【自然の郷ものがたり#1】守りたいものは、自分たちで守る。 未来を他人任せにしないまちづくり【聞き書き】
「この町の自然は、俺たちが守ると思ってるから」
阿寒観光協会まちづくり推進機構の副理事長を務める松岡尚幸さんは、取材でそう力強く語ってくれました。
阿寒湖の水がコップですくって飲めるほど綺麗だった時代から、バブル景気で多くの観光客が訪れて自然環境が蔑ろにされた時期、そしてコロナ禍という先が見えない状況に立たされている現在まで。
変わりゆく阿寒の姿を間近で見てきた松岡さんに、観光地における自然との向き合い方や、決して他人任せにしないまちづくりの姿勢について伺いました。
松岡 尚幸(まつおか ひろゆき)
1952年生まれ。釧路市阿寒町出身。阿寒湖温泉で半世紀以上の歴史を持つ老舗旅館「東邦館」を経営する傍ら、阿寒観光協会まちづくり推進機構の副理事長や、阿寒湖畔スキー場の所長を務める。過去には市や町の議会議員も務めており、あらゆる角度から阿寒の自然と共存していく暮らしを考え、体現している。
※この記事はドット道東が制作、環境省で発行する書籍「#自然の郷ものがたり」に集録されている記事をWEB用に転載しているものです。
すくって飲めるほど綺麗だった阿寒湖の水
うちは、親父が漁師だったんですよ。阿寒湖漁業組合の組合長を、ずうっとやってたの。だから、俺も小さい頃からよく船に乗せられてね。自然のなかでいろんな経験をさせてもらったんだわ。
当時の阿寒湖っていうのは、ものすごく綺麗だったの。親父についていって船の上で弁当を食べるときには、湖の水をコップですくって飲んだもんですよ。それくらい綺麗だった。だけど、そのうちに観光客がいっぱい来るようになって、排水はほとんど垂れ流し状態になったでしょ。俺が高校生くらいの頃には湖がヘドロでいっぱいでね、もう臭くて近くを歩けなかったくらいさ。それぐらいひどかったですよ。
廃水処理場ができてからは、水質が改善されてね。5、6年前には、水の透明度が9メートルまで戻ったんです。
これは大正時代と同じ状態らしいよ。大正っていったら、阿寒湖が国立公園に指定される前ですから。その時代のことは知らないけど、少なくとも俺は綺麗だった阿寒の自然が汚れていって、徐々に改善されていく様子を見てきたわけさ。
俺自身は阿寒で生まれ育って、中学で釧路、高校で札幌に出たの。高校からずっとスキーをやってて、大学でもスキー部にいて、そのまま東京でスポーツウェアのメーカーに就職したんですよ。そこで、レーシングサービスっていって、ウェアの技術開発や商品提供でスキー選手のサポートをする仕事をしてたわけ。ちょうど景気のいい頃だったからね、選手と一緒に世界中のあちこち行ってさ。
だけど、1980年に開催されたレークプラシッドオリンピックの後に親父が倒れてね。それで、仕事を辞めて阿寒に帰ってきたんですよ。
「自然を守るために、一定の開発は必要」という学び
阿寒に帰ってきてからは、おふくろがやってた旅館の仕事を手伝っててね。ちょうどその頃にさ、国が「ふるさと創生事業」っていうのやってたんだよ。地域復興のために、各市区町村に1億円を交付するって政策だったんだけど。
それに合わせて阿寒町は7つの計画を立ち上げたんだけど、そのうちのひとつにスキー場の開発プロジェクトってのがあったんですよ。そこに町からの委託で、俺も関わることになったんだわ。長くスキーに携わってたもんだから。
松岡さんがオープンのために尽力した国設阿寒湖畔スキー場「ウタラ」
阿寒湖には昔からスキー場があったんだけど、俺は人工降雪機をつけようという提案をしたの。なぜかというと、国内のスキー場ってオープンするのが12月とか1月なんですよ。だから、日本人の選手って夏から秋にはヨーロッパへ練習しに行くわけ。でね、当時スキーのコーチをやってた先輩から相談を受けたんだわ。「11月だけでも国内で練習できる場所を作りたいんだけど、お前のところはどうだ?」って。
当時、阿寒のスキー場は毎年1月にオープンしてたの。だけど、試しに阿寒の過去20年くらいの気温を調べてみたわけさ。
そうするとね、まぁ今でもだいたいそうなんだけど、10月の20日を過ぎると気温がマイナスに入ってくる。
で、10月の末になると、マイナス10数度まで下がる。ほぼ24時間マイナスって状態になるのが、11月の20日過ぎなんです。だから、11月はちょっと厳しいなと思いつつも、町には人工降雪機の導入を提案したのさ。
それで、まずは阿寒で環境省のレンジャーをやってた人とか、何人かでカナダのスキー場へ視察に行ったんですよ。
ウィスラーとかバンフ、ジャスパーなんかにね。そこでスキー場を経営する人たちに話を聞くっていう海外視察に行ったわけさ。
そのときに一番学んだのはね、「地域の自然を守っていくために、ある一定の開発は必要だ」ってことだったんですよ。
