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NIKO NIKO TAN TAN 2MAN TOUR 2024 "喜劇" w/Tempalayの日記

フェス以外でNIKO NIKO TAN TANのライブを観るのははじめてだ。

2019年、渋谷のタワレコで『東京ミッドナイト feat. Botani/キューバ、気づき』を買ってNIKO NIKO TAN TANを知った。なんとなく目に留まり、かつ500円という安さだったこともあって購入した。
だから、OCHANさんがTempalayのサポートに入ったときは驚いた。

今はSpotifyを開けば世界中の音楽が聴ける時代だ。以前のようにCDショップをうろうろすることもなくなってしまった。元々音楽を漁るタイプではなかったことに加えて、年を取るにつれてその傾向が強まっている。
新しいものを受け付けなくなる老化現象というより、本への情熱が増して音楽へ費やす時間が減っているからだと思っているが、どうなのだろう(私は歌を聴きながら、本を読むことができない)。やはりただの老化現象だろうか。

この日は、そんなNIKO NIKO TAN TANとTempalayのツーマンで、ファン以上にステージに立つ皆さんが喜びを感じていることが伝わってくるようなひと時であった。

今回行ったライブ

・6/23(日) NIKO NIKO TAN TAN 2MAN TOUR 2024 "喜劇" w/Tempalay@Zepp Shinjuku(東京)

ライブの日記

NIKO NIKO TAN TANの曲は、どれも表情がはっきりしている。Tempalayを除いたら、それを感じたことがあるのはKing Gnuだけかもしれない。

同じ本でも本の表情が見える並べ方と、そうじゃない並べ方がある。本の表情というのは表紙という意味ではなく、存在感とでも言えば良いだろうか。
先日、地元の本屋さんでTempalayの広島公演の日記に書いた、稲垣諭先生の『「くぐり抜け」の哲学』を見付けた。その並べ方が本の良さを殺してしまっているようで、私にはしょんぼりして見えた。
反対に、生き生きとした本の並べ方をしている書店もある。そういう所では全部買って読みたくなる。

ライブで聴いたNIKO NIKO TAN TANの曲たちは、愛情とこだわりを持った書店員さんが丁寧に並べた本のようだった。
たとえ背表紙しか見えなくても、本棚の一番下の一番端っこにあったとしても、そこにある意味を感じるというか、存在が消されていないというか。
一曲ずつ大切につくられた曲たちなのだろうと感じた。

OCHANさんとAnabebeさんが演奏する後ろ側と、2階席部分のスクリーンに流れる映像も良かった。この日ライブ会場へ行くまで、前後左右全てに映像が流れることを知らなかったのでうれしい発見だった(360度LEDビジョンの常設はZeppホール初らしい)。
Zepp Shinjukuがオープンしたときは「新宿よりもっと良い場所あるだろ!」と思っていたが、まあ許そう(何様)。ただライブ会場が地下4階にあるため、体力不足人間には終演後、階段を上るのが少し辛かった。
いつかTempalayもZepp Shinjukuで映像演出のあるライブをやってくれないかな。

最も良かった曲を選ぶとしたら『No Time To Lose』だ。確かスクリーンにはYouTubeの映像が流れていた。
なつかしさと壮大さって同居しなさそうなのに、その両方を感じる。不思議な曲だ。

誰しも、ふとした瞬間に繰り返し思い出す景色があるのではないか。
たまに入院施設へ向かう車の中から見た空を思い出す。空自体を思い出すというより、「今見た空の色を覚えておこう」と思った中学生の自分を思い出す。『女生徒』だ。

あるときお湯につかっていて、ふと手を見た。そしたら、これからさき、何年かたって、お湯にはいったとき、この、いまの何げなく、手を見た事を、そして見ながら、コトンと感じたことをきっと思い出すに違いない、と思ってしまった。

太宰治『女生徒』23頁

『女生徒』の22~23頁(角川文庫)が好きすぎる。何度目の引用だろう。

「いつかこのことを思い出すに違いない」という瞬間は、車の中から見た景色くらいかもしれない。おそらく、そう思ったこと自体は他にもある。時とともに忘れてしまった。
『No Time To Lose』の映像は記憶の空の色に近い。だから思い出したのかもしれない。

「こころの奥に沈む 姿 匂い 瞬き 忘れても 忘れても 探すでしょう」という歌詞が美しい。
なぜだかTempalayの『LOVE MY CAR』の「きっとこの感情もいつか忘れてしまう」という歌詞を思い出す。
綾斗さんとOCHANさんの付き合いは長いらしい。お二人の感性というか、感情が動かされる瞬間が近しいから関係性が長く続いているのかなと想像した。

