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響け!ユーフォニアム 久石奏3年生編を待ちきれなくて盛大に妄想した 全10万字:二章 三年生進級~京都府大会(前)(2/9)

目次、お断り(リンク先)


プロローグ②

郵便か。紙の葉書、たまには風情があっていいかも。
表の面には今の住所が印刷されたシールが貼られている。どうやら昔の住所が宛先に書かれていて転送されたようだ。この面には差出人が書かれていない。
葉書を裏返す。楽器と楽譜を無造作にあしらったデザインの中に短い文面がある。
「北宇治高校へ通うことになりました」
なんだか懐かしい響きだ。
見覚えがあり、そして乱れた筆跡だ。
右下に差出人が書いてある。目頭が熱くなる。
「・・・あいつ・・・」
春は、もうすぐそこ。


二章 三年生進級~京都府大会

新入生入部

今年もこの季節がやってきた。 窓の外では桜が名残惜しそうに舞い散っている。吹奏楽部は今日が新入生説明会。教室には上級生たちが待ち構え、そこへ大勢の新入生が・・・
来ない。
吹奏楽コンクール全国大会金賞という華々しい実績は校舎の垂れ幕にもなっているのに、訪れる新入生の数がすこぶる少ない。廊下には、教室の近くまで来つつもたじろいで去ってしまう新入生の姿も見受けられる。かといって無理に引き止める上級生はいない。何しろ今の三年生二年生でコンクール人数枠五十五人をゆうに超えている。一年前は全学年合計で百人近い人数だった。そのせいか、なにがなんでも新入生を入れなければという雰囲気がいささか弱い。無理に引き止めてもお互いに良いことはないだろう、そんな空気が広まっている。
とはいえ、音楽教室の隙間の大きさに気づいた上級生は、このままではまずいと早めに楽器を取り出しビジュアルに訴えようとしている。よし低音も負けてられない、大好きなユーフォニアムを・・・と思うが出遅れてしまう。こういうときに大きい低音楽器はどうしても機動力が落ちる。

時間となり、説明会が始まった。
「みなさんこんにちは。今日はよくぞ吹奏楽部新入生説明会へ来てくれました。私は部長の剣崎梨々花です。よろしくです。」
物腰柔らかくどこかふわふわしつつも人を引きつける魅力のある声だ。新入生を前にしても梨々花の態度が崩れることはない。
「楽器はオーボエを演奏します。吹奏楽は、後から説明するさまざまな楽器が集まって一つの音楽を作ることが最大の魅力だと思っています。皆さん一人一人に個性があるように、楽器にも個性があります。大切なパートナーに出会って楽しい音楽活動を是非一緒にしていきましょう。入部、待ってます。」
パチパチパチ、と拍手が上がる。部員側からはファゴット方面からの拍手が熱烈だ、といっても人数は二人だが。
「副部長の北山タイルです。」
大所帯のクラリネット方面から黄色い声が上がる。こころなしか沙里の頬も紅潮しているようだ。新入生のほうからも声が上がっており、クラリネットの新入部員には恵まれそうだ。新入生の中から部長だと呼ぶ声が聞こえる、タイルと同じ南中出身者なのだろうか。彼は学ランではなくシンプルなセーターを着ている。
「楽器はクラリネットです。自分は中学から吹奏楽をやっていますが、この北宇治に入って刺激がたくさんあってすごく充実しています。あと、教室のあちらに賞状がかかっているように、吹奏楽コンクールの全国大会にも出ました。ぜひ、一緒にやりましょう。」
パチパチパチ。少ない男子からもひときわ大きな拍手が上がる。
「ドラムメジャー、音楽面と演奏技術をメインで見ています、朝倉玉里です。新入生の皆さん、楽器経験のある人はどのくらいいますか?」
玉里は新入生の前へ進み出るやいなや話し始め、自ら挙手することで促した。スラリとした佇まいは見栄えがする。ぱらぱらと手が挙がる、ざっと半分強か。
「はい、ありがとうございます。なぜこんな質問をしたかというと、高校から始めて今はすっかりしっかり戦力になっている先輩もたくさんいるからです。未経験者、ブランクありの人でも心配や躊躇はいりません。上級生で楽器未経験で入部した人、手を上げてください。」
多くの手が挙がる。
「はい。という感じです。逆に、」
玉里はふと視線を落とし、誰にもわからないほどすぐに新入生へ視線を戻した。
「私は中学でもトランペットをやっていましたが、一年生のときはまだまだでコンクールのオーディションにも通りませんでした。そこから一念発起し、仲間と切磋琢磨してどんどん音楽が、トランペットが、合奏が好きになり、今ここにいます。三年間、じっくり取り組む価値のある部活であることを保証します。入部、お願いします。」
拍手の音に安堵の声が交じる。未経験者のものからだろう。その後ろから同じトランペット三年生の小日向夢が恥ずかしそうに誰よりも長く拍手している。玉里はちらりと視線を夢に送っているが夢は気づいていないようだ。
「実は私も・・・一年生のときはオーディション落ちちゃいまして。」
愛嬌のある笑顔のまま軽く頬をかく梨々花の前で新入生から驚きの声があがる。
「ちょっとちょっと、部長の場合は例外。何せ音大に行っちゃった天才のみぞれ先輩がいたんだから。」
タイルの相槌を聞いて、今頃きづいた。梨々花もまた、うますぎる先輩の存在が故にコンクールに参加できなかったのかもしれない。二年前のリズと青い鳥。協奏曲と言わんばかりのソロに加えてトゥッティも盛りだくさん。非常に大変な曲にも関わらず、オーボエは一人で十分、と。
「あ、それをいえばトランペットの高坂先輩もの音大へ。」
「それなら、クラリネットの高久先輩も音大行ったぜ。」
玉里とタイルも加わった幹部たちの会話に一年生がざわつく。まじ?音大?神?やばくね?
「あ、ごめんなさーい。うちの部活は、顧問の先生だけでなく外部の先生の力もお借りして、とことん突き詰められる体制があります。そこからチャンスを掴んだ先輩がいるということです。うまくなりたい人、頑張れる環境があります!。仲間がいます!。私達の仲間になりませんか!?。」
梨々花は身を乗り出すように訴えかける。一年生から大きな拍手が沸き起こった。音大三連発はインパクトがあったようだ。人数は例年より少ないもののその拍手は力強かった。

