てのなるほうへ - Faint / Pray 2016 -
2011年4月3日に作った曲がある。
東日本大震災から3週間ほど経った2011年4月3日に作った曲。
僕は1歳からずっと仙台に住んでいる。
但し、2008年から2012年の約4年間を除いて。
つまり僕は30年以上もの年月を仙台で過ごしている。
けれど、僕は東日本大震災の被災者ではない。
仙台にいる家族や友人達は皆、被災したのに、僕は被災しなかった。
何故かわからないけれど自分が被災していないことを申し訳なく思ったりもした。みんな苦しんでいるのに....って。
今でも憶えている。
2011年3月11日、僕は転勤先の金沢でいつも通り午後の営業に出ていた。
1件目の客先で、「仙台の方で地震があったみたいだぞ?」と教えられる。金沢の工場の水銀灯が揺れたくらいだから、結講大きな地震のようだった。
でも、僕は「仙台は地震多いですからねー。」と、そのときはその「大きさ」をまだ理解していなかった。
とは言え、仙台には母がいる。父は2008年に他界している。つまり一人だ。次の客先へ向かう車の中でiPhoneでYahoo!を開いてみると「津波」という文字が目に入った。
それでも母が住む僕の実家は山沿いだし、「津波」そのものも、その地震の「大きさ」も把握しきれていなかった。
2件目の客先に到着し、駐車場から母に電話をしてみる。
今思うと、運が良かったのだろう。いつも通り、一回で母に繋がった。
「買い物に来ていて、すごい揺れだった。店内が真っ暗になって、スプリンクラーから水が噴き出してきた。怖かった。」と話を聞く。
そのとき、母は津波のことなどもちろん知らない。
津波もすごいみたいだから、気を付けるようにと伝え、電話を切る。
その後、2日程、電話は全く繋がらなくなった。
母の安否は確認出来たから2件目の顧客での用件を済ませ3件目へ。
3件目の顧客に到着すると、休憩時間でもないのに社長も従業員もテレビを観ていた。そして、そのとき初めて僕も自分が育った街の変わり果てて行く光景を観た。「これ、仙台って、たま(←僕)の実家やろ?」と社長に言われる。
言葉が出なかった。自分の中の「地震」と「津波」に対する意味が変わった瞬間だった。
事務所に戻ると、みんなが心配していた。
とりあえず、母の安否は確認出来たことは上司に伝えたが、仕事が手につかず、早めに帰宅させてもらいテレビを観る。帰宅すると、地震、津波に加えて福島原発のニュース。金沢に住んでいても、恐怖で鳥肌が立った。誰とも連絡は取れない。
「今はどうなっているんだろう。これからどうなるんだろう。」
2日程経つと、途切れ途切れではあるがメール等で仙台との連絡が取れるようになった。家族や友人の安否は確認出来たが、ライフライン復旧の目処が立たず苦しんでいた。
そして、震災から1週間後、僕は金沢から仙台まで500km以上の道のりを車で走った。8缶ほどガソリンの携行缶にガソリンを入れ、用意出来るだけの水や食糧を車に積んで。無事に着くのだろうか?道は大丈夫なのだろうか?と不安でいっぱいだったけれど、とにかく、仙台に帰らなきゃいけない、そう思って車を走らせた。途中、山形で自社用のガソリンスタンドを持つ知り合いにガソリンを補充してもらった。とてもじゃないけれど、ガソリンスタンドに並んでいてはいつ仙台に着けるかわからないくらい、混んでいたから本当に助かった。
そして、9時間程かかり、無事仙台に到着。
実家に食糧を置き、暗くならないうちに友人の家を周り、少しずつだけれど、ガソリンを配る。みんな食糧は何とかなっていたようで、とにかくガソリンが欲しいと言う。
だけど、僕の心配をよそに、会った友人は皆、笑顔だった。
逆に僕が元気をもらったくらいだった。
「心配すんな。生きてんだから!大丈夫だ。それにしてもすごかったぞ!」
時間は無かったけれど、少しだけ車を走らせ、立ち入り禁止区域の手前まで行ってみた。信号も、街灯もまったく点いていない。
自衛隊の装甲車や消防車があらゆるところに停まっていて、その赤い光と少しの乗用車のライトが照らしているだけだった。色々な方向からサイレンも聞こえる。道路には普段あるはずのない量の泥。
怖かった。
被災した人たちは、どれほど怖かっただろうか。
翌日、落ち着くまで金沢に連れて行こうと、母を乗せて金沢に戻った。
その後も余震、被害の規模、原発....色々な情報が入ってきた。
そして、転勤前の仙台の事務所の行方不明だった二人の同僚が、津波で流され、遺体で発見されたとの知らせも入った。
自然の前で、僕らはこんなにも無力なんだなと痛感した。
震災発生から5年。
震災の翌年に、金沢から仙台に再び転勤(異動)で戻ってきた。
一見すると、街は震災など無かったかのように見える。震災前よりも整備され、商業施設も増えた。
でも、少し車を走らせると、未だ手付かずの、全てを流され、失った土地が沢山視界に入る。
傷は深い。
5年前の2011年4月3日
震災当時、金沢に住んでいた僕は仙台にいる家族や友人、被災した人を想い、こんな曲を唄うことしか出来なかった。
written & performed by kazma tamaki
(2011年作詞作曲、2013年再録音、2016年再編集)
311を前に。
2016年3月8日
Love + Fuck
kazma tamaki
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?