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【自然の郷ものがたり#15】「ここの自然が好きだから」和洋菓子作りで川湯弟子屈を見つめる【聞き書き】

川湯温泉街で唯一の和洋菓子店「菓子司 風月堂」(2022年2月現在)。観光客だけではなく、住民の生活に「和洋菓子作り」を通して寄り添ってきました。時代とともに変化する川湯温泉街を定点から見続けてきた鈴木ご夫妻。

寂しくなった町の姿に「町を誇れるようになりたい」という思いが自然と湧き出したといいます。かつての川湯の風景や、10年ほど前から取り組みをはじめた地元の農産物を使ったお菓子づくり、そして町の未来についてお話を伺いました。

かしつかさ ふうげつどう/1973年、川湯温泉街のメインストリートに創業。店頭には「シロツツジ」や「ポンポンヤマ」など川湯の自然をモチーフにしたものや、地元農家さんから原料を調達し、パッケージまで手作りにこだわった地産地消のお菓子まで、50種類以上のオリジナルお菓子が並んでいる。菓子職人の鈴木信一(すずき・しんいち)さん(写真右)と、接客を担当される奥様の鈴木由美子(すずき・ゆみこ)さん(写真左)。

※この記事はドット道東が制作した環境省で発行する書籍「自然の郷ものがたり 2」に集録されている記事をWEB用に転載しているものです。

働くことが苦にならなかった幼少期

信一 父は美幌町の生まれなんだけど、お兄さんが先に川湯でお菓子の製造販売をしていたこともあって、学校を出た後、川湯に来て奉公みたいな形で働いていました。母も美幌町の生まれだったから、私は、小さい時は母と兄弟三人で美幌町に住んでいて、父だけが川湯で単身赴任みたいにして働いていました。1962年ごろかな、私が8歳になった時に、家族で川湯に越して来たんです。当時は、今店舗がある土地の隣にお店があって、その裏に住んでました。

川湯小学校、川湯中学校に通っていたんだけど、当時の思い出といったら、「白つつじ祭り」っていうのがあって、松明持って、全校生徒で学校から硫黄山まで歩いたんです。女優さんなんか来て、みんなでつつじのところで撮影会したり。あとは横綱になる前だと思うけど、川湯出身力士の大鵬幸喜さんが川湯をよく歩いていました。美男子だから、やっぱしみんな群がってましたよ。

高校は、弟子屈高校に通っていたんだけど、自転車で硫黄山まで行って、硫黄山から川湯温泉駅までバスに乗って、そこから電車で通っていました。道はたしか舗装になってましたね。硫黄山から家までは下り坂だったから、自転車でビューっと下れて、楽でしたね。ただ、硫黄山はさ「火の玉が出る」だとかそういう噂があったから、やっぱしひとりのときはおっかなかったですね。

母はその頃、硫黄山の露店で商売をしていました。町内の人が集まって、露店を4〜5軒出していたかな。煙の出ている手前のところにバラック小屋みたいな建物だったんだけどね、途中で建て直して、今のゲストハウスになったの。よく私も手伝いに行っていた記憶があります。恥ずかしくて「いらっしゃいませ」が言えなくてね。売ってたのはお菓子じゃなくて、カメラのフィルムとね、ペナント、キーホルダーとか。観光バスがひっきりなしに何台も来て、隣のお店と「そのお客さんは、私が声先にかけたの!」とかケンカしながらとにかく売ったっていう記憶があるね。

当時、父も母も忙しく働いていました。私も小さい頃から働くことは好きだった感じだね。そんなに苦にならなかった。やっぱし親の姿見てたんでないべかね。お菓子屋さんになることは小学校のときから決めてたんです。だから高校を出た後は、川湯を出て、修行に行きました。まずは北見市の羽前屋さんで5年間、妻ともそこで出会いました。次に、今はなくなっちゃったんだけど、小樽市の千秋庵で2年間。「何年か修行したら帰ってくる」って決めていたから、結婚を機に1976年ごろに川湯へ戻ってきました。

賑やかな川湯温泉街の思い出

信一 帰ってきてすぐ菓子職人としてお店を任してもらえたんだよね。なにか言葉をかけてもらったわけではなかったんだけどね、スムーズに継承しました。

由美子 お義父さんは、器用な人だったけど、お菓子の修行をしたわけではなかったからね。息子がしっかり修行して戻ってきてくれたから「学んできたものをここでちゃんと出してやりなさい」ってお店を任してくれたんですね。お店と家も建て直してくれてね。今お店で使っているショーケースもその時に作ったものだから、もう四十数年使っています。
お義父さんは寡黙でしたから。いつもにこにこっとしていて。いろんなこと心に思っていたと思うけど、言葉に出して言うことはなかったですね。

信一 私たちが帰ってきた時には大体、川湯の人口が2300〜2400人くらいかな。一番ピークだったと思うんだけど、その人口プラス観光客がいるから、お菓子屋さんを続けていくのはたぶん大丈夫でないかなと思いました。ホテルも次々開業してね、店の前の通りも下駄の音が響いていましたから。

