【小説】イカロスの天秤

ここが人生の変わり目だったと、断言できる人間はどれくらいいるだろうか。

「あなたの人生論」というテーマで特集をしているから、そこで一つ記事を書いてくれませんか?
編集長の長富氏からお話をいただいたのが始まりだった。どうやら以前お会いした時に話したパイロット時代のエピソードをいたく気に入ったらしく、日浦さんの話を是非改めてお聞かせくださいときたものだ。確かに、パイロットから文筆家の端くれへ転身を果たした人生と聞くと、興味を持たれる方が一定層いらっしゃるのは想像に難くない。とはいえ、何があったかと言えば取るに足らない話なのだ。読者のご期待に添えるかはともかく、たまには昔話も悪くないと思い立ち、筆を取ることにした。
機密事項も混じるので、機体や操縦に関してあまり詳らかに語ることはできないことをはじめに断っておこう。

意外に思われがちだが、私の若い頃はとにかくやんちゃで、愚かで、短気だった。学校も真面目に通った覚えはないし、何かにつけて周りの人間に楯突いてばかりだった。
そんな典型的な不良は、程も無く厳しい訓練と教官方の熱い指導によって叩き直されることになる。おかげさまで少なくとも見た目は真っ当な人間の仲間入りを果たした。ただし、ターニングポイントはここではない。人間そう簡単に性根は変わらないもので、長いものに巻かれて身を律するようになったに過ぎない。この時は、マイナスだった輩がようやく差し引きゼロの出発地点に到達したというだけだった。
そんな青二才の人生観を余儀なく覆す出来事は真っ当になってから2年後の単独での飛行時に起きた。当時の光景は色鮮やかで忘れもしない。とある部隊で紹介任務についていたときのことだ。

操縦席に座ること既に1時間が経過していた。薄くもやがかかった常盤色の峰々と、遠浅の水色から外洋のコバルトブルーへとグラデーションがかった大海の景色が視界に広がっている。絶景を目の前にしておきながら、大自然への機微に触れるには程遠く、緊張感のノイズ混じりに退屈さが心を占めていた。毎日の訓練と任務は慣れてしまえばルーティンワークであり、気が緩んでいたのは否定できない。

司令部へ中間報告を済ませ、帰路に向かって機体の進行方向を大きく変えた時だった。眼下に望むパノラマがダイナミックに回転し、再び落ち着きを見せたその瞬間。見慣れた光景の中に溶け込みきれない違和感を察知した。慌ててレーダーで確認するもこれといった反応はない。目視で間違い探しのように見回すが、何も見当たらない。ふとした疑念は徐々に好奇心へ変わっていく。上半身へと血が巡っていき、身体の芯に帯び始める熱を自覚した。

視線を前方に戻した刹那、今度は視界の端に白い影が通り過ぎたのを確認した。先程と同じ異物に違いない。私は追うべきかどうか数秒近く逡巡した後、無線で報告してから追跡する判断を下した。ささいな刺激であろうと非日常に飢えていた。仄かな影はちらちらと切れかけた蛍光灯のごとく不安定に瞬きながら、戦闘機にも劣らない速度で海岸線を離れてふらふらと上昇を続けている。その人を食ったような奇怪な軌道は未確認飛行物体を連想させ、深層に眠る無邪気な子供心をくすぐった。

そいつの妖しさに魅せられ判断力の鈍った脳は、任務を忘却の彼方へと押しやり、とにかく対象を追いかけることしか考えていなかった。機体の高度を上げ、速度も制限ギリギリに飛ばす。今思い返すと、私の心はある種の充足をはっきりと感じていたかもしれない。綺麗な蝶を追いかける少年のような心持ちだった。だが、そんな追走劇もほんの数分で終わりを迎えた。

ほんの一瞬、こすれる様な耳障りな音がコックピットに響いた。左翼部分からである。それと同時に大きく機体が揺れ、私の全身を覆っていた狂熱は一気に冷めやられる。落ち着きを取り戻した理性は、操縦桿の制御を徐々に失いつつあることを察知していた。計器を改めて見ると、通常の巡航高度の遥か上空に到達しており、外気は氷点下を迎えていた。冷静になってしまえば、異変の原因にはすぐに思い当たった。左主翼のどこかで着氷を起こしており、さらには不安定な気流に巻き込まれているに違いなかった。
ピンとこない読者のために説明すると、水は氷点下では普通氷になるが、液体のままで存在し得る過冷却現象というものがある。雲もその一例だ。それらの水分に衝撃が加わると急激に凝固して、氷へと変化する。上空の低気温下の航空機はこの着氷現象に晒されやすく、時には大事故に繋がる危険性がある。多くの航空機には着氷防止機能が備わっているものの、小型の戦闘機のように軽量化された機体ではエンジンはともかく、翼部分には絶対な対策はなされていない。通常は気象レーダーと地理、高度を考慮に入れて、十分警戒しなければならなかった。それを怠ったのは、好奇心と冒険心に伴って生じた僅かな綻び以外の何物でもない。
必要な揚力を捌ききれなくなった金属の塊は、シーソーのように前後左右へと揺れ動く。操縦桿を振り払おうとする暴れ馬に反して、冷静になった私は訓練の賜物か最適解の対応を行った。本部への緊急連絡に加えて、非常用の操縦体制に切り替え、とにかく復帰へ向けて全力を注ぎ始めた。当然ながら先程の未確認飛行物体はとっくに意識の外へと追いやられていた。

