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【「キオク」と「キロク」とは】 半世紀生存記録に寄せて

「ロボットにとって(大切なの)は、記録よりも記憶なの」

恐らく舞台「PLUTO」に出てきた言葉だと思う。

ロボットは、忘れない。チップ上に記録がある限り。彼らにとっての「メモリー」とは、「記録」のことで、それを膨大にセーブできる。だけど「記憶」となるとどうだろう。彼らにとっての希少価値は高くなるのではないだろうか。

記録が無く、当然覚えている自覚もないのに、なぜか心のどこかにくすぶる熾火のような、引っ掻き傷のような思いの残滓があるとしよう。それが「記憶」であるならば、その「記憶」からあるはずのない「記録」を手繰り寄せることもできるかもしれない。攻殻のゴーストも、そんな現象なのかもしれない。

だから、ロボットにとってより大切で無限の可能性を孕んでいるのは、「記録」よりも「記憶」となる。

では、人間はどうだろう。

人間とは、忘れる生き物だ。脳みそにインプットしたつもりでも、今金切り声を上げながら暴れ出したいほどの激情を持て余していたとしても、いずれその思いは消える。少なくとも、薄れてはいく。だから、その思いをいつかまた見つめ直したいと思うなら、「記憶」に頼るのではなく、「記録」するしかない。

そうだとしたら、人間にとってより重要なのは、「記憶」よりも「記録」となる。

記憶を「忘れられる」という人間の脳。

記憶から「思い出せる」という、ロボットのICチップ。

相互に逆説的だし、ホンマかいな、と我ながら書いていて思うけれど、どちらのアプローチにも、祝福を感じる。その慈愛を与えてくれたものは何だろう。創造主と結論付けてしまうのは、陳腐で安易な気がする。

私を今、形作っているものは、「キオク」と「キロク」の連続体だ。幸い、40代の「記録」はそれなりに残っている。全然成長していないな、と思う部分もあれば、少しは進んだのかな、と思えるところもある。「キオク」は、昔の方が鮮やかな部分があって、そこにも記録と記憶の不連続性を感じる。

私の50代は、どんな「キオク」を産むだろう。どんなことを「キロク」したいと思うのだろう。思考に嗜好を挟まず、その志向を試行しながら、至高を目指していけたらいいけれど、歯垢ばかりが溜まっていくようなことになりませんように。

明日も良い日に。



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