・・・・・・

各楽器紹介のあと、各パートは展示会のようにブースをつくり、新入生はいろいろと見て回っている。人員獲得のためにいろいな思惑が飛び交い、中学生時代のつてを辿ったり、未経験者へ自分の楽器のアピールをしたり、はたまた新入生同士でのせめぎあいもあり。これも風物詩だ。あちこちから上級生顔負けな音から、いかにも初体験といった音まで聞こえ賑やかだ。夏紀先輩、久美子先輩に初めて会ってからもう二年にもなる・・・とつい考えに浸ってしまう。

「今年も低音は来ないですね。」
「弥生ちゃん、今年もって言わないの、二年前はうちら経験者四人が来たんだぞー!。」
「さつき先輩たち、レジェンドです!うちら初心者三人だったんで!」
「先輩、いつもは何人くらいなんですか?」
今の低音パートの二年生はすずめ、弥生、佳穂の三人。三人とも高校から吹奏楽、楽器を始めた。あれから一年が経つ。
「俺達の上は、経験者が緑先輩とユーフォニアム、未経験者がチューバ。」
「求くん、緑先輩以外の扱い、ひどすぎない?。久美子先輩と葉月先輩がかわいそうだよー。」
「さつきの言う通りね。で、その上が経験者がチューバの後藤先輩、未経験者がチューバの梨子先輩とユーフォの中川副部長。」
「おお、未経験なのに副部長に!」
「私達にもチャンスあるかな?」
「夏紀先輩は雲の上の人格者です。一緒にされては困ります。」
「奏先輩ー、つれないー。」
「奏は夏紀先輩のこと、尊敬してるものね」
「当然です、美玲。」
「みんな、勧誘しようよー。」
と、視界に背の高い男子生徒が目に入った。短髪であまり血色のよく無さそうなその男子-というには大人びて見えるが-はホルンパートのところで試奏をしていた。
不思議な既視感を持った。
「?、なんだろう・・・」
と、美玲が動いた。
「彼、チューバかユーフォの経験者だ。」
確かに何かしら金管楽器をやっていたように感じられる。去年のパートリーダーなら「そんな匂いがする」とか言うだろう。席を立ち、低音パート区域の前に出でその青年を出迎えた。明らかに学ランが似合っていない。そして・・・どこかで会った気がする。
「失礼ですが、実はユーフォニアムの経験があるのでは?」
「え、どうしてそれを?・・・」
しめしめ、ひっかかった。と内心でほくそ笑んでいると、その青年はやや顔をしかめて少し苦しそうな様子だった。大丈夫だろうか、違和感が走る。その横顔には、見覚えがあった。息を呑み声を上げそうになるが冷静を装う。
「あ、先程ホルンを吹いていましたが、なんだかユーフォニアムのほうが合いそうに聞こえました。」
うそ、でまかせだ。口は動いているが、相手を直視できないままだ。
「・・・お見通しでしたか。」
なんという瓢箪から駒。と心のなかでつぶやいている時、ようやく青年は声を絞り出した。
「よ、よければ、ユーフォ、音を出してみない?」
佳穂が青年に近づき、少し遠慮しながら話しかける。
「・・・わかりました。ずいぶん吹いていないのでお恥ずかしいですが・・・」

青年は佳穂からマウスピースを受け取り数回深呼吸をしたあと、口に当ててバズイングを始めた。きれいなビーという振動音がたやすく発せられる。マウスピースのくぼみの中で唇の中央を細やかに振動させる、そんな一言では片付かない基本技術のバズィング。うまい、まちがいない。佳穂の目がきらきらするのに気づいていないのか、青年は無言でゆっくりとマウスピースを楽器へ戻した。佳穂だけでなく、弥生、すずめ、さつき、もちろん美玲も、求でさえも、期待の目で青年を見る。なんだか直視できず少し視線を外して聞き耳を立てる。青年は静かに楽器を構えた。
ーーーーー♪ーーーーー
「わ、上手だね。もう少し聴きたいな。」
佳穂が嬉しそうに話しかける。
「そうですか・・・」
青年はやや苦しそうな表情をしながら演奏を続けた。音楽室の何人かがこちらを見ている。有名な教則本の曲が大きい音量では無いながらも丁寧に奏でられていた。
「ぷはあ、やっぱりユーフォニアムのほうが息が楽ですね。こっちにしようかな。」
こころなしか彼の緊張がほぐれたようだ。その息の吐き出し方に、どこかしら去年に転校してきた学年ひとつ上の先輩、黒江真由の演奏を思い出す。無駄なく息を使い切っている。吸うことも、吐くことも。息の量が少ないのは、上手い証拠だ。効率よく唇が振動しているから、息は少なくて済むのだ。
「今、やっぱりって言った?」
さつきの元気すぎる声で我に返った。隣で美玲がたしなめている。
「ええ、ホルンのほうがいいかな?と思って試したのですが、自分にはユーフォニアムのほうが相性良いみたいです。」
「へえ~。」
「確かにめっちゃ馴染んで聞こえる。」
「じゃ、じゃ、一緒にユーフォニアムやってくれますか?。あ、私、二年の針谷佳穂です。」
佳穂は両手を組み合わせ懇願するように話しかけた。青年はしばらく無言で目を閉じて考え込み、やがてゆっくりと目を開いた。そしてチラリと私を見て、何か合図するかのように睨んだ。私は未だ青年を直視できないでいる。
「・・・ユーフォニアム希望します。玉田直樹です。」
目の前の青年の表情は緊張していた。
私はようやく玉田を正視し、息を呑んだ。


