【魔拳、狂ひて】構え太刀 八(完)
「……ッ」
──空気が張りつめている。
双方が発する殺気が、辺りに充満していた。
衛は、構えたまま全く動かない。
三兄弟もまた、その場に佇んだまま、全く動かなかった。
──否。一人だけ、微かな動きを見せる者がいた。
剣次郎である。
彼は今、全身をぶるぶると震わせていた。
恐怖から来る震えでもなければ、武者震いでもない。
怒りから来る震えであった。
衛の挑発により、剣次郎の腸は熱く煮えたぎり、爆発寸前であった。
「……こンの……クソガキがァ……」
剣次郎の口から、小さな声が漏れる。
もはや、我慢の限界であった。
その時、剣次郎が素早く動いた。
「……調子こいてんじゃねェぞコラ……その口なますにしてやらァァァァッ!!」
咆哮と共に、目を血走らせながら疾走する。
衛との間合いを一気に詰め、左小太刀で斬り掛かった。
「──!」
衛はそれを、ギリギリまで引き付け回避する。
続けて右小太刀の強襲。
これもしっかりと引き付け回避。
「オラ避けんじゃねェよクソガキがァァァァッ!!」
剣次郎が吠え、両の小太刀で何度も斬り掛かる。
衛はそれらの斬撃を冷静に見極めながら、ギリギリまで引き付けて避けていく。
「ッ……!」
──突如、衛が右掌を放った。
「な──」
振り下ろされる剣次郎の右手に直撃。
右手の後から襲ってくる左手にも、左掌を叩き込む。
剣次郎の両手が横に弾かれていた。
それにより、剣次郎の正中線に隙が生まれた。
「しまっ──がッ!?」
がら空きの口元を目掛け、衛の強烈な右拳が叩き込まれる。
剣次郎の体が、錐揉みをしながら横に吹き飛んだ。
それに代わるように、ダンプカーのような巨体が衛を目掛けて突進してくる。
剣三郎であった。
「小僧め!! 俺の怪力を受けて粉々になるがいい!!」
怒号を発しながら、剣三郎が大太刀を振り下ろす。
凄まじい勢いであった。
掠めただけで肉塊になりそうな程、殺意に塗れた一撃であった。
だがその斬撃を、衛は最小限の動きで避ける。
その回避動作から続けて、左冲拳を水月に打ち込んだ。
「が……!」
弾丸の如き速度の拳を受け、剣三郎の口から呼気が絞り出される。
しかし、衛の打撃は単発では終わらなかった。
二打目による追撃。
三撃。
四撃。
五撃。
六撃目を放った所で、衛の打撃が止む。
「あ……ぐ……が……」
拳撃による鈍痛を堪えながら、よろよろと後退る剣三郎。
衛のストレートパンチの連打によって、正中線上の急所を正確に打ち抜かれていた。
──迅六拳。
一息で六つの冲拳を放ち、相手の急所を破壊する、衛が最も得意とする技の一つであった。
「ぐ……ゥ……!」
剣三郎が跪き、呼吸を整える。
その頭上を飛び越え、衛との間合いを詰める影が見えた。
剣一郎である。
「チィィィィィッ!!」
着地後、一瞬で衛の懐に飛び込む。
そして、太刀で一文字の形で斬り込んだ。
「せいッ!」
衛が一歩飛びのき、すれすれの所で回避する。
避けられたと分かった瞬間、剣一郎が猛攻を開始した。
「──っ!」
凄まじい勢いで放たれる連続切り。
高威力、高速度、尚且つ正確無比な斬撃の嵐が、次々に衛を襲う。
衛は呼吸を止め、それらを回避する。
避けられそうにない斬撃には掌を放ち、刀の平地を打って逸らしていく。
──その最中、不意に衛が地面を蹴り上げた。
「フンッ──!」
その蹴りにより、地面に転がっていた砂利が宙に巻き上げられる。
そして、斬撃を放った直後の剣一郎の顔に向かって飛んでいく。
「……!? ぐっ──」
目に入ることを嫌い、左腕で顔を覆う剣一郎。
連続切りが止んだその隙を狙い、衛が懐に飛び込む。
がら空きの腹部目掛けて、前蹴りを放った。
「シッ!!」
「ぬぅっ──!」
腹筋に力を込め、剣一郎が耐える。
内臓へのダメージは防ぐことは出来たが、凄まじい蹴りの威力を消すことが出来ず、思わず後方へ後退った。
「ッ!!」
すかさず、衛が追撃を加えるべく踏み込もうとする。
その時、剣一郎の後方から、怒号が飛び込んでくる。
「ンの野郎ォォォォッ!!」
「くたばれぃッ!!」
剣次郎、剣三郎であった。
兄への追撃を阻止すべく、その場で息を整えている剣一郎を追い抜き、二つの影が衛へと迫る。