『No Time To Lose』の「嬉し 恋し 愛し 悲し 色付けてく 名前 懐かしく ねえ」と、『LOVE MY CAR』の「赤や黄や緑色 わずかな命よ」の部分も呼応している。
つくられた時期も年齢も違うだろうし、お互いを意識しているわけでもないだろうが、世界を見つめる眼差しに似たような温度や色彩を感じる。

この日のライブもそうだし、覚えていたい瞬間はたくさんある。だからこうして日記を書いたり、「嬉しい」「恋しい」「愛しい」「悲しい」って感情に名前を付けたりする。でも忘れてしまう。
日記を読み返しても、そのとき感じた気持ちを完璧に再現することはできない。「嬉しい」と言葉にしたことは覚えていても、その嬉しさをありありと思い出せるわけではない。

そういう瞬間がある。でも忘れてしまう。って、一歩引いて自分を眺めなければ気付けないはずだ。
他人に指摘されれば、「そりゃあ、人間は忘れる生き物でしょう」と、何を当たり前のことを言っているのだと思われるかもしれない。
そういう当たり前のことに、はたと気が付く瞬間は大切だ。

先日、小川洋子先生の『博士の愛した数式』を読んだ。主人公が博士から友愛数について教えられ、数字の美しさを実感する描写がある。

私たちはただの広告の紙に、いつまでも視線を落としていた。瞬く星を結んで夜空に星座を描くように、博士の書いた数字と、私の書いた数字が、淀みない一つの流れとなって巡っている様を目で追い掛けていた。

小川洋子『博士の愛した数式』32頁

「気が付く」というのは、主人公が博士から教えられたように他人を通して知ることもあるし、内省を通して知ることもある。

人が忘れる生き物だと気付くことも、友愛数の存在を知ることも、人によっては「だからどうした」という話だ。だけどそういうことに美しさを見出す人に触れたときや、自分自身が見付けたとき、実感したとき、決してお金では得られない喜びを感じる。
友愛数や完全数について知らなくても生きていける。でもその美しさに気付けたとき、まるで世界が違って見える。

本や音楽や学問は、私一人では到底気付くことのできない美しさを教えてくれる。他人に分かるかたちで発表してくれる(くれた)、あらゆる人々に多大なる敬意を表したい。

『No Time To Lose』と『LOVE MY CAR』は、人が忘れてしまう存在であることを認識していないと書けないはずで、私はその一歩引いたような眼差しがすごく、すごく好きなのだ。

Tempalayのライブも良かった。OCHANさんがTempalayのサポートをしていて日頃付き合いがあるからか、二組のライブがシームレスに繋がっているかのような感覚を覚えた。

転換時のYUGO.さんによるDJも良かった。その場で音声検索すれば良かったな……BENEEの『Green Honda』だけ調べて、翌日Spotifyで聴いた。偶然がもたらす音楽の出会いも良い。

Tempalayは、“((ika))”ツアーをぎゅっと凝縮したようなセットリストだった。まさか『月見うどん』を演奏すると思わなかったのでうれしかった。
『フクロネズミも考えていた』とか『Queen』とか、どうしてもツアーが終わると演奏しない曲がある。いつか普段やらない曲でセットリストを組んだライブを観てみたい。

一番びっくりしたのは、パーカッションとしてオカモトショウさんが参加されていたことだ。遠目に松井泉さんでも松下ぱなおさんでもないと思っていたら、ショウさんだった。

この日の出演は綾斗さんとの飲みの席で決まったらしい。常に綾斗さんのこの感じがすごすぎる。
様々な規則に縛られた会社員なので、まずはアポイントメント取って、契約書を交わして……というような手順が人間関係にも染み込んでしまっているように思う。
飲み会でライブに誘って出演してもらうのを私の感覚に置き換えると、得意先の倉庫へ勝手に納品して請求書を送るくらいあり得ないことだ。

先週、King Gnuの新井さんの番組「SPARK」に綾斗さんがゲスト出演されていて、自分にないものを持つ人が、憧れ(かっこいい)の対象になるのか云々という話をされていた。
ラジオやMCで綾斗さんの人付き合いエピソードを聞いていると、私と違いすぎて憧れというか、いつも驚きの方が強い。
綾斗さんがすごすぎるのか、私が駄目すぎていちいち驚きすぎなのか、どっちなんだろう。いやでも、AAAMYYYちゃんも、夏樹さんも素敵なお付き合いされているよな……『Music Proof ~Tempalay~』でTOSHI-LOWさんや若旦那さんが夏樹さんについてお話されている部分が印象的だった。

