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Tempalay「目撃者X」の日記

Tempalayの「目撃者X」へ行ってきた。

今回行ったライブ

・2/1(木) Tempalay「目撃者X」@Spotify O-EAST(東京)

終わり。

だって!

本公演では、参加者に対して「目撃ルール 三箇条」が課せられていたのだ。

①会場内で起きた事象は他言無用とする
*ライブの内容およびライブ内で内密に伝えられた情報の拡散はお控えください。
*写真撮影OKの場所を除き、会場内は撮影禁止とさせていただきます。

②SNSへの投稿をすべからず
*ライブの内容およびライブ内で内密に伝えられた情報に関する投稿は禁止させていただきます。撮影OK箇所での写真や、感想等の投稿は問題ありません。

③会場内ではスペースお面を着用すべし
*入場時に「スペースお面」を配布いたします。会場内では着用のご協力をお願いいたします。

③は終わったことなので良いとして、①と②よ。
ミステリ小説が好きでネタバレは極刑だと思って生きているので、普段から気を付けている性質ではあると思うが……うっかり投稿した内容がルールに反していたら怖いので書かないに越したことはない。

というか「感想等」って何だ。「等」って何だ。規定や契約書に「○○等」という表現を用いたら、後々解釈を巡って裁判が起きそう。
「目撃者X」を「公演」と記載すべきか、「ライブ」と記載すべきか、はたまた「イベント」と記載すべきか迷ったが、三箇条に「ライブ」と書いてあったので表現を真似ることにした。
使用されている言葉から推測できることってたくさんあるよね。怖いよ。

ポンコツの私はうっかり書きかねないので、いつものような日記を書くことはやめるが、グッズの写真は載せても良いでしょう。さすがに。

「目撃者X」限定 キーチェーン

今までグッズは2個買わないと不安になるタイプ(?)で、いつもキーホルダーやステッカーは2個ずつ買っていた。
でも2個買ってももったいなくて使えないことがあったり、昨年「推し貯金のようなものの振り返り(二周目)」を書きながら少し反省したので1個だけ買った。
あと最近は「死んだらグッズは使えない!」と思って使うようにしている(極論)。

「目撃者X」限定 ハンカチ

ハンカチは出掛けるときにぬいぐるみを包んだり、お菓子を入れている木箱にかけたり、色々使えそうな場面があったので購入した。
ステッカーも買うつもりだったが、物販にたどり着いたときには売り切れていた……仕事がなかったら先行物販に並べたのに!

書けることは書いたので、ここで日記を終わりにしても良いけれど、せっかく筆を執ったので気になっていることについて文章を書きながら考えてゆきたい。

ライブに関係ない日記

綾斗さんって、ご自身の活動以外の投稿をリポストされることは少ない気がする。だから1月にJACKSON kakiさんの投稿をリポストされたのを見て珍しいように感じた。

作家が心の余裕のなさから人から愛されず、心を擦り減らして制作した作品を、日中は安定した仕事に就き、余暇で、その作家の作品を鑑賞し、SNSで発信することで自己ブランディングとして消費している人のほうが恋人がいたり、将来に不安もなく生きているのを見ると消費社会は残酷だと感じる。

JACKSON kaki(@Kakiaraara) 2024年01月19日 13:14

2023年4月の日記に、「作品を消費するように楽しむことに少し抵抗がある」と書いた。ここ数年ずっと作品を消費する行為についてぼんやりと考えていたので、引用した投稿を読んで改めて考えてみたいと思った。

リポストする行為が必ずしもその投稿に賛同しているわけではないので、綾斗さんが同じ意見とは限らない。
しかし『あびばのんのん』のインタビューで「作品が消費されていくのはイヤだし、自分が生んだものはやっぱり愛してるんで」と仰っていたので、近しい感情はお持ちなのかなと想像した。

前述した日記においても作品を消費したくないと書きつつ、作品を消費する行為がどんな行為を指すのか明確な定義があって書いたわけではなかった。
JACKSON kakiさんは自己ブランディングのために作品をSNSで発信するような行為を「消費」と表現されている。作品を作品として鑑賞するのではなく、自らを着飾るために利用するような行為を「消費」と表現されているのだろうか。

特に思春期の頃って「流行に乗っかるのはダサい」という意識から、インディーズバンドの曲を漁ったり、昔の漫画を読んでみたりする。
興味や嗜好の違いという理由から流行に乗らないパターンもあるだろうが、「流行に流されない俺(私)」という自意識が働いている場合も多々あるはずだ。
その場合、「流行に流されない俺(私)」という自己ブランディングのために作品を利用(消費)していることになるのだろうか。
思春期のそうした行為を「かわいいね」「そんな時期もあるよね」と思えるし、それが作品を消費しているかと聞かれたら違う気がする。

書いていて今更気になったのが「自己ブランディング」の意味するところだ。Wikipediaによると、「セルフブランディングとは、企業や組織に所属しない「個人」が、自らをメディア化し、自らの力でプロモーションすること」らしい。
JACKSON kakiさんの文脈は本来の意味ではなく、「SNS上のキャラ付け」のような意味で用いているのかなと思った。「インスタ映え」的な。
ただこの投稿は「消費する行為は残酷だ」と書いてあるのではなく、「消費社会は残酷だ」と書いてあるので、私の思考は少々的外れな気がしている。投稿に対して意見があるというより、投稿に触発されて思考が活性化しているだけなので許してほしい。

そもそもどうして作品を消費することについて考え始めたのか思い出してみたい。綾斗さんが「作品が消費されていくのはイヤ」と仰っていたから、作品を消費したくないと思い始めたのではない。

「作品に救われた」という表現は私には大仰なので用いないが(それこそ着飾っている気がしちゃう)、本や音楽があるから生きていけるとは思う。
酒場族の日記にも書いたが、自分が読まなくても、聞かなくても、一生知ることがなくても、ただそこに作品や物語が存在するという事実で心が軽くなる。

よく「こんなことを考えるなんておかしいのではないか」とか「大人になっても集団に馴染めないのは、どこか欠陥があるに違いない」とか独りよがりな自己嫌悪に陥るが、古今東西あらゆる作品があるって思うと「さすがに私だけじゃない」って心が軽くなる。
世の中に作品があること、誰かが作品を生み出すという行為はそれだけで価値があり、その価値ある行為を蔑ろにしたくなくて「作品を消費するように楽しむことに少し抵抗がある」と書いたのかもしれない。

でもあらゆる作品に対してそんな意識で向かい合えているかというと、全くもってそんなことはない。
特に10代の頃は生きることに消極的だったので、読書も音楽鑑賞も死ぬまでの暇つぶしと捉えていた。
今だって常に意識できているわけではないし、実際にそんな気持ちを抱えて日々生きてゆくことは不可能だろう。
例えば歯ブラシだって人類が最適な形を求め、改良を重ねて作り上げてきた作品の一つと言えるかもしれない。私は毎日歯ブラシに対して感謝していない。
普段の生活では忘れているときも多いけれど、ふとした瞬間に作品のある世界を思い出して心が軽くなる。そうして感謝する。日々を、一つ一つを大切に生きてゆきたい。

今日は殆ど寝て過ごしてしまい全くもって日々を大切にできず罪悪感まみれの私より。

ところで昨日、ニューアルバム『((ika))』のリリースとツアーが発表された。うれしすぎる。生きていける。