新入生顔合わせ

入部説明の翌日、玉田を含めた低音パートのメンバーは3-3教室に集まっていた。この教室は合奏練習をする音楽室や楽器室から近い。楽器が大きく重たい低音楽器への配慮でもある。音楽室や楽器室からは個人では運搬すら難しい打楽器の音が聞こえてくる。
「さてさて頼もしい唯一の後輩くんが来たところで、例のアレですね!誰が緑先輩の後継なんですか?」
「すずめがやれば。」
「うっそ、みっちゃん先輩、ご冗談を」
「経験者の先輩方で是非。」
「弥生ちゃんも、そんなさみしいこと言わないの!三人ともちゃんと一年間経験したじゃん!」
「それもそうだ。」
「はいはい、後輩くん、困ってまーす。」
「緑先輩というのは、昨年のパートリーダーだったのですね。」
玉田は明るく穏やかに切り出す。口調は滑らかだが、どうも声量に欠けるところがある。
「そうだ。緑先輩はだな・・・それはそれは・・・」
求は急に饒舌になる。
「求くん、今日は勘弁してあげては?」
「ずっと勘弁でいいけど。」
「なんだよ・・・」
「本題本題、ポスターは二年チューバコンビでやりますから。へい弥生!」
すずめは居酒屋の客かのように手を打ち鳴らす。
「はい、こちらを御覧ください!みっちゃん先輩お願いします!」
「じゃ・・・」
美玲が静かに立ち上がりながら赤いフレームのメガネを掛けた。どう見ても伊達だ。
「・・・パートリーダーの鈴木美玲です。」
「玉田くん、どうです?」
玉田の表情が固まっている。
「大丈夫?。どうしようかなぁ。私もつけていいのかなぁ。」
「反応薄いな。」
「は、はやく三人ともかけて。」
美玲に促され、三年生残り全員が赤いフレームのメガネを掛けた。やはり伊達だ。玉田はたまらず頭を抱える。
「・・・何ですか、これ?」
声がわずかに震えている。
「じゃーん、説明係だよ!」
さつきは両腕を前に突き出し、そこから万歳の姿勢を得意げに取る。手首はトレードマークのカーディガンの袖口に覆われている。
「緑先輩に近づけたのなら、俺はそれでいい。」
「先輩方お揃いって・・・とにかく、後輩くんに説明お願いします!」
「といっても・・・なんか玉田くんのほうが詳しそうです。ね?玉田くん?」
「え?、はあ・・・それじゃ・・・」
奏に呼ばれて我に返った玉田は、胸に拳を当てながらつらつらと話した。限りがあるものの、その知識は単純にグーグルやウィキペディアのコピーではない、玉田自身が感じ考えた内容がバランス良く織り交ぜられていた。
「ま・・・参りました。」
「勉強になりました!」
「出番なくなっちゃったねー。」
「すごーい!。今度また教えてほしいな。」
二年生3人とさつきは降参した様子だった。それを見てか玉田はようやくリラックスを取り戻しつつある。佳穂の屈託のない様子に癒やされているようだ。
「見込んだ通り・・・いえ、それ以上でした。」
「それはどうも、奏先輩。低音、賑やかで楽しそうですね。お揃いメガネなんて。」
「緑先輩から受け継ぎました。といっても新三年生みんなで頑張ってねっていうエールとして。」
「・・・です。」
いつも練習の時間は頼もしい美玲だが、こういうときはどうも滞ってしまう。
「そうですか。緑先輩はいつも一人で説明を?」
「ああ、緑先輩は何でも知ってらっしゃった。それを二年間。」
求は急に元気を取り戻したらしい。
「さらに上の先輩が、伊達ではない赤いメガネをしていたそうです。」
玉田はふと窓の外へ視線を移して言った。
「そう・・・ですか・・・」
「玉田くん?、どうかしましたか?」
「・・・あ、すみません。なんでもないです。」
玉田は再び上級生へ視線を戻した。求はため息をつくと新二年生三人の方を向いた。
「おまえら、来年までに緑先輩の名を汚さないようちゃんとしろよ。」
「無理っす!」
「ま・・・任せた、玉田青年。」
「ちょっとあんまりですよ・・・」
「じゃぁ、いっしょにお願い。」
「まいったなあ・・・」
玉田は頭をかく。佳穂には頭が上がらないらしい。
「あら、まんざらでもなさそうですね。では、楽器室へ行きましょうか。私達の説明を聞くより、楽器を見たいのでは?」
玉田の目に輝きが戻った。わかりやすい、とすずめが笑いを堪えるのを美玲がたしなめている。
「はい、お願いします。」