「どりゃあああああああああああああっ!!」
剣三郎が大太刀を振り下ろす。
その平地に、衛が掌を当てて逸らす。
「死にやがれェェェェッ!!」
続け様、剣次郎が斬り掛かる。
小太刀が真横に振られるのに合わせ、衛がその場で低い姿勢を取る。
斬撃を躱しながら回転し、剣次郎の足目掛けて後掃腿を放った。
「な──ぐわっ!?」
水面蹴りによって足を刈られ、剣次郎が転倒する。
受け身を取り損ね、地面に頭を強かに打ち付けていた。
「っだ……がァ……」
倒れたまま昏倒する剣次郎。
衛はそれに目もくれず、剣三郎に向き直る。
視界いっぱいに、大太刀を振り上げようとする巨漢の姿が映った。
「図に乗るな小童が!!」
怒りに満ちた顔で、巨大な刀を天に掲げる剣三郎。
衛の脳天目掛けて振り下ろそうとし──
「──な!?」
──直後、剣三郎が驚愕した。
大太刀を振り下ろそうとしていた腕が、途中で止まっていた。
否──遮られていた。
衛が一瞬で懐に入り込み、刀を握っている剣三郎の腕を、両腕で受け止めていたのである。
「ばっ──馬鹿な──俺の一太刀を──!?」
剣三郎には、目の前の人間が見せる力が信じられなかった。
未だかつて、力比べで剣三郎の右に出る者はいなかったのである。
それを衛は、いとも容易く受け止めて見せたのだ。
「おい」
衛は鬼の形相を向けて、剣三郎を煽った。
「どうしたデカいの。ご自慢の怪力とやらを見せてみろ」
「ぬぅぅっ……! こ、の、小童めがぁぁぁ……っ!!」
衛の挑発を受け、剣三郎が更に激昂する。
振り下ろす腕に、限界を超える力を込めていく。
徐々に、衛の腕が剣三郎の力に押し負け始めた──その時であった。
「ッ……!」
突如、衛が力の向きを逸らした。
「むおっ!?」
腕に掛かる支えを失い、剣三郎がよろける。
前傾姿勢になった剣三郎の顔に、衛が膝蹴りを放った。
「ぅおりゃあっ!!」
「うがッ!」
鋼のような巨漢の鼻がへし折れ、鼻孔から血が噴き出した。
衛は、そのまま首相撲の体勢を取る。
そして、剣三郎の水月に連続で膝蹴りを叩き込んでいく。
四発程食らわせた所で、鼻血に塗れた剣三郎の口元目掛け、頭突きを放った。
「あがっ!?」
前歯が砕け、口の中から鳴るジャラジャラとした音を耳にしながら、剣三郎が仰向けに倒れた。
「……ってて……んの……ガキ……!」
昏倒状態から回復し、よろよろと立ち上がろうとする剣次郎。
その腹部目掛けて、衛が蹴り込む。
「ぎゃッ!?」
サッカーボールキックをまともに受け、剣次郎が再び転げる。
腹を抑えたまま、その場で悶絶した。
追撃を加えようとする衛。
だが、背後から迫る殺気を感じ取り、そちらに目をやった。
「うおおおおおっ!!」
咆哮と共に、衛へと間合いを詰める剣一郎の姿があった。
一気に踏み込み、斬撃を放つ。
それを衛は、飛び退きながら躱した。
「……」
数歩離れた場所に着地する衛。
ジャケットの左肩部分が、斬り裂かれていた。
そこから除く衛の皮膚から、血が流れていた。
燃えるような赤色であった。
避けるタイミングが少しでも遅れていたら、出血していたのは腕ではなく、衛の首だったであろう。
衛は、痛みに顔をしかめることもなく、剣一郎に言い放った。
「どうした。まだ俺は死んでねえぞ」
その言葉に、剣一郎が歯軋りをする。
仕留め損ねた屈辱が立てる音が、口の中から鳴り響いた。
「く……! 小僧ぉぉぉぉっ!!」
再び咆哮を上げ、剣一郎が突進する。
それに応じるように、衛も前へ踏み込んだ。
凄まじい攻防であった。
──斬撃。
──回避。
──打撃。
──防御。
──その合間に混じる、気合いの掛け声。
双方の一つ一つの行動に、凶悪な殺気が込められていた。
「ッ……! イヤァッ! カアァァッ!!」
展開される激しい攻防の中を、必死に生き延びる剣一郎。
その心の内に、徐々に動揺が生じつつあった。
目の前の退魔師が放つ、強力無比な体術。
その体から湧き出る、決して衰えぬ闘志。
瞳の中に揺らめく、謎めいた炎。
それらが恐怖の塊となって、剣一郎の心の中にじわじわと形成されつつあった。
それを自覚した時、剣一郎の心の中に、カッと熱いものが込み上げてきた。
(恐怖……だと? この俺が……!?)
