[小説] 目の病気

エヌ氏はたった今ディスプレイに映った文章を一通り読み上げた。

「本日の活字数制限に達しました。業務を終了してください」

 エヌ氏はメガネの位置を直すために一呼吸すると、早々に帰る支度を始めた。これ以上仕事を続けると労働文字基準法に違反してしまい、下手をすると首になってしまうからである。わざわざ働いてまでルールを破ろうとも思わないので、残ろうとする者はいるわけがなかった。

 エヌ氏は会社を出た。帰る途中に本屋に寄ることにした。最近は本、漫画、雑誌のようなものはすっかり贅沢品となったので店の数も少ない。遠回りをしてようやくたどり着いた。

 エヌ氏は素敵な詩にきれいな絵が添えられた絵本と、自分の小さい時に夢中になった冒険ものを買った。勿論選ぶ時にも目を労わるように店側が工夫をしている。客は家に帰って、貴重な時間と活字を存分に楽しむことに専念するのである。

 帰り道、道路には歩行者用のベルトが稼働している。家のある方向へと続く路線に乗りこむと、アイマスクをつけるのが普通だ。ある者は音楽やオーディオブックを聴き、ある者は手先だけで器用に携帯パズルゲーム機を遊んでいる。

乗り込もうとしたエヌ氏は、ちょうど同時に居合わせた会社の同僚と会った。いつも通りやあと声をかける。二人が乗り込むとベルトが動き始めた。各々のカバンからアイマスクを取り出してつける。エヌ氏は思わずため息をついて、恒例の恨み節を連ねた。

「全く嫌な世の中になったものだ。今もこうして顔も見えないままで話をしなきゃいけないなんて。」

「しょうがないじゃないか。目を大事にしなきゃ生きていけないだろう。君もそうしてマスクをしているじゃないか。」

「それは仕事や学校、様々な手続きといった時間以外でさえ、決められた文字数しか読めないからさ。余計に文字を見たくない、目を使いたくないと思うのが当然だろう。とはいえ誰とも目を合わせることのないこの殺風景はさすがに気味が悪い。」

「そのような時代に生まれてしまっただから文句を言ったって仕方がないだろう。不必要な時まで目を酷使するせいである重い病にかかりやすくなってしまったとも聞くし。むしろ新しく改良されたメガネのおかげで規制が緩和されてきたのだからましな方だろう。じゃあな。」

 同僚が一足先に降りてしまって愚痴の相手を失ったエヌ氏は、家での至福の時を妄想して時間をつぶすことにした。

 家につくと妻と子供たちが待っていた。

「あら、おかえりなさい、あなた」

「パパ、おかえり」

 妻は家のシステムにつながっている端末の画面で、洗濯の設定をし終えたところらしく、メガネをつけていた。子供たちは最近人気の曲を聴いていたようだ。耳元までつながったタイプのアイマスクをつけている。

 エヌ氏は待ちに待っていたとばかりに、部屋へと向かった。買ったばかりの本をのんびりと読むために、仕事でも帰り道でもしっかりと目を守ってきたのだ。この小さな幸せを何よりも大事にしていた。

そんなエヌ氏に妻が声をかけた。

「待って、あなた。今日は子供たちのために新しいメガネを買ってあげる約束よ。早く注文画面で手続きをしてあげてちょうだいよ。」

「そんなのお前がやってくれたらいいじゃないか。疲れているのだから好きにさせてくれ。」

「私もお気に入りの雑誌を読みたいの。たくさん家や子供たちのことで頑張ったのだからあなたがやってよ。」

「こっちも仕事をして疲れているのだ。せめて後にしてくれないか。」

「あなたは部屋に閉じこもったら規制文字数のぎりぎりまで出てこないじゃない。そのせいでこの前学校の手続きが出来なくて大変なことになったでしょう。結局私がやったことを覚えていないのかしら。」

 面倒くさくてぶっきらぼうに返事をしたのが悪かったらしい。妻の声に怒りが混じっていた。

「分かったからそう怒鳴らないでくれ。今日はちゃんと早めに切り上げるさ。」

「いつも同じことばかり言って全然約束を守らないじゃない。ちゃんと目を見て言ってくれるかしら。」

 二人ともだんだんと語気が荒くなり、エヌ氏は思わず口を滑らせてしまった。

「あまり目を無駄遣いしたくないのだ。勝手にやってくれ。」

「何よ。そんなこと言うならあんたと目を合わせるなんて私の方が願い下げよ。」

 後はもうひどい有様であった。ヒステリックに責めたてる妻に、怒鳴り返すエヌ氏。傍らでおびえる子供たち。

 もうちょっとやそっとではけんかは止められない。二人の目には相手の目はおろか顔も映っていないし、子供たちの姿も見えてはいない。しょうがないのだ。これは重病なのだから。盲目的になってしまうという症状なのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?