「へぇ・・・たくさんありますね。」
「うわ!、スーザまである!。立華だけじゃなかったんだ。」
「おお、ホルンは567で揃えてるのか。」
「この細長いケースは・・・ま、まさか・・・ファゴットさらにコントラファゴットまで?!。」
「トランペットは850で統一っぽいな・・・」
玉田はまるでおもちゃ屋に来た子供のように棚を眺めている。アルファベットやら数字やらを呪文のように唱えては嬉々としている。男の人ってこうなのかな、なんだか微笑ましい。
「はいこちらです。今あるユーフォは合計四台。」
玉田の視線が奏の使っている楽器のケースに留まる。他のものとデザインにたいして差は無いにも関わらず、視線はそこへ集中していた。
「それは私が使っている楽器です。」
「・・・これだけ、何か違いませんか?」
「鋭いですね、私の愛が詰まっています。」
「ほう。」
しゃがむ私の近くで玉田は立ったまま相槌をしながら棚に収められたケースを見続けている。
「・・・特別に頼んで、お借りしているのです。見覚えが?」
「・・・いえ、そういうわけでは。」
・・・やはり勘違いなのだろうか・・・
「ではこちらの三台からですね。二台が四番サイドアクションですか。佳穂先輩はどちらを?」
「私は端っこのこれだよ。」
「四番トップアクションですか。不便じゃないですか?。」
「・・・待って玉田くん、中身見てないよね?」
「ケースのデザインが少し違うので想像しました。」
「すごーい。詳しいんだね。」
「それほどでも。」
玉田の表情に笑みがこぼれた。佳穂とはすっかり仲良くやっているようだ。
「では、サイドアクションの二台を見せてください。・・・うん、どちらも良い状態です。最近まで使われていたようですね。ということは卒業された方がお二人?」
「久美子先輩と・・・、私です。」
「あ、そういう意味のお二人ですね。」
なぜ、なぜ私は黒江先輩がいたことをそのまま説明できないのだろう。今この銀色の楽器に身を委ねていながら。同じ銀色の楽器なのに?・・・同じ銀色の楽器だから?・・・
「では、佳穂先輩が選んでください。」
「えっ?」
佳穂の驚く声で私は我に返った。
「今後四番ピストンの操作が難しい曲をやる時に、サイドアクションのほうが有利かと思いまして。」
「確かに、これを機に佳穂にサイドアクションに転向してもらうのもありかもしれませんね。」
「ちょ、ちょっと待ってください。」
「もちろん、今のトップアクションのままで良ければそれで。」
「・・・じゃ、私は奏先輩がこの前まで使っていた楽器にします。」
「では、もう一台を使います。」
「ちょっと吹いてみよっかな。・・・左手も使うのって大変そう。」
「すぐ慣れますよ。」
と、楽器室の外から三人を呼ぶ声が聞こえた。
「佳穂、先に行っててください。すぐに行きます。」
「わかりました。」
佳穂は代替わりした楽器を手早く片付けるとパート練習部屋へ戻っていった。

「・・・あなたは、やはり、あのときの?」
玉田を直視できるはずもなく、潜めていたその一言を発するのに随分時間を要したが、返事はなかった。
「・・・戻りましょう。奏先輩。」


新しい目標

楽器決めの翌日、再び低音パート全員が3-3に集まっていた。全員の着席を確認して美玲が一人立ち上がった。
「玉田、昨日は楽器決めご苦労さま。今日はもう一つ説明することがある。」
「・・・あれか。」
求はやや緊張した表情で続いた。
「そう。三日後、顧問の滝先生を交えた最初の全体ミーティングがある。そこで今年の目標を決めることになってる。今年は、事前に上級生から一年生へ説明した上で、参加してもらうことにした。」
「どのような内容を、どのように決めるか、ですか。ということは、これからのご説明は先輩方にとっても新しい内容なんですね。」
「ふたりとも頭いいなあ・・・」
「そう。去年と一昨年は全国大会金賞を多数決で選んだ。」
「他の候補はなんだったのです?」
「もっと緩くやろう、って感じ。」
「ずいぶんと両極端な印象です。」
玉田は小さく首を傾げる。
「ウォーターとオイルのような関係・・・」
「さつき、今はやめてくれるかな。」
さつきは両手を合わせて謝る合図をした。
「確かに、三年前は全国大会出場を掲げて十数年ぶりの出場・銅賞だったから、上を目指すにはもっと上の賞を目標に、となったのかもしれません。」
「納得です、奏先輩。では・・・変な質問をしますね。全国大会金賞を成し遂げたら、それより上をどうやって目指すのですか? それより上って何なのでしょう? 興味があります。」
「さんにんとも頭いいなあ・・・」
「ね、かっこいいね。」
「それをこれから説明する。」
・・・・・・
その内容は理知的な美玲をも悩ませるものではあったが、工夫や配慮を盛り込んだものでもあった。
「・・・なるほど、それはそれで一理ありますね。私はよいと思います。」
「私も賛成ー!」
「・・・俺も。正直、去年のやり方をそのままもう一度ってのは・・・ちょっと。」
「わたくしは・・・黙秘権を主張します。」
「みっちゃん先輩についていきます!。」
「同じくついていきます!。」
「奏先輩、ついていきます!。」
「まずはよかった。部長からまた説明を聞けると思うから。」