これまで強者との闘いにおいて、一度たりとも感じた事のない、恐怖の感情。
それを塗りつぶすように、怒りの感情が湧き出ていた。
(構え太刀三兄弟の長兄であるこの俺が……!? 数多の剣士を屠り、屍の山を築いてきたこの俺が……!? こんな小僧に対して恐怖を感じているだと!?)
剣一郎がやけくそ気味に刀を振る。
眼前に迫る斬撃を、衛は回避する。
その頬を、剣の切っ先が掠めた。
一筋の切り傷が走り、血が流れる。
それでも衛の顔には、動揺や驚愕といった感情は浮かぶことはなかった。
ただただ、眼前の妖怪への殺意が具現化した、鬼気迫る表情を作り続けていた。
目まぐるしい攻防の後、双方が飛び退く。
互いに距離を取り、構え直した。
「おのれ……認めぬ……恐怖など……俺は認めぬぞ……!」
刀を握る剣一郎の右手が、静かに震えている。
その姿は、動揺を押し殺そうとしているようにしか見えなかった。
やがて剣一郎は、自信を奮い立たせるように、こう言い放った。
「もう手段は選ばん……!」
そして、跪いている弟達に向けて声を発した。
眼前の凶悪な退魔師を、確実に仕留める為に。
「お前達、俺に合わせろ!! 彼奴はこの場で八つ裂きにしてくれる!!」
その声に応じ、弟達が力を振り絞る。
両足で地面を踏みしめ、しっかりと立ち上がった。
「よっしゃ……任せろや兄貴……! 行くぜサブ!!」
「応!合点承知よ!!」
──三人が、衛の周囲を取り囲む。
それぞれが構える得物の切っ先は、中心の衛へと向けられていた。
三兄弟の必殺の陣形──『構え太刀の陣』。
彼らが複数の剣士を相手にする戦の際に用いる陣形であった。
此度の立ち合いの相手は衛一人であったが、この凶悪な退魔師を葬る為には、この陣形を用いるしかないと剣一郎は判断した。
「……」
広いスタンスで構え、三人の様子を無言で警戒する衛。
その両手が突如下げられ、棒立ちの状態となった。
(……? 何だ? 何故構えを解いた……?)
剣一郎が訝しむ。
対応する術がなくなり、死を覚悟したのであろうか──そう考えた。
(随分と大きい口を叩くものだと思っていたが、とうとう諦めたか……。まあ、其処らの剣士達よりは楽しめたがな)
そう思い、剣一郎は口を吊り上げてニヤリと笑った。
太刀を強く握り締める。
己の妖気を高め、身体能力を限界まで引き出す。
そして──
「行くぞ!!」
「「応!!」」
──威勢のいい掛け声と共に、三人が衛へと間合いを詰める。
凄まじい速度で疾走し、各々が得物に殺意を込めた。
剣三郎が大太刀を、剣次郎が左の小太刀を、そして剣一郎が己の太刀を振ろうとし──
「───っ!?」
──その時、剣一郎と衛の目が合った。
衛の瞳に宿った、謎めいた炎。
その中に、奇妙な光が煌めく。
剣一郎はかつて、この目を見たことがあった。
遙か昔に死合った、強い力を秘めた剣士の目が、この光を宿していた。
この剣士は、追いつめられた際に起死回生の一撃を放ち、剣一郎に痛手を負わせた。
その剣士の目と同じく、衛の目には、ぞっとする程妖しい光が宿っていた。
(この目──まさか!?)