スキー場の開発っていうのは、自然を破壊するわけでしょ。木を切るってことなんで。でもね、自然を守るためには、そこにどういう価値を見出すかが重要だっていう考え方を学んだのさ。
つまり、「自然を守るために、その場所を開放する」ってことなんだけど。
松岡さんお気に入りの阿寒湖の写真。昔から通っている釣りポイントで、この朝の風景を見られたのは一度きりだという
もちろん、そこにはルールが必要ですよ。ルールは作るけど、開放しないと守る価値が見出せないよと。何もしなかったら自然は絶対に壊されていくんだと。そういうようなことを学んだわけ。
だから、スキー場に人工降雪機をつけて、その価値を高めるってことを考えたんだけど、導入のための会議ではすごい批判も受けてね。降雪機を2台導入するのにかかる費用が、工事費を含めて1億8000万円だったの。
そのことを会議で説明したら、ある人が言うわけ。
「うちの町は、除雪費に5000万も使ってるんだぞ。それなのに金をかけて雪を降らすのか?」って(笑)。
そりゃあ、そういう批判もあるよね。それで、人工降雪機の計画は一度頓挫したんだわ。
その2年後かな。阿寒の町長選があって、そこに教育長だった人が立候補したんだ。で、俺はその人のところへ行って、「スキー場に人工降雪機をつけてくれ」って直談判したのさ。
降雪機をつけてくれるなら、あなたを応援するって。今から考えたら、冷や汗もんだよな(笑)。
でも、話をしたら、降雪機をつける価値を理解してくれたんですよ。
だから、俺は応援演説もやりましたよ。それに周りの仲間も協力してくれてね。そしたら、その人が勝ったのさ。
それでね、選挙が4月末だったんだけど、秋には人工降雪機がついて、11月の20日にはスキー場がオープンしたんですよ。例年より2ヶ月も早いオープン。
そのときに、俺は思ったね。「いやぁ、政治ってのはすげえな」って。
人工降雪機の設置が決まってから、俺は全国のスキークラブや大学のスキー部を調べて連絡しまくったんですよ。
その結果、1年目にはミズノのスキー部、NTT北海道のチーム、明治大学のスキー部、富山第一高校のスキー部、それと秋田の少年団の5組が来てくれたのさ。
まぁ、実績がゼロだったから、ほとんど俺の知り合いみたいな感じだったんだけど。
それでも、道東の冬は天気がいいからさ、練習はすごくやりやすいわけ。
ちゃんとスケジュールどおりにいく。そういう環境が評判になって、次の年には何十倍ものお客さんが来てくれたんですよ。
若い世代が暮らしていけなければ、町に未来はない
バブルの時期は、阿寒も景気がよかったですよ。
でも、バブルが弾けてからは本当に苦しかった。ちょうど宿の建て替えで大きな借金をしてたし、結婚して、子どもも3人いたからね。
俺の周りもみんなそう。お客さんが減って、商売が厳しかった。
子どもたちが帰ってこれるような商売をやってる人なんて、ほとんどいなかったね。
今でもよく覚えてるけど、札幌の学校に行ってた息子を送っていって、帰りに高速に乗ったんだ。で、運転してたら、ふと気づいたのよ。
「あれ、俺金ねえ……」って。
そのとき財布の中に1500円くらいしか入ってなくてさ。すぐ次の出口で高速を降りて、下道を走って阿寒まで帰ってきましたよ。そのときは泣いたね。情けなくて。
それでも、子どもたちが札幌に出てた頃は、一日の最後には必ずガソリンを満タンにしてたよ。
何があっても、すぐ札幌に行けるように。そういう経験をしてるから、町の経済もなんとかしたいのさ。
子どもたちには、そんな経験させたくないと思うから。
俺は今年で68歳だけどね、こう見えていろいろやってきたんだよ(笑)。
市や町の議員も合わせて4期やったし、マリモ保護会の会長もやった。冬場にお客さんが減るからって「阿寒湖氷上フェスティバル」を立ち上げたのも俺らなのさ。
そういうなかで思ったのは、やっぱり「この自然を守ることが、阿寒の生き残る道だ」ってことなんですよ。ここには、どこも真似できない素晴らしい自然があるんだから。
でも、そのためには収入が絶対に必要なんだよ。
言い方悪いけど、町が貧乏だったら、自然は守っていけないですよ。若い世代が生活していけなかったら、自然を守る人もいなくなるわけだから。
世代を繋いでいくためには、収入を得なきゃならないでしょ。
だから、地域の経済が健全であるってことはね、うちらのような自然とともに生きてる町にとっては本当に大事なことだと思う。
俺ね、息子が中学生のときにPTA会長をやってて、そのときの卒業式で言ったのさ。「これから君たちの多くは街に出る。
大変なこともあるけど、まずは頑張ってきなさい。だけどね、頑張って頑張って、それでダメだったら、いつでも阿寒に帰っておいで」って。
「お前たちが帰ってこれるまちづくりを、父さんたちの世代がちゃんとやるから」って、そう約束したんだわ。
まちづくりって、そういうものだと思うんだよ。