約束の三日後がきた。幹部からの事務連絡が完了した頃、顧問の滝が現れた。
「みなさんこんにちは。顧問の滝です。よろしくおねがいします。」
新入生の女子から黄色い声が上がり、二年生三年生はスルーする。これもまた風物詩だ。
「全国大会金賞、これが昨年の目標であり、それを成し遂げました。ですが、私から押し付けたものではありませんし、今年も押し付けるつもりはありません。私は生徒の自主性を重んじることをモットーとしています。今年どうしたいかは、皆さんで決めてほしいと思います。私はそれに従い、全力を尽くします。では、部長。」
「はい。新入生含めてパートリーダーから説明あったかと思いますが、おさらいします。最初は活動説明みたいになりますが、新入生もいるのでみんなちゃんと聞いてください。」
「はい!」「はい!」
二年生三年生の覇気のある返事に新入生は気圧されている。これもまた風物詩だ。
「演奏を披露する機会にはどのようなものがあるでしょうか。一つの形がコンクールやコンテスト。ゴールド金賞・銀賞・銅賞という形で評価されます。他にはイベント演奏やコンサート。大きな拍手やブラボーを浴びたい人も多いでしょう。さらに部内の発表会もあります。」
梨々花のよどみない説明は続く。
「では一つ質問です。みなさん、楽器演奏、うまくなりたいですか?」
「はい!」「はい!」「はい!」
今度は新入生の多くが返事に参加している。梨々花はニコリと可愛らしい笑みを浮かべた。
「はい。うまくなっていく目標、うまくなった演奏を披露する機会として私は吹奏楽コンクールを捉えています。ですので、大前提としてコンクールに参加したいと思います。賛成の方は挙手をお願いします。」
なんの躊躇もなく全員の手が挙がる。既に気分が高揚している者もいるようだ。
「はい。では、ここからが重要です。高いレベル、つまり金賞を取ったり上の大会へ勝ち進むためには、うまい演奏・・・うまいと思って頂ける演奏であることが必要です。ハードで厳しい練習も必要になります。」
「スポ根だよね。」どこからか小さく声が上がる。
「今はお静かに。そしてもうひとつ、コンクールには五十五人の制限があります。これだけ人数がいればどうしても部員同士の競争や切磋琢磨が起きます。それは勝ち上がることを重視すればするほどやはり厳しいものになります。」
教室が静まり返る。
「以上を踏まえて、今年の幹部・各楽器パートリーダーで、今回二つの目標案を考えました。」
梨々花は小さな咳払いをし、小さなペットボトルから水を飲んだ。滝は穏やかな表情で見守っている。
「第一の案は、昨年までと同様、全国大会金賞です。金賞に貪欲にこだわり、それを新しい部員とともにまた挑みたい、というもの。一年前、私達はそれに向かって大いに努力しそれを成し遂げました。」
タイルと玉里が黒板に梨々花の話の要点をわかりやすく書いている。チョークの音が止んだことを確認し、梨々花は大きく深呼吸した。
「第二の案は、全国大会出場・自分たちが最高と思う演奏の追求、です。全国大会まで勝ち進みたいというところまでは同じですが、自分たちが良い演奏とは何かを考えることを最も大切にします。表現を変えれば、必ずしも全国金賞ではなくてもよい、とも言えます。ですが、良い演奏とは、最高の演奏とは、を考えるのは大変なことだと思います。」
梨々花は再びタイルと玉里の様子を確認し、再び口を開いた。
「以上二つの案、今後の活動において重要な指標となりますので、事前にしっかり考えてもらう期間を設けました。」
教室からざわめきはない。やはり事前期間が功を奏したのだろう。各パートリーダーは胸を撫で下ろす。その様子を確認し、梨々花は再び口を開く。
「では決を取ります。案が二つあるので目を閉じてください。周りに流されず自分の意志で挙手してください、パートリーダーや先輩に忖度しなくて大丈夫です。」
教室から瞳の輝きが一時なくなる。
「第一案、全国大会金賞、金にとことんこだわる人。挙手を。」
衣擦れの音がする。
「はい、降ろしてください。では第二案、全国大会出場・自分たちの演奏の追求」
また別の衣擦れの音に混じって吐息の音がする。
「はい、降ろしてください。目を開けてください。副部長。」
「票数を確かに数えましたが、圧倒的な差で第二案でした。ドラムメジャー。」
「私もその目で確認しました。数はこちらをご覧ください。」
玉里が黒板を指す。自然と拍手が沸き起こった。戸惑う者もいるが、多くの部員が納得した表情だ。滝がうなずき一歩前へ進み出る。
「ありがとうございます。この目標はみなさんが決定したものです。昨年とは少し違う形となりますが高みを目指す気持ちもわかりました。私はこの目標に従い全力を尽くします。今年一年間、よろしくお願いします!。」
滝は笑顔で言葉を締めくくり、丁寧に頭を下げた。
「よろしくお願いします!」「よろしくお願いします!」「よろしくお願いします!」
その返事は力強さ・優しさが不安を飲み込み、高揚感あふれるものだった。


