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Tempalay Tour 2024 “((ika))”(東京公演)の日記

ライブ前に書いた日記

香川公演の日記を書いた後、久々に気分がずーんと沈んだ。
いつもうまく言葉にできなくて、考えても分からないことだらけで、もやもやすることが多い。それでも日記を書き終えた後は、多少なりともスッキリすることが多いのになぜだろう。

誰かのためや、他者による評価のために日記を書き始めたわけではないのに、「どうせ誰も読みやしない」とか「読んだとしても馬鹿にされるに違いない」という気持ちが生まれてくる。厄介すぎる。
インターネット上に日記を書くべきではないのだと思いつつ、たまにコメントをいただけるととてもうれしい。やはり厄介すぎる。読んでくださった方、ありがとうございます。

私がXの通知欄を見なくなったのは、こうした承認欲求が誇大化して翻弄されたくないという理由が一番だ。
ありとあらゆるSNSのいいね機能をオフにしたい。「好き」とか「いい」という感情を数値化するな。

承認欲求を悪しきものとして語り(られ)がちだが、マズローの欲求五段階説を出すまでもなく生きる上で大切な欲求であるとは思う。
元・完璧主義者のせいか、すぐいいか悪いかの二項対立に持ち込んでしまう。そうじゃない。灰色だってある。前も気付いたことなのに、また忘れていた。

そんなこんなで沈みながらも、読書はできる状態だったので、岡潔・森田真生編『数学する人生』を読み始めた。
4月の日記に書いたが、最近数学の勉強をしている。と言っても、分数の四則演算や連立方程式など中学生レベルの内容だし、この前は2週間くらい勉強をサボった。
神保町にある「PASSAGE by ALL REVIEWS」さんを訪れて何を買おうか吟味している際、目に留まったのが本書だった。

かなり昔に行った講演会で、京極夏彦先生が「古本屋へ行くと『おばけ』や『妖怪』など、自分が気になっている言葉が浮かび上がったかのように目に入ってくる」という趣旨のお話をされていた。
先生の仰る通りで、常日頃意識していなくても本屋さんや図書館へ行くと「あ、これは!」って目に留まる本がある。

もし数学を勉強し始めなかったら、一番下の段にあった『数学する人生』には気付けなかっただろう。興味を持つだけで見える世界が広がる。
先日、赤瀬川原平『超芸術トマソン』を読んだ。トマソンとは、純粋に昇り降りするだけの階段や、2階に取り付けられたドアなどの無用の長物を指す。トマソンは、見ようとするから見えてくるものだと思う。すごく興味深い視点だった。

香川公演の日記に「分からないから、分からないって躓くから、きっと考えられる」と書いた。
日記にはそう書きつつ、他の人は分かっているのではないか、未熟な自分を正当化するためにこんなことを書いたのではないかと、相変わらず無数の疑問符が頭の中に渦巻いていた。
そんなとき(東京公演当日)に読んだ『数学する人生』が、沈んだ気持ちを浮上させてくれた。

わたしは数学の研究を長くやっていました。研究中は、あるかわからない「x」というものを、どこかにないかと捜し求めます。捜し求めるというより、そこにひたすら関心を集め続ける。そうすると、xの内容がだんだんと明らかになってくる。ある研究の場合は、これに七年くらいかかりました。
xがどういうものかわかってやるのではありません。わかっていたらなにも捜し求めることはない。わからないから捜し求める。関心を集め続けるのです。

岡潔・森田真生編『数学する人生』46頁

「わからないから捜し求める」!殆ど私と同じこと言ってるではないか!

というのは傲慢でした。私と岡先生とではそこに至るまでの経緯に雲泥の差があると思います。
でもうれしかった。本書を手に取るまで岡潔という名前すら知らなかったのに。
沈んだ気分をどうやって持ち上げれば良いのか未だに分からない。「これだ」って方法があれば良いのに。
でも今回は『数学する人生』が助けてくれた。この日の天気のように晴れやかな気持ちでZepp Hanedaへ向かえそうだ。

飛行機

※下記要素が含まれます。
・ライブで演奏した曲についての感想

今回行ったライブ

・5/17(金) Tempalay Tour 2024 “((ika))”@Zepp Haneda(東京)