剣一郎の背筋に、冷たいものが走る。
反射的に太刀の動きを止め、弟達を制止した。
「いかん、待てお前達!!」
「え──」
「な──」
時すでに遅し。
次男と三男が放った斬撃は、衛の胴体へと到達しつつあった。
刃は、空間を切り裂きながら真っ直ぐに進み——
「ッ!!」
──直後、辺りに甲高い音が響き渡った。
一呼吸分遅れて、地面に何かがバラバラと散らばる音がした。
「あァ!?」
「ばっ……馬鹿な!?」
剣次郎と剣三郎が驚愕する。
音の正体は、刀の折れた音であった。
剣次郎の左小太刀、剣三郎の大太刀が、衛の体に接触した瞬間に折れ、砕け散ったのである。
「わ、我が……愛刀が……!?」
「う、そ……だろ……そんな……」
剣三郎はゆっくりと後退りながら、折れた大太刀を愕然と見つめる。
剣次郎も同様の反応であった。
三兄弟が持つ刀は、妖怪達の人智を超えた技術によって打たれた刀であった。
誰を斬ろうと、何を斬ろうと、折れることはおろか刃こぼれ一つすることのない、正しく妖刀と呼ぶべき業物だったのである。
それが一瞬の内に、意図もたやすく砕かれたのである。
──何故、二人の刀が破壊されたのか。
その原因は、衛が刀に接触する際に用いた技にあった。
鋼鎧功──体内の気を凝縮させ、一時的に肉体の硬度を鋼よりも高める技である。
この技を使用することで凄まじい防御力を一時的に得ることが出来る。
しかし、この技には、長時間使用すると、体力を大幅に消耗するというデメリットを持つ。
その為、戦闘中、使用するタイミングを誤ったり、不用意に乱発したりすれば、その後の形勢が不利になってしまう。
そこで衛は、三兄弟が同時に斬り掛かってくる瞬間に発動させるべく、鋼鎧功を温存し、待ち続けていたのである。
そしてその結果、剣一郎の刀を折り損ねたものの、他の二人の刀を折り、敵の戦力を削ることに成功したのであった。
「な……何故だ……何故……!?」
剣三郎はショックにより、放心状態となっていた。
その隙に、衛が剣三郎に向かって踏み込む。
「いかん、逃げろ剣三郎!」
長兄の鬼気迫る声。
しかしその声は、呆然としている剣三郎の耳には届かなかった。
気付いた時には、目と鼻の先に、衛の凄まじい形相があった。
「せいッ!!」
衛の渾身の前蹴りが、がら空きになった剣三郎の腹に突き刺さる。
「が——!?」
凄まじい威力により、剣三郎の体は宙に浮き、後方に吹き飛んだ。
宙に浮いたまま、剣三郎が何度めかの驚愕を浮かべた。
剣三郎の身の丈は二メートルを優に超え、体重は米俵三つ分はある。
そんな巨体を、小柄な衛が軽々と蹴り飛ばして見せたのである。
「ぬ──ぐぅ──!?」
よろめきながら、剣三郎が着地する。
体勢を立て直しながら顔を前に向けた。
するとそこに、再び急接近する衛の姿が映った。
その時の衛は、野球の投球フォームの如く、右腕を大きく振りかぶっていた。
「でぃぃぃぃぃやッ!!」
懐に潜り込み、衛が豪快に右肘を振り下ろす。
その攻撃の照準は、剣三郎の右膝へと向けられていた。
「ぐぅっ!?」
剣三郎が呻く。
続け様、剣三郎の左膝目掛けて、衛が左肘を振り下ろす。
「オラァッ!!」
「がぁっ!?」
野太い悲鳴を上げ、剣三郎が尻餅をつく。
激痛を放っている両足に目を向ける。
その瞬間、剣三郎の表情に絶望が浮かんだ。
剣三郎の両膝が、逆向けに折れ曲がっていたのである。
この足では、立ち上がることも出来ないであろう。
地べたで無様にもがき続ける剣三郎を、衛が冷酷な目線で見下ろす。
「これで、怪力は使えなくなったな」
「なっ……お、おのれぇぇぇぇぇっ!!」
恐怖と怒りの入り混じった声が、剣三郎の口から出る。
そして座り込んだまま、折れた大太刀を必死にブンブンと振り回した。
だが、僅かに残っている刃は、衛の体に触れることはおろか、掠ることさえなかった。
「シッ──」
口から鋭い呼気を漏らし、衛が貫手を放つ。
その標的は、剣三郎の太い首であった。
「が──こほ──」
首に貫手が突き刺さり、剣三郎が間の抜けた声を漏らす。