春の練習の日々

部の目標が決まりいよいよ練習がスタートした。
「玉田くん、やっぱり上手だしいい音するね。物知りだし、スタートしたというより合流したって気がする。入ってくれて嬉しいな。」
「いえいえこれからですよ。」
「ほんとに何でもどんどん言ってね。」
「ええ、佳穂の言う通り、低音は学年関係なしに何でも言うことにしています。どうぞ続けてください。」
ユーフォニアム三人で話している向こうから、玉田を呼ぶ声が聞こえてきた。
「玉田、ちょっと来てくれる?。」
「はい、美玲先輩。」
「ちょっと玉田青年!いきなり下の名前呼び?」
「あ、いえ、鈴木先輩がお二人ですし。奏先輩と佳穂先輩は最初からこのように呼んでいます。」
「なんだつまんないなあ。」
「すずめ、何を期待してたのよ・・・」
「もちろん、それでいいよ。」
「じゃあ、私もさつき先輩って呼んでー。」
「さつき先輩、何かあれば呼んでくださいね。」
「はーい!」
「玉田、これ・・・教えてくれる?」
「ええー、ついにみっちゃん先輩が女を見せる時が来た!」
「は?、馬鹿じゃないの?」
「すずめ、後で屋上、って言われたい?」
「す、す、すみませんでした!。」
「ごめんねうちの後輩が。で、ここなんだけど、何かが引っかかる。なんか、アイデアない?」
楽譜を指差す美玲の目は至って真剣だ。もっともいつも真剣なのだが。
「もういちど、聴かせてもらえますか?」
ーーーー♪ーーー
傍から聴いたら高難度の楽譜をこなし、いったい何に苦労しているのかがわからない。奏もさすがとうなずく。
「息のコントロール、タンギングはいけてると思う。けれど・・・」
「ええ、すごくいいと思います。楽譜の読み落としもない。だからこそ、もっとこうしたいという引っかかりも聴こえました。」
「玉田くん、そんなのわかるの?」
「ええ、なんとなく。」
そういう玉田はにこやかに笑っている。二年生の三人は揃ってぽかんとしている。
「うん、そう。バレてたか。で、どう?」
「少し、右肘を積極的に動かしてみてはどうでしょう?」
「え?、余分な力が入ってるかな?」
「むしろ逆です。役に立つ力はどんどん使って良いはずです。少しひねりを入れる感じで・・・」
「こんな感じかな?。やってみる。」
ーーーー♪ーーー
「あっ!。」
「いいですね、そのまま行きましょう!。」
ーーーー♪ーーー
「美玲、変わってます。難しい楽譜が、難しく感じない。」
「なるほど・・・楽器との一体感が増した、体だけでなくて心理的にも楽になった。」
「ほえーーー」
「みっちゃんを解き放った!ーーー」
「これで鬼に金棒だーーー」
「誰が鬼だって?」
「お前じゃん。」
「こら、求!。」

「じゃ、じゃ、玉田青年、私も教えて。」
「はい、上石先輩。ではスケールを聴かせてください。」
ーーーー♪ーーー
「その先のオクターブまで。」
「うひゃーしんどい・・・」
「だからこそお願いします。そのほうがいろいろとわかります。」
ーーーー♪ーーー高音が苦しそうだ。
「はあ・・・できないんだよなこれ。」
「では提案します・・・左腕の使い方です。楽器をもう少しだけ体に引きつけてみてください。」
「でも、マウスピースへのプレスになってしまわないかな?」
プレスというのは、唇をマウスピースへ押し付けすぎることだ。音色や柔軟性が損なわれるだけでなく唇を痛める原因にもなる。
「押し付けではありません。密着です。上石先輩の音から息漏れが聞こえたんです。美玲先輩ならこの違いをわかってくださると思います。」
「確かにそうね。弥生、言われたとおりにやってみて。」
「は、はい。」
ーーーー♪ーーー高音がスムーズになった。
「えー!できたー!。嬉しいー!。」

「こら、玉田くん。私にも教えてくださる?」
「いやあ、正直、奏先輩の奏法は理想的なんですよね。」
「いいから教えなさい?」
「は、はあ・・・」
「何かあるでしょうに。」
「うーん・・・攻める音でしょうか。奏先輩はハイトーンがすごく綺麗なのですが、攻撃力のあるというかパンチの効いたハイトーンの選択肢もあるといいかな、と。」
「どうしてそうと?」
「初めからなんとなく出せたんじゃなくて、練習の賜物って聞こえるんです。まだいけますよ、いけたら鬼に金棒だと思います。」
「あらあら、また鬼ですって。」
教室中がドッと笑いにつつまれる。
「じゃあ、私の番!待ってたんだよ!」
「佳穂先輩は高校から始めたんですよね。」
「うん!だから楽器は玉田くんのほうが先輩だね。」
「うむ、しっかり頑張ってくれたまえ、針谷さん!」
「はい!玉田先輩!。じゃ、この前言ってた薬指の使い方を復習したいです、楽器変わったし。」
「はい。ご自分の三本それぞれの指の長さを意識して、肘をリラックスして脇をしめすぎないように、楽器のピストンに薬指から順番に置いていってください。」
「玉田くんは練習よりも教えるほうが楽しいの?」
「うーん、楽器を吹けない日にどうやったらうまくなるかなあ、とか、もっと自由に思い通りに楽器を操りたいなあ、って考えたり調べたりしてます。って、一番後輩がこれじゃいけないですね。あはは。」
「そんなことないよ、すっごく参考になる!」
「ありがとうございます、さつき先輩。」
「さて、そろそろちゃんとあなたの音を聴かせてもらいましょうか。この教則本の最後。」
「ああ・・・これですか・・・」
玉田は苦笑いをしながら頭をかく。しかけた奏はというと、いたって真面目な表情だ。
「やったことあるの?」
「ええ・・・ちょいと覚悟が必要ですね。」
玉田が入部してから少し日付は経ったが、早めに帰る玉田の音をちゃんと聴いた人は多くなかった。玉田はいつしか浴びている注目を知ってか知らないでか、ゆっくりと歩きながら教室の別の方向へ体を向け、ゆっくりと呼吸を整え始めた。
「理想的な立奏姿勢。でも、もうちょっと猫背は直したほうがいい。」
ひとり美玲は玉田の別の箇所にも感心していた。
玉田は音を鳴らさずに息を楽器に吹き込み始めた。静かに安定したスーという音の糸が紡ぎ出される。
「い、いつまで伸ばせるの?」
そんな言葉はお構いなしに、軽く数十秒は経っていた。ふう、と玉田はため息をこぼし、顔をしかめ舌打ちをしながら軽く目を閉じ小さく頭を横に振った。刹那、目を大きく見開きマウスピースを口に当てると今度は楽器を吹き飛ばしそうな勢いで息を何度も吐き込んでいく。ベルの中で風が渦巻いているようだ。
そしてついに楽器から音が鳴り始めた。静かなロングトーンはあっという間に音量を増し、トランペットかと聞き間違えるような高音から チューバかと聞き間違えるような低音域まで駆け巡り、四つのピストン全てが軽やかにポコポコと鳴っている。
もう一度ため息を付き、咳払いをし、一閃。
「やってみましょう。」
奏が垣間見たその顔から笑みはとっくに消えていた。本気だ。
ーーーー♪ーーー
・・・・・・
私は、いや、全員が、唖然としながら玉田の演奏する練習曲を聴き入っていた。あてずっぽうや行きあたりばったりとは無縁な計算された丁寧かつ表現力のある演奏。的確なブレス、軽快でスムーズなフィンガリング。つなぎ目を感じない高音と低音の間の跳躍。足りないものはあるんだろうか?音量がさほど大きくない以外に思いつけない。
最後の小節の最低音を豊かに鳴らしきり、曲は終わった。
「ぷはあ・・・手強い!」
玉田はようやく少年のような笑みを取り戻した。
「素敵!かっこいい!」
佳穂が拍手しながら声を上げる。
私も拍手の代わりに楽器を叩きながら、静かに身震いした。あの黒江真由の姿が鮮明に思い出される。大いなる驚異というのが第一印象だった、今の私と同じ銀色の、しかもマイ楽器を引っさげて福岡の超強豪校の清良女子からやってきた黒江真由。
「奏先輩、楽譜ありがとうございます。」
しかし、かけられた声で我に返った私の前に立つ屈託のない笑顔の彼からは、敵意や脅威のようなものはどうしても感じることができなかった。
「こ、こちらこそありがとうございます。すごかったです。」
「どういたしまして。はあ、たくさん吹いたらなんだか腹減ってきましたね。」
「飴ちゃん食べる?」
「釜屋先輩、飴は楽器吹けなくなるんで、要りません。」
「おお、真面目。」
「こら、一年生、先輩にはお礼を言って、もらうだけもらっておけばよいのです。」
「あ・・・すみません。」
「じゃあ、佳穂みたいに下の名前で呼んでくれたら許す。弥生もね。」
「・・・わかりました、頂いておきます。すずめ先輩、弥生先輩。」
そう返した彼の表情には笑みが戻っていた。暖かい春の日だった。