心理的距離について

香川のFesthalleと比較するとZepp Hanedaの方が規模が大きいからか、今更ながらに「Tempalayってすごいんだな……」という気持ちになった。
後方で観たから、物理的距離を心理的距離のように錯覚したのかもしれない。遠い存在というか。
元より遠い存在ではある。とまで書いて、遠い存在ってなんだろうと思った。よく見聞きする言葉を考えなしに使ってしまった。

外山滋比古先生の本を読んだとき、まるで先生が隣で話し掛けてくれているかのように感じた。生前お会いしたこともないのに。
ステージ上にいるTempalayと観客席にいる私の物理的距離は測ることができても、外山滋比古先生と私の距離は、もはや測ることができない。それなのに近くに感じる。だから物理的距離と心理的距離は関係がないとも言える。

例えば、あるアーティストを路上ライブ時代から応援していたのに、今では毎年ドーム公演をするくらいに人気になった。さみしい。と感じる場合、物理的距離が心理的距離に比例しているのかと思う。どうなのだろう。
先日、数学の比例(y=ax)を勉強したばかりだったので、そんなことを思う。

Rolling Stone Japanで3日間に渡り、Tempalayメンバーのインタビューが掲載された。綾斗さんによると「2人は俺がいるとしゃべれないこともあるだろうし」それぞれにインタビューを受けることにしたそうだ。
ライブが始まる前に全員のインタビューを読んだからか、バンドが規模を大きくしてゆくことって何なのだろうと考えた。

夏樹さんは「もう十分に規模は広がったから、もうちょっと深くしていきたいというか、もうちょっと洗練させていきたい」と仰っていた。
これって欲求五段階説でいうところの頂点・自己実現欲求なのではないかと思ったりした。

アルバムに既存のシングル曲を入れたくなかったのに「大人の事情」で入れざるを得なかったという綾斗さんの話を読んで、規模が大きくなると思い通りにいかないこともあるのだろうと感じた。
Tempalayがただの趣味のバンドだったら、収録曲に口出しする人もいないはずだ。

人前に出るのが苦手なのにプレゼンを任されたり、人付き合いが苦手なのに新人教育担当になったり、思い通りにいかないことは無数にある。
種類は全く違えど綾斗さんたちもそういう葛藤を抱えることもあるのかと、少し身近な存在に感じた。

近くなったり、遠くなったり、甚だ勝手なものだ。
以前おじさんが「友情とは、相手から受け取るものではなく、自分が感じるものだ」と言っていた。
私には友人と呼べる人がいないので、「こっちが勝手に友情を感じたら、相手に迷惑をかけるのでは?」と思ってしまう。
友人が何たるかを知るのは子どもの頃だと思うんだけど、その時代を躓いて地面ばかり見ていたので大人になった今でも「友人」という概念がよく分からない。
しかしながら京極堂と関口くんはどう考えても友人だと思う。頑なに「知人」と表現し続ける京極堂よ。

おじさんの言葉と、勝手に近くに感じたり遠くに感じたりする自分のことを思うと、物語だけでなく人間関係もこちら側の読みに依拠する部分もあるのかと思った。
例えばアイドルのことを一方的に恋人と勘違いしてストーカーまがいの行為をしたら犯罪だろう。これは極端な例ではあるけれど相手に迷惑をかけなかったら、どのように読み取っても良いのだろうかと、結局考えてもよく分からなかった。頭で分かろうとするのがいけないのか。謎は尽きぬ。

ライブの日記

改めて『Booorn!!』が良かった。少し泣いた。
AAAMYYYちゃんが『Booorn!!』の歌詞について「子どもを育てたことないわりには、すごくわかってる感じの歌詞だなって。一回育てたことあるのかな?と思いました」と仰っていた。
AAAMYYYちゃんと綾斗さんのインタビューは別々で行われたはずなのに、まるで向かい合わせになっているかのように感じた。

綾斗さんはAAAMYYYちゃんに対して「子どもが生まれて、あの子はマジで人格が変わったんですよ」と仰っていた。
AAAMYYYちゃんがご出産される前にもライブへ行ったことはある。ただのファン目線では人格の変化なんてもちろん分からなくて、むしろ「以前と変わらなくてすごいな」と思っていた。
綾斗さんから見たAAAMYYYちゃんが「自然構造に従っている感じ」、命を繋いでゆくといった生物としての大きな流れに「巻き込まれていってる気がする」というのが印象的だった。