由美子 その頃、道東の小学校の修学旅行は、川湯に泊まって網走に行くコースがお決まりだったんですよ。川湯に泊まりきれないくらい人が来た時期が何年か続いて、毎日たくさんのお客さんがいました。ちょうどお店の目の前が自主見学の解散場所でしたから、先生の「はい!みんな、何時にここにまた集まんなさ〜い」って言う声が聞こえたら、夕飯食べてたのをやめて、お店に出て「いらっしゃ〜い」って接客したっていう思い出があります。当時、この川湯観光に関わっているご町内の皆さんは年中無休でした。私が川湯に来た時に「商売に休みはないんだ」と言われて「えー!」となったのを覚えています。
当時の川湯の活気っていうのは子どもたちも楽しかったと思いますよ。いろんなイベントもあってね。覚えているのは、川湯神社の秋祭りの時に、神社の境内に土俵ができて、子ども相撲大会っていうのがあってね。ほら川湯は大鵬幸喜さんの出身地だから。保育園のときから男の子も女の子もみんな出て、親もおじいちゃんもおばあちゃんもみんなで周りを囲んで、「頑張れー!」って声援が飛んでね。地域と学校がみんな一つになってね、子どもを見守りながら育てていたから、それはもうやっぱり楽しかったと思いますね。

「川湯が静かになったね」と言われて

信一 でも、平成に入って帯広から札幌までの高速道路ができて、修学旅行生がみんな向こうへ行っちゃうようになったんだ。やっぱしどうしても都会の方へ憧れちゃうよね。

由美子 川湯がすごく静かになりはじめたのを感じたのは、もう、徐々にだったんですけどね、団体旅行のお客さんが少なくなって、海外への旅行がすごく安くなってきたっていう時期でしょうか。それから続いて知床が世界遺産になって。

信一 そうそう、みんな向こうに行っちゃったんだよ。

由美子 それまで川湯が団体旅行の宿泊地だったのに、阿寒に変わっちゃったんですよね。もうバスも停まらない。その時が一番顕著でした。どんどんお客さんが少なくなって、年を追うごとに1件、また1件とホテルが潰れていったんですよね。旅行組合の人たちが落語家を招いたり、ふるさと館でイベントをしてみたりいろんなこと仕掛けていたんだけど。

信一 その頃にはもうお客さんがいなくなってたんだわ。あと、10年くらい前、摩周の道の駅がリニューアルオープンしたんだよね。それまではうちに足を運んでくれたお客様も、やっぱり新しいところへ行くようになっちゃって。「あらっ、ひょっとしたらこれは大変なことになるかもな」って思うくらい人の流れがなくなってしまったんだよね。便利になればなるほど川湯は駄目になってくるっていう、そういう悪循環はあったよね。

由美子 ホテルが一軒倒れると、働いていた従業員の方が子どもをつれて引っ越していってしまうんですよね。学校の生徒数も減っていくし「寂しいなあ」っていう思いを年々しましたね。私が、お嫁に来た時には、仁伏通りってところから相撲記念館まで、もうびっしり家がならんでいて、全部お店だったんです。シャッターが降りているところはなくてね。町の銭湯に通っていましたから、行き帰りいろんなお店を見て歩いてね。でもこの四十数年の間に、通りのお店屋さんは数えるくらいになったし、町中もホテルやお土産屋さんも少なくなって。その様変わりを見てきましたね。お客さんから「川湯が静かだね〜。誰も歩いていなくて、これでよく商売していけるね。気の毒だなぁ」って言われて、「もうほんとにどうなっていくんだろう」って思いました。

信一 ここらの店は後継者がいないから。ほんと暗くなると思うんだよね。

由美子 やっぱり商店街がなくなったら、温泉街の魅力というのも半減すると思うんですよね。私たちもどこかへ泊まりに行ったときはずっとホテルで過ごしているわけではなくて、ぶらっと歩いて眺めてみたいと思いますから。それがそこへ行ってきた印象というか、思い出につながると思います。この店も誰か熱意のある人がやってくれるっていうのを私は望みますね。

信一 俺はもういいかな(笑)。

由美子 「自分は一代こっきりでいい」って常にそう言ってますから。でもやっぱり「風月堂さんがいてくれてよかった」ってずっと言われてきているので、ここがなくなったら、弟子屈までちょっと距離があるって感じですよね。若い人はいいけど高齢者になるとちょっと億劫になってくるのは間違いないですよ。あと、和菓子は慶事弔事、日本の文化的に根付いてもいます。誰か亡くなったときにはその人が好きだったものを思い出して枕菓子を盛りますから。だから地元に和洋菓子屋さんは必要なんじゃないかって思います。