しっかりと世代を繋いでいける町っていうのはいいじゃないですか。そのためには、やっぱりちゃんと収入を得られて、若い人たちが戻ってこれるような状況にしておかないといけないのさ。
それが町の未来をつくるってことでしょ。
そのときに大事になるのは、住んでる人たちが町を愛することと、その責任だよね。
単に町を愛するんじゃなくて、責任を持ってまちづくりをしていく。結局、それが世代を繋いでいくってことだと思うんだ。
うちの息子は一昨年、こっちに戻ってきて、今は宿の手伝いをしてくれています。阿寒を離れてた時期のことは詳しく分からないけど、高校、大学、社会人になってからも、いろんな人たちと出会ってるわけね。
それを俺は、息子の結婚式で実感したのさ。こんな人たちにお世話になってたんだって。そのときは、涙ながらにお礼を言いましたよ。
周りの友だちとか、先生とか、会社の人たちにちゃんと育ててもらえたんだなって。
これは本当にね、親としてはありがたいことです。
自分たちの町の自然は、自分たちで守る
景気がいい時期も悪い時期も見てきたけど、その上で今後に向けて思うのは、「欲を持つな」ってことだね。経済がどこまでも発展するなんてことは、あり得ないから。
これからの阿寒は、人を集めるためにイベントをやったりするのではなく、自然のなかで過ごすことを売りにするべきじゃないかなと思ってる。
宿では温泉と食事、それと人的なサービス。そういったものを確立して、しっかりやれる規模ができたら、それで収めるべきじゃないかなって。
そうしていつか、イベントなんかしなくても、花火なんか上げなくても、お客さんが来てくれる町を目指そうって、俺としてはそう思ってるんだよね。
そのためには、まず町の人たちが阿寒の自然の豊かさを理解するべきだと思います。
1年の中で阿寒の自然がどう動いてるのかってことを、知らない人が多いんじゃないかな。この時期のこういう時間帯には、こういう現象や動物が見られるっていうような案内をさ、もっと町や観光協会が出すべきだよね。
その重要性をしっかり理解してないのは、もったいないですよ。特に若い人たちは、これからも先があるんだから。
阿寒の豊かな自然の価値を知るには、やっぱりもっと家の外に出るべきさ。俺は小さい頃から、親父と出歩いてたからよく分かるんだ。
だから、おふくろと女房が宿の仕事をしてるときも、俺は遊んで歩いてたわけさ。スキーだ、フライフィッシングだっていってね。そうやって遊んでるなかで人付き合いが増えて、お客さんが来てくれるようになったんだよ。
6月になったら釣り宿かってくらいフライフィッシングのお客さんが来るし、12月になったらスキーのお客さんがいっぱい来るようになった。
それは、親父と一緒に外での遊びを経験するなかで、自然は多くの人にとって価値のあるものだってことを理解できたからなんだよね。
町の人に対して「もっと遊びなよ」っていうのは、ちょっと語弊があるかもしれないけど、家の外に出て遊んでると、いろんなものの価値が見えてくるんだよ。
そのためにもね、やっぱり少しずつでも自然の開放に向かっていかなきゃなんないのさ。ルールを作りながらも、開放に向けて動いていく。
そのなかで、町の人が自然の価値を理解してくれるようになれば、もっといろんなことを楽しめるでしょ。
世の中の意識っていうのは、徐々に変わっていくもんなんですよ。うちのスキー場もね、昔はロッジでも喫煙可だったの。
でも、俺たちが運営を任されるようになってからは、ロッジ内は禁煙にしたわけ。
そのときはまだね、抵抗がありましたよ。だけど、今は禁煙に対する抵抗って少なくなってるでしょ。
だからきっと自然に対する価値観も、人の意識が変わることによって、少しずつ変化していくと思います。
今はまだ自然保護の意識が高まってるのは一部だから、ルールを作らなきゃいけないし、自然を管理する必要もある。でも、やっぱり少しずつでも開放に向かっていかなきゃなんないのさ。
そうやって多くの人の価値観が変わってくると、自然のなかでもっといろんなことを楽しめるようになるから。
まぁ、そうは言ってもね、今の俺の話は理想論だとも思ってるよ。
思ってるけど、一歩ずつ、半歩ずつでもいいから、理想に向かっていかなきゃダメじゃん。
そっちに向かっていく姿勢を維持しないと、いつまで経ってもそうはならないもん。諦めずにやるしかないよね。
俺はさ、この町の自然は、俺たちが守ると思ってるから。環境省の人を前に、こんなことを言うのもアレだけどね(笑)。
でも、本当に。環境省に阿寒の自然を守ってもらうという感覚はね、絶対に持っちゃいけないと思ってる。もちろん、一緒にはやるさ。ただ、環境省にお任せ、国にお任せではダメなのさ。
ここは俺たちの町なんだから。そういう意識はね、やっぱり強く持つべきだと思いますよ。
取材・執筆:阿部 光平
撮影:國分 知貴・.doto編集部
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