会社で産休・育休を取って戻って来られる方がいる。特にお子さんが小さい頃は保育園に呼び出しされたとかで急に休んだり、始業時刻に遅れたりすることが多くて大変そうだと感じる。子育てをしながら働く人、本当にすごいと思う。
子どもを育てたことがないから分からないけれど、子育てって想定外の連続だと思う。計画が立てられないというか。
「私立に入れたい」といった保護者の希望はあるかもしれないけれど、私みたいに不登校になるかもしれないし、本人が公立に行きたいって言うかもしれない。計画を立てることはできても、その通りになるわけではない。あらゆることが子どもを中心として動いてゆくような生活の変化。
「自然構造に従っている感じ」というのは、より抽象的なことだろうとは思うけれど、自然に近い子どもという存在によって有無を言わさず変えさせられてしまうような流れがある気がする。

インタビューのおかげで『Booorn!!』という曲をもっと好きになった。
夏樹さんもお子さんがいらっしゃるから、『Booorn!!』についてどう思ったのか聞いてほしかったな。

東京公演ではセットリストが変わっていた。大阪と香川になかった『どうしよう』が増えたのは覚えている。その代わりに何が減ったのか、あるいは追加されただけなのかは思い出せない。
駿さんによる『どうしよう』のベースが聞こえた瞬間、「前回と違う!」って電流が走った。その後、ライブを観ながら記憶をなぞってしまっていた自分に気付いてしょんぼりした。

『愛憎しい』から始まって、次は『NEHAN』、その次は……って、覚えようとしなくてもなんとなく曲順を覚えてしまう。
好きだからできる限りライブ会場に足を運びたい。それなのに目に映るのはTV映像みたいな瞬間が多いし、相も変わらず頭の中がうるさい。
1公演だけにした方が集中して観られるのか、ライブに行けるありがたみに欠けているのか、などと考えてしまった。

私は想定外のことが大の苦手だ。予定していないことが起きそうになっただけで嫌な気持ちになる。
でも『どうしよう』が聴こえた瞬間、想定外のことってこんな感動をもたらしてくれるのかと、はっとした。
それと同時に、パターン化された毎日を生きるだけでは何も変えられないのかもしれないと、私はもっと他人に振り回された方が良いのかと、妙な考えが浮かんだ。

ライブ中そんなことを思っていたら、日記を書いている今日、このポストが目に留まった。

引用元のポストの「他人って意外性ある」「言葉に対して返ってくる言葉が予測できたりできなかったりする」というのは、正に私が苦手とする想定外というやつだ。そして私は人間関係が苦手だ。ああ……。

ずっと同じところを行ったり来たりしているのは、私の人生に他人という意外性を介入させないようにしているから(人付き合いを避けるから)かもしれない。
香川公演の日記を書いたときは、行ったり来たりしているようでも少しずつ変わっているのかもしれないと思えたけれど、ずっと一人で会話しているから、私がそう思っているだけで世間とはどんどんズレていっているのかもしれない……。

「あなたのここがおかしいです」「ここを治してください」って教えてほしすぎる。
ロールシャッハとかWAISみたいなのを受けても、客観的に数値化・言語化された気がせず、その結果を大義名分にしてしまうのも嫌で紙を破いて捨てちゃった(それがいけないのか?)。

話をライブに戻そう。
開演のSEで、三文オペラの『モリタート』みたいな巻き舌使う系言語の曲が流れた。何て曲なのかしら。
曲の終盤、レーザーライトでTempalayという文字が照射される。これまでの公演でレーザーライトによる演出は最初の一回切りだった気がするのだけれど、東京公演は他の曲でもこの演出が使われていたので自信がない。
終演後、あのロゴをステージに映してくれたら良いのになあと思った。お片付けあるから(?)、難しいのかな。

1曲目が『愛憎しい』なのが、すごく良い。アルバムでも実質1曲目ではある。でもライブで聴く方が、その良さがありありと伝わってきた。
綾斗さんの声に切り替わる瞬間、共感覚を持っていなくても音に色が見えてしまうくらい鮮やかになる。やっぱりライブ会場へ足を運んで良かったと思う。

2曲目の『NEHAN』への繋ぎ方もかっこいい。一気に会場の熱が上がる感じ。
東京公演は他のお客さんの歓声もよく聞こえた。大阪と香川が盛り上がっていなかったという意味ではなく、私が後ろの方で観たから観客の動きを通して意識に上りやすかったのだと思う。