地域の自慢をお菓子にこめて

由美子 若い人たち、そして家族をもつ人たちがいない地域が、経済力を失っていくんだなあということをつくづく感じました。だから最近思うのは、「若い人たちを応援しなくちゃ」ってことなんです。13年くらい前から「てしかがえこまち推進協議会」の女性部会に参加をして、若い人たちと一緒に活動させてもらってきました。えこまちの活動が始まったその年に、テレビで見たんですね、高校の授業である先生が「弟子屈のいいところはなんですか?」って子どもたちに聞いたら「なんにもなーい!」って答える姿を。「えー!」って思いました。私、この町の自然が好きでしたから。なにもないではなくて、生きていく上で大事なものはすべてここにあるって思っているんですね。そういうこともあって、えこまちの活動は、まずは町を知ろうというところから始めていきました。最初に取り組んだのが「てしかがいいとこマップ」づくりです。川湯以外に、弟子屈、摩周だとか、屈斜路の各地域のいいところを見やすいように絵にして作りました。これを各飲食店やエコミュージアムだとかにおいてもらいました。次にしたのがモニターツアーです。女性部会の中でみんなで話し合って、一泊二日でしたかね。牧場に行ってバターづくりをしたり、屈斜路でじゃがいも掘りをしたりだとか。和琴半島をぐるっと一周して足湯に入ったりだとか。地元在住の藤泰人さんという写真家さんにガイドをしてもらって、ポンポン山を登ってみたり。あと若い人たちの出会いの場をつくるということで合コンツアーをしてみたり。その他にも、川湯の昔のことを語ってもらって、若い人たちに本にまとめてもらう「昔語り」を「すずめ食堂」のえつこさんとしてみたり。

そういう中で、10年ほど前になるでしょうか、農協で「摩周そば」に力を入れようという話がでて、「日本で一番早い新そば祭り」をすることになったんですね。その時に、夫のところに「そば粉を使ってなにかお菓子を作ってくれないかい」って頼みに来たんですよ。やっぱり、そばっていったら一番最初に思い浮かんだのは「そばぼうろ」だったんです。試作のために、有名なお店のそばぼうろを取り寄せてみたら、あんまりそばを感じなかったんですね。でも夫が作ったらすごいそばの香りがして、「これはホントに摩周そばの美味しさを具現化している!」という感じがしたんです。この取り組みがきっかけとなって、少しずつ、地産地消の商品を増やしていきました。そういった商品には私の手描きのポップやパッケージをつけています。それこそ下手くそだけど、全部すべて自分のところで調達して商品に仕上げているっていうこだわりを大事にしたくて。これがうちの本当のオリジナルというか。

そういった取り組みを通して、「自分の町を自慢したり誇れるようになりたい」っていう思いが強くなっていったんですね。「これが体にいいんだよ」って一生懸命つくっている農家さんがいるんです。そういうものをお菓子の中で活かさせてもらえないかなって。自慢にもなるんですが、やっぱりお客さんも喜んでくれるんです。もちろんよそにないものを作るわけですから。

私たちは応援団

信一 今は町に1000人いないもんな。たしかな。

由美子 800人くらいかな。ほんとに住民の一人ひとりが大事です。うちのお客様という意味でもですし、住む人がいなくなったら、もうほんとに、ねえ。ほんとに移住してくれる人だとか、「ここで、なにかやりたい」という若い人たちがこのところ来てくれているのが、本当に嬉しくて。応援しています。

信一 来てくれる人が目に見えているもんね。いっぱい来てくれているもんね、ほんとに。それに、環境省さんが来てくれてからは、いろいろ活動しているなあっていうのは実感するよね。

由美子 ほんとに。ここは特別な地域だと思うから、守っていかなくちゃいけないと思いますよね。商売的にいえば、国立公園だから、観光のお客様がたくさん来てくれて、そういう場所で仕事をさせてもらうというのはもうほんとに幸せなことだって思いますし。それに住んでいるにあたって、空気が美味しい、水が美味しい、温泉もある、もう本当に、なににも変えがたい

信一 硫黄山っていうのは俺、すごいなとやっぱし思うな。硫黄の匂いがその日によって全然違うし、煙の出方も全然違うし。それ見てて、「あ〜、いいなあ」と思う。町には、やっぱし明るくしていてほしいんだけど、なかなか、現実的にはどうなのかなと思っちゃうけどね。温泉は絶対潰れることはないと思うけど、どのくらい人が残って、みんなが継いでいってくれて、頑張ってくれるかというところがやっぱし一番心配だよね。

由美子 この町を自然を大切にしながら持続可能な観光をする拠点として考えていってもらったほうがいいのかなって。地元の人はもちろん、アウトドアガイドさんたちを通して観光のお客様にも、そういう思いを広げていってもらいたいです。
信一 別に賑やかでなくてもいいから、静かなこう、ほんとになんか落ち着くようなさ。そういう町になってくれるのが一番いいかなと思っている。そんなに派手でなくてもいいから、一日ぼーっとしていても、癒やされる。そういう町がいい。

由美子 流れ作業のようにお客様を迎えては送り出すっていうんじゃなくて、ゆっくりと楽しんでもらって。たぶん、川湯、弟子屈町は、そういった活動を考えて、していってくれると思うし、若い人たちも、それを手伝ってくれる環境省さんもいますから。だから、そういう意味では、うん。とってもいい町になると思いますよ。私たちは応援団。頑張っている人がどんどん頑張れるように、応援していくことが仕事です。

取材・執筆:百目木 幸枝
撮影:中道 智大


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