サンフェス練習

ゴールデンウィークを過ぎ、屋外パレード演奏であるサンライズフェスティバルの本番が近づいてきた。一年生には初めての演奏披露となる。グラウンド練習のこの日は雲ひとつなく日差しが強く異様に暑い。例年なら長袖姿も多いのだが今年は女子でさえも半袖姿が多い。
「ねえねえ、玉田青年、それ暑くないの?」
汗を拭く弥生は健康的な半袖姿だ。
「意外と涼しいんですよ。」
玉田は学校指定体操着Tシャツの下に 七分袖のアンダーウェアを着ている。野球選手がユニフォームの下に着ているものに似て体にぴったりしている。
「でもこの前届いた本番衣装では着ないよね?、その濃い色は目立つんじゃない?」
「そうなんですよね、色違いを急いで注文しました。親父に呆れられました。」
「着るのか!」
「もうやみつきで。」
「あはは、何でも工夫しちゃうんだね。」
そういう佳穂は色白の割には体操着の半袖姿だ。上着は腰に巻き付けており先程までは着ていたようだ、日焼けを気にしていたのだろう。
「涼しいのは気化熱ですよ。」
「勉強の話はやめてー」
「水をかけて、その後動いたり風を当てたら涼しくなるんです、ほら。」
そういうと玉田は水筒の水を二の腕にたらして腕をゆっくりと振っている。
「水浴びみたいだね!」
そういうと佳穂も水筒の口を開けて肩口からかけようとした。
「佳穂先輩!普通の体操着にかけるのは・・・」
「さ・・・寒いかも。」
「乾きにくいんじゃないかな・・・言うのが遅れてすみません。」
「ほら、佳穂、タオル。」
「弥生、ありがと。まだ5月だったね。」

いつしか三年生も集まって、低音パートは休憩時間のひとときを過ごしていた。
「ところで、肩凝りにも効きます?、そのウェア。」
奏はやれやれと腕を回している。
「ええ、奏先輩、サポーター効果ありますよ。自分も肩凝りひどいですから。」
「あら、そうですか。ふふ、じゃあ肩を叩きましょうか?」
奏が冗談っぽく玉田に近づいたら玉田が険しい顔をして後退りした。
「・・・くっ・・・」
玉田は奏を睨んだが、すぐに表情を緩めた。
「ご、ごめんなさい。」
奏は慌てて頭を下げる。
「こ、こちらこそすみません。その・・・びっくりして。」
「さては照れてるなー。」
「こんなチャンスを!」
「ご褒美なのに!」
「お前ら!」
「ひっ!」
はやし立てる声をねじ伏せたのは数少ない男子である求の呆れたような一喝だった。
「久石、おまえそんなにリンチが好きか?自分にとって何気ないことや冗談でも、それをされた人間がどれだけ腹を立てたり傷ついたりするか、もっと考えろ。一年のときから何も変わってないな。」