一方で、珍妙なことに過去のあらゆる出来事が頭に突き刺さるように流れ込んできた。これがあの走馬灯かと半ば感動したことを憶えている。

例えば、ふと学生時代のことが頭に浮かんだ。つるんでいた友人の顔に、喧嘩した相手の拳の感触。また、母の顔が皺の一筋までも鮮明にフラッシュバックした。中学の時に両親が離婚して以来、まともに家に寄り付かず、働き始めてからも滅多に実家に帰らず、朧げになりつつあった顔の筈だった。
情報の洪水は留まることなく、カメラに映った他人の人生を追体験するが如く、ありありと脳内を流れていった。
身体は生きるために足掻き、精神は死ぬために始末をつけている。両極端のシーソーゲームの上に、私の全生命が乗っかっていた。

運命を決める幾ばくかの時間が経過し、突如視界が眩い日光に包まれた。心なしか気温も上昇し、包容力を持った暖かさに覆われる。文字通り生きるか死ぬかの審判にかけられていた魂は辛うじて命拾いした。
どうやら左主翼に付着していた氷層が太陽の放射熱によって溶かされたようだ。操縦桿の支配下に戻った機体は、幸いにも目立った損傷したら様子は無い。燃料も十分残っていたため、無事帰還を果たすことができそうだった。

任務からの帰路、私の精神は摩耗するどころか鋭利に研ぎ澄まされていた。瀬戸際にいた時とはまた違う、生命の実感を持った落ち着きようだ。緊張のほぐれた筋肉、心臓の鼓動、荒さの残る呼吸音、首筋に伝わる汗。あらゆる生体的反応が刺激として敏感な五感へ働きかけ、それを受けて己の肉体に力が漲る。体内外でループして増幅されていくエネルギーは行き場なく、私の中で暴走していた。「生きている」という概念をこの時初めて自覚できたのかもしれない。あの不審な飛行物は何だったのかと訝ることもなく、再び心の満ち足りるひと時となった。

また、この事件以後、職場での人間関係は一変した。例えば、今回のミスであれば懲罰と報告書とお叱りが一式降りかかってくる。周りからも一皮剥けただとか罰が当たっただとか、せいぜい冷やかし混じりに言われるくらいを想定していた。だが、帰ってみると皆が粛々と出迎えるだけで、何も起きない言われない。失敗へのフォローにしては却ってこちらが気を遣ってしまいそうな雰囲気だった。妙にぎこちなく居づらくなってしまった私は、その数ヶ月後に退職した。

ここからはパイロットを辞めてからの話になる。同僚や先輩と再会した時に、当時のことを尋ねたことがあった。すると、誰もかも口を揃えて、こう述べる。
「お前が別人になったようで、気持ち悪くて話しかけられなかった」
どうやら私自身に劇的な変化が起きていたらしい。自覚していなかったことで面食らうばかりだった。

さて、ここまでが私の人生の転換期に関する昔話だ。かつてとあるご縁で顔合わせした際に長富編集長にお話ししたそのままである。その際にされた質問と私の返答をもって締めとさせていただこう。
まず一つに、仄白い飛行物体は一体何者だったのかと尋ねられた。結論としては、分からないままだ。不明瞭ながら先頭の球体から触手のような羽が伸びて、後方へたなびかせていた風貌だったような記憶は残っている。ただ、正体については今もあまり興味はない。宇宙船か、都合のいい記憶の改竄か、幻覚か。一生判断する術は持ち得ないだろう。そういった不確定の要素を我が人生に抱えこむのも、ある種の酔狂で、心地よいのだから仕方ない。
もう一つが、なかなか面白い質問だった。なんと、私の体験談についイカロスの翼の伝説を垣間見てしまったと仰るではないか。蝋を固めた翼で空を飛べるようになったイカロス。その蛮勇にかまけて最後は太陽に翼を溶かされ散っていった英雄の逸話は、確かに状況が似通っている。そこに「運命」の存在を感じたか、と訊かれる。ここの返事はイエスと答えざるを得ない。あの時点で、精神と肉体は生死の天秤に両端にかけられ、結果生きる覚悟を示した身体の方に傾いたのだ。そこに私の意思決定が存在していたようには思わない。あったとすれば、それはいわゆる「運命」だったのではないだろうか。

いわゆる宗教における絶対神としての神様は信じてはいない。人生に多大なる転変が起きたとて、その信条は変わらない。だが、生命の危機にしろ三叉路の進路にしろ日々対面する選択肢の晒され続けると、己の意思の介在する余地のない窮地はいずれ訪れる。いざ目の当たりにした時にどちらに天秤が傾くのか。これこそが運命の分かれ道に違いない。

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