Tempalayも、全ての曲が良かった。
白眉というのか。ここ数年の間にリリースされた曲の中でも『ドライブ・マイ・イデア』は際立っている。私に刺さりすぎているのかもしれない。『女生徒』のように「良すぎる」を繰り返してしまう。

この日聴いていて、『ドライブ・マイ・イデア』の「死なないわ」は、まるで『大東京万博』や『月見うどん』の「死なないで」に対して答えているように感じられた。
前述したようにツアーを凝縮したようなセットリストだったので、『月見うどん』を聴いてから『ドライブ・マイ・イデア』を聴くまで、さほど時間が経っておらず歌詞と歌詞が会話しているように感じられたのかもしれない。

「死なないわ」と「死なないで」については最初の感想日記にも書いた。当時は、ただ歌詞を比較して考えただけだった。どうして今回は、「死なないで」に対する答えのように聞こえたのだろう。

土門蘭さんの『死ぬまで生きる日記』に「私はその人ではないし、一生わかることはない。私が覗き込んでいるのは彼らの心の中のようでいて、実は私の心の中なのだ」(159頁)と書いてあった。
私が本を読んだり音楽を聴いて考えたりするとき、それは本や音楽について考えているようでいて、私自身を考えることでもあるのだ。本や音楽に限らず、何を考える上でも私というフィルターを通さなければ出力できない。

同じ音楽を聴いても異なる感想を抱くのは、私自身が常に変化しているからなのであろう。
はじめてミヒャエル・エンデの『モモ』を読んだときは冒険譚のように感じていた気がする。大人になった今読むと、時間の捉え方について考えさせられる。

私の日記はミステリ小説ではないので解決編がない。常に伏線未回収のもやもや文章だ。いつか「こうかな」と思える日がくるかもしれないので、このもやもやは抱えたままにしておこう。

演奏について相変わらず「良かった」くらいしか書けないが、やっぱり『NEHAN』の駿さんのベースが好きだ。いつも意識を集中させている。
ツアーと同じく『my name is GREENMAN』で、ベースとパーカッションのソロパート(夏樹さんが叩いているからソロと言わないのか?)もあって良かった。
『my name is GREENMAN』は、夏樹さんのドラム演奏が凄まじい。今年のビバラからサポートメンバーが一人増えて、より誰に(どの音に)集中するか迷うようになってしまった。
今まで私が気付いていなかっただけかもしれないが、終盤の「アイセイブルージングアイズ」の部分で綾斗さんがマイクを手のひらで覆って歌っているのがとても良かった。次もそうしてほしい。『時間がない!』と同じく、ひそひそ声(これ以外の表現が分からず)が好きだ。

アンコール後、NIKO NIKO TAN TANが10月からワンマンツアーを開催することが発表された。
祥太さんのように自身のバンド活動が忙しくなったら、OCHANさんがTempalayのサポートをすることも難しくなってしまいそうだ。
BREIMENもNIKO NIKO TAN TANもたくさん売れてたくさんお金を稼いでたくさん人生を楽しんでほしいけれど、Tempalayのサポートもしてほしい……。わがままファン心理……。

さっき自分で書いていた。人は、常に変化するものだ。だから人の集まりであるバンドが変化しないわけがない。
最近、「もう一生Tempalayのベースを弾く祥太さんを観られないのかもしれない」と思い、しょんぼりした。駿さんベースの世界線と、祥太さんベースの世界線を行き来したいよ。
そんなことするわけないと思いつつ、アイドルが卒業公演を発表するように「Tempalayサポート卒業公演」と銘打ってくれたら、これが最後だと意識して聴いたのにと思ったりした。

OCHANさんがMCでTempalayのサポートをすることになった経緯をお話されていた。このとき撮影OKだったので、動画に撮っている人もいるだろう。
私は撮らなかったのでうろ覚えだけれど、声を掛けてくれた綾斗さんへの感謝の気持ちと、何が起こるか分からないと仰っていたのが印象的だった。

何が起こるか分からないから、人生は楽しくて、怖くて、生きがいがあると言える。
何が起こるか分からないから、後悔がないように、次がなくても大丈夫なように生きたい。難易度:鬼。

覚えていようとするのに忘れちゃうし、後悔しないようにとがんばっても悔いが残るのが人間だ。
だから「こころの奥に沈む 姿 匂い 瞬き 忘れても 忘れても 探すでしょう」は、すごく人間的だ。
忘れても、こころの奥に沈む何かは確かにある。朧気な輪郭はその確信を揺らがせる。探して見付からなかったとしても、確かにそこにあったという感覚だけで生きてゆくことはできるのだろうか。
少しでも忘れないようにと、今日も日記を書いてゆく。

祝!