・・・リンチ。ひどく棘の鋭い言葉だが、かつて自分はその言葉を吐いたことがある。それをされていると感じた、いや、自分が感じていると相手に思い知らせたかったからだ。一体何をしているのだ、三年生にもなって、まさか加害者側と評されるなんて。
奏は佇まいを整えて一歩前に出た。
「玉田くん、悪気はなかったんです。本当にごめんなさい。」
玉田は大きくため息をついて、踵を返して振り向かずに言った。
「もう触ろうとしないで下さいね。」
「は、はい。」
「求先輩、ありがとうございます、自分は大丈夫ですから。」
立ち止まって振り返った表情はいつものものに戻っていた。
その場は収まったが、申し訳無さと、少しばかりの違和感が残っていた。
(どうして、そこまで・・・)


サンフェス当日

いよいよサンフェス本番当日。早朝から楽器をトラックに積み込む。先頭に立って指示を出すのは三年生の前田颯介と蒼太、双子で打楽器だ。他の男子も運搬要員だが、今の一年生二年生には男子が少なく、女子部員も積極的に荷物運びをしている。
「ほら、玉田いくぞ。」
「はい!」
そのとき、蒼太の手から楽器ケースの端が滑り落ちた。ドスン、ガシャンという音がした。
「大丈夫か!」
「いてて・・・」
「手を滑らせたのはこっちだ、すまん!。」
「いえ・・・この程度を支えきれなくてすみません。」
「どうしたの!玉田!。」
「美玲先輩。」
「ちょっと、血が出てるじゃない。口元は?。応急処置しないと。楽器吹けなくなるのは困る。私に免じてとはわがままだけど・・・玉田をはずさせてくれる?ごめん。」
「いいよ、気にするな。」
「すみません、それよりさっきの楽器は・・・」
「大丈夫。おかげでキズひとつない。ありがとな。」
そこへ奏と美智恵がやってきた。
「どうした?。玉田か!?、大丈夫か!?。」
(?先生?そこまで動揺しなくても?)
「いや・・・見せてみろ・・・多少処置が必要なようだ。」
「保健室ですか?。先生、今日は開いていないはずです。」
「そうだったな・・・そうだ、会場に救護施設がある。一足先に移動してそこで手当してもらうといい。」
「・・・お恥ずかしい限りです。」
「何を言う。こういうときのために普段は保健室があり、こういうイベントでは救護施設がある。」
「しかし・・・」
「思うところがあるのだろう。確かにトラブルがないに越したことはない。しかし、それはゼロにはならない。だから、そういう人たち、そういう役目や職業がある。」
「先生、今進路相談じゃ・・・」
「黙って聞けっての。」
美智恵は颯介の方を一瞥してから続けた。
「ただし、宿題もテスト勉強も自分でやってくれれば、教師の仕事もずいぶん楽になるのだが。」
「あちゃー。」
「ほら聞こえてた。」
颯介は頭をかく。
「では早いほうがいい、私は別の係でもあるので、一緒に車で移動だ。久石、一緒に来れるか?。私は現地に着いたらすぐに行かなければならない。」
「わかりました。一緒に行きます。えっと・・・」
「奏、任せたって言えばいいの。」
「じゃあ・・・任せます、美玲。」
「任せて。じゃ求、運んで。」
「俺はフラッグ運んでるだろ。」
「・・・なんか本数多くない?」
「・・・緑先輩の分だ。」
「あー・・・」「あー・・・」
「求、自分で持って帰れよ。」

(車で移動中)
「一時はどうなることかと。」
「お手数をおかけしました。その・・・先輩たちすごく頼りになって助かりました。」
「久石ももっと先輩らしくなっていいのだぞ?。」
「いえいえ私はもう。ああ、そうそう、痛みが収まってからでいいので。マウスピース、持ってきましたよ。」
「あー、助かります。」
玉田は差し出された奏の手からひょいとマウスピースを取り、躊躇なく口に当てる。
「っつ・・・」
「いきなり大丈夫?。」
「確認しただけですから。唇やアンブシュアに大して影響は無さそうです、痛みが引けばなんとか演奏できそうです。」
「それはよかった。他にも痛むところはないか?。」
「はい、ちょっと打ち身したようです。行進は・・・多分できそうです、足は痛くないので。」
「よかったです。ところで、そのマウスピース、私のだって言ったら?。」
奏はニヤニヤしながら玉田を軽く覗き込む。
しまった、この前あんなに怒らせてしまったのに、どうして私は・・・。急に恥ずかしくなってきた。
「あ、それはないです、だって先輩のとは型番違うんで。」
「そ、そうです。冗談。」
「まったく、何がしたかったんですか、先輩・・・」
「あら、玉田くんは何を想像したのですか?」
「まったく、おまえらは中学生か・・・」
ウィンクをしながらおどける奏をよそに、二人の大きなため息が聞こえた。

会場の救護スペースでしばらく玉田の様子を見たあと、LINEで送られてきた合流段取りを確認した。玉田は処置のため仮設カーテンの中へ行ってしまったので、外へ出た。到着が早かったせいか周囲に他校を含めた学生はまだほとんどいない。なんだか得をした気分になる。
「いつも朝早かったあの先輩ならきっとあの曲を吹くのでしょう。でも、いま手ぶらだし・・・」
周りに人気がいないのを確認し、静かにハミングした。響け、ハミング。なんかしっくり来ない。早くあのユーフォニアムに触りたい。そう思ってならなかった。空は抜けるように晴れていた。
ぽん。
小さな花火が一つ上がった。いい本番になりそうだ。


続く

一つ後:二章 三年生進級~京都府大会(後)

一つ前:一章 二年生前半(1/9)



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