呉服屋さんが京都の職人さんに見てもらったところ、少なくとも二回縫い直された痕があるとのことで、祖母よりもっと前の時代のもののようだということが分かった。京都の職人さんに洗い、絵の描きたしなどをお願いした。呉服屋さんによく合う布を選んでもらい、接いでいよいよ帯に仕立て直そうとしたが、なんと、ほどいた瞬間、烏帽子の黒い部分が裂けてしまった(墨で描き足した黒い部分が弱っていたらしい)ため、帯にすることは諦め、額装することにした。端切れは文庫本カバーにした。

墨黒に目引き(染め直し)して一枚の反物に接ぎ直された大島があった。これこそそれはそれは繊細にしなやかになっていたが、どうしても長着にするには長さが足りないとわかったので、羽織にするつもりだった。しかしこれも和裁の先生に見てもらったところ、何度も何度も接ぎ直してあるので、羽織にするとどうしても接ぎ痕が目立ってしまうと言われ、道中着に変更した。羽裏はどうしよう…。
祖母がコートを仕立てようと考えていたのか、パーツ別に裁ってある、こちらは流水地紋にボタンみたいな小さい丸文の新しい生地もあった。コート用かと思うと、それはそれで驚愕するセンスだったが、呉服屋さんと二つの生地を並べてしばらく考えてはたと気がついた。パーツに分かれている新しいコート用生地を、道中着にする大島の羽裏にすればいいのだ。
この大島は、よほど古いものだが細かな古典柄ではなく、小さな模様を組み合わせて、大柄の花や風車を織りだしたものだった。元は何色だったのだろう。
自ら手掛けた道中着が仕上がったとき、和裁の先生は「我ながら素晴らしい」ともらしたそうだ。びっくりするほど軽く、しかし羽織ると絹の暖かさがじんわり伝わる。元旦の初詣や親戚へのあいさつもこれで十分行けた。

母のきものも一枚だけあった。三十代の頃に一、二度しか着たことがないらしい。クリーム色に赤黄青の鮮やかな色の蝶々が飛ぶ小紋、八掛は鮮やかな朱の暈しという、いかにも若奥さんのきもので、五十を過ぎた自分が着るには気恥ずかしい。捨ててもいいのよと母には言われたが、いろいろ考えて、これまた洗い張りしてサイズを直し(似なかったことがつらいが、母は手足が長い)、八掛をグレーの暈しに取り替えた。地色や地の織りが見違えるようにはっきりし、蝶々の色とのコントラストが鮮明になったが、八掛で抑えられて、また着られるようになった。
また、大きな福良雀の中に無数の吉祥文様が仕込まれた、古典柄の臙脂色の飛び柄小紋も、着られるように裄を出して洗ってもらった。色柄ともにめでたいので、正月の仕事始めに着ている。

黒にしぶい金色で大柄に花模様が織られたきものも晩年のきものの中にあった。裄も丈も短く、どうしても長着にならない。今度こそ長羽織にすべく洗い張りしたが、和裁の先生によると、そもそも羽織は衿になる部分が端から端まで長ーくなっているので、きものと断ち方が違う、そしてこれまた、何度も仕立て直した痕や孔をつぎ当てした痕があり、うまく羽織に接ぐことができないが、コートになら…とのことだった。
コートでもいいのだが、正直コートや道中着ばかりあっても困る。やはり長羽織がほしい、ということで、なんとかならんかと再度知恵を出してもらったところ、「正統派の仕立ては前に言った通り無理だが、あえて継ぎ接ぎにした、という意図が分かるパッチワークふうの柄行きにすれば、長羽織にすることも可能」ということで、これも先生にお任せすることになった。呉服屋さんによると、和裁士さんは、ベテランほど大胆な継ぎ接ぎでも問題ないと考え、若い人ほど伝統的な柄行きにこだわる傾向があるらしい。なかなか面白かった。
こちらの羽裏には、父方の祖母の義理の大叔母(祖母の義理の妹=祖母の弟の奥さんのご母堂)が残した、カトレアを描いた羽織を使うことにした。どういう成り行きでそんな間柄の方のきものを譲り受けたかというと、父方の祖母の弟の奥さんの母君=義理の大叔母の娘さんが、私の母の弟=叔父にと結婚して義理の叔母になり、その義理の叔母が譲り受けたものが、よくきものを着る伯母のところに行き…ということだった。顔を思い浮かべないと説明できない。きものっておもしろい。
出来上がってみれば、こちらも見事な長羽織になり、和裁の先生も呉服屋さんに「こういう柄のきものを仕入れなさいよ」とおっしゃったそうだが、「こういう大胆な柄って今はホントに少ないんだよね…」と呉服屋さんは頭をかいていた。
あとでまた書くが、通勤にはとにかく羽織がいるので、この長羽織は袷の季節に重宝している。

着る機会の多そうな順に、裄を出したり洗ったりをいまだに続けている。何しろフォーマルではなく、普段に着ようと思っているので、やわらかものが後回しになっているのだが、どんなにお粗末な着付けでもきものを着ると喜ばれる、ということもわかった。

同じように祖母が最後まで持っていたきものの中に、絽の名古屋帯があった。ぼたん色地に大きな虫篭と露芝、花丸が華やかに織り出されたうえに、銀糸で刺繍が施されたもので、いったいいつ頃締めていたものか分からない。かなり使用感があり、ぎゅうぎゅう締めるのは気が引けたので、思い切ってこれは二部式帯にした。カジュアルに締めるしかない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?