ライブの最中は「次はこの曲だ」って分かる(やめたいが)。日記を書くときは思い出せないや。
『遖!!』『とん』『ああ迷路』(東京公演もやったか?)『どうしよう』『my name is GREENMAN』あたりは序盤だったような。最初のMCを挟んで『Booorn!!』だったはず。
別に私はセットリストを覚えてなくても良いのだ。それより、その瞬間にしかないものを捕まえたい。
だからTVを眺めているような視界になってしまうのはやめてほしい。去年からこの現象に悩まされている。

『遖!!』、私が好きな拍手のような音は入ってなさそうだった。でももちろん良かった。
MONO NO AWAREの『味見』を聴いてはじめて、言葉そのものだけだなく、歌い方によっても情景を表せることに感動した。
『遖!!』も「さすれば愛しくって中毒 お見事です あっぱれや!」の言葉の詰め込み具合に、もうどうでもいい、あっぱれだって笑うしかないような苦しみを感じてすごく好きだなと思う。

『遖!!』には「空洞」って言葉があって、『あびばのんのん』には「かすかに心に穴が空いたぽっかり」とある。どういう意味なのだろう。
「空洞」というワードは、ゆらゆら帝国の『空洞です』を思い出すが、たまたまその言葉を選んだだけなのかな。

私には家族がいるし、ライブ遠征へ行けるくらいには給料をもらえているし、すごく恵まれた環境にあると思う。それなのにずっと心に穴が空いているかのように感じる。
ライブに行けるお金を稼げているのは私自身の努力もあるけれど、誰かから与えられたみたいに恵まれたものという意識もある。その意識は、それだけ恵まれているのになぜ悩むのかと問い詰めてくる。お前に悩む資格はない。もっと苦しんでいる人がいる。

土門蘭さんの『死ぬまで生きる日記』に心の穴の話があった。

「みんな、自分の穴を埋めたくて必死なんです」
と言った。
「その穴を埋めてくれる他人……つまり愛情を、必死で求めています。でもね、その穴にパズルのようにぴったりはまる愛情ってないんです。なぜなら、人と人は違うから」
(中略)
「自分の心の穴は、自分にしか埋めることはできません。その穴を埋めるには、まず形を確かめないといけないんです」

土門蘭『死ぬまで生きる日記』130頁

心の穴って、自分にしか埋めることができないのか。この穴を埋められるのは、別の誰か、何かなのかと思っていた。
「満たされない」「足りない」って、ずっとないものねだりしていた自分にも気が付く。

『遖!!』や『あびばのんのん』の心の穴は、別れを歌っているように思う。私の感じる穴は何なのだろう。その形を確かめないと。

MCで東京公演がファイナルではなく、ツアー日程の中途半端なところに位置しているのは、先に10月の武道館公演が決まっていたからではないかという話があった。ツアーの最後にすると、東京公演と武道館公演が近くなってしまう。
でも武道館公演は完売したし(おめでたい)、東京公演が三日目である意味がないのでは……といった話もあった。今日が実質ファイナルという話も。綾斗さんから「東京愛してる」もいただいた。

『((ika))』関係のインタビューで、武道館公演を最後に解散しようかと思っていたと読んだとき、ひやっとした。
綾斗さんのMCで「またどこかで会えたら」って言葉をいつも期待している。その言葉が次のライブを確約するわけではないのに、「今日は聞けた」とうれしくなるのだ。
東京公演では、たぶん二回「またどこかで会えたら」が聞けた。インタビューを読んでひやひやした後だったから余計にうれしかった。

でも、今は「解散するのをやめる」って決めたかもしれないけれど、またいつ「解散しよう」って思うか分からない。
綾斗さんに限らず、AAAMYYYちゃんも夏樹さんも自分の進みたい道が別にあると感じたら辞めちゃいそうだなと感じる。
そんな日が来たら心に穴どころか、全身砂になって消えそうなんだけど、こればかりは何があるか分からないからな……。
起きていないことや、ないものねだりするのではなく、今ある幸せに目を向けないと。香川公演の日記にそうしたいって書いたばかりなのに、本当に私はすぐに忘れるな。

ということで東京公演もありがとうございました。私は幸せです。