剣三郎の首に刺さっている右手を、衛はそのまま潜り込ませていく。
そして肉の中から、ごつごつとした首の骨を探り当てた。
衛はそれを握ると、強い握力を一瞬込め──
「フンッ!!」
「ごぼっ!?」
──器官ごと、剣三郎の頸椎を粉砕した。
「が──がぼ──ごぼっ──」
剣三郎の口から、赤黒い血が溢れ出る。
常人ならば即死しているところであったが、剣三郎の強靭な生命力が、この巨漢を辛うじて生に繋ぎ止めていた。
「……しぶとい奴め」
その姿を、衛は蔑みの目線で見下ろした。
「くたばれ、ウスノロ野郎」
そう告げると、剣三郎の首目掛け、強烈な右回し蹴りを叩き込んだ。
「ご──」
凄まじい勢いで放たれた右足によって、剣三郎の首が引き千切られる。
生首は真横に撥ね飛ばされると、地面に一度強烈にバウンド。
そして、二度目のバウンドをする直前に、塵となって消滅した。
遅れて、残っている剣三郎の首から下の巨体も、灰のように崩れて消え失せた。
「……まずは一匹」
衛は、剣三郎の死を確認すると、残る2人に振り返った。
「さあ、次に殺されたいのは誰だ」
先程と寸分変わらぬ殺気を放ちながら、そう言った。
「お……のれ……貴様……よくも……!」
剣一郎を包む怒気が、激しさを増す。
弟を殺された怒りが、全身から吹き出していた。
しかし、その傍らに──
「て、めェ……」
剣一郎以上に怒りを露わにしている者がいた。
剣次郎であった。
「てめェ……! てめぇ……!! てンめェェェェェェェェェェェェェェェェ!!」
剣次郎は絶叫を上げながら、衛に向かって突進する。
「な……!? 迂闊だぞ、剣次郎!!」
「てめェ! てめェ! てめェッ!!」
剣一郎が制止しようとするも、怒りに囚われた剣次郎はそのまま疾走する。
そのまま衛との間合いを詰め、折れていない右の小太刀で斬り掛かった。
「てめェ! てめェ!! よくもサブをッ!! 俺の弟をォォォォッ!!」
剣次郎の血走った両目から、熱い涙が迸っていた。
剣三郎が惨殺されたことにより、頭に血が上り、冷静な判断がつかなくなっていた。
「くそっ、死ねッ、死ねェッ!!」
剣次郎が無茶苦茶に小太刀を振り回す。
それを衛は難なく避けていく。
左小太刀を失っている上に、更に怒りで我を忘れた剣次郎の太刀を躱すのは、容易い事であった。
「……」
衛は無言で躱し続ける。
その顔に、若干の不快感が混じっていた。
「当たれ! 死ね!! クソッ、避けんじゃねェ!! クソッタレが、てめェだけは! 絶対にぶっ殺してやる!!」
剣次郎は必死に斬撃を放つが、一向に衛の体に触れることが出来なかった。
それでもなお、喚き声を上げながら、小太刀で斬り掛かっていく。
「……」
衛の表情が、更に不快そうに歪んでいく。
荒んだ目付きも一層鋭くなり、眼前でもがき続ける剣次郎を睨み続けていた。
そんな目の前の退魔師の異変にも気付かず、剣次郎は斬撃を繰り出し続けていた。
「てめェだけはッ!! ズタズタにぶった斬って!! バラバラにして!! 徹底的に嬲り殺して──」
「ゴチャゴチャうるっせえんだよ!!」
──その時、衛の荒々しい一喝によって、剣次郎の罵声が遮られる。
同時に右拳が放たれ、剣次郎の鼻骨を砕いた。
「がぼッ!?」
怯む剣次郎。
その隙に衛は、剣次郎の左右の耳を、挟むように平手で打つ。
「──ッ!?」
剣次郎の耳に走る、乾いた音と衝撃。
一瞬、記憶が飛んだような錯覚が襲い、遅れて痛みと眩暈がやって来た。
「ぐ──うッ──」
剣次郎は必死に眩暈を堪える。
──直後。
剣次郎の視界いっぱいに、何かが接近している光景が映る。
──二本指であった。
人差し指と中指を立てた衛の右手が、剣次郎目掛けて放たれていた。
「か、こ──」
剣次郎が、滑稽な呻き声を漏らす。
その両目に、衛の二本指が深々と突き刺さっていた。
「……」
目に突き差した指を、衛は瞬時に引き抜く。
右手の中には、先程まで剣次郎の眼窩に収まっていた、二つの血塗れの眼球があった。
「……フン」
衛はその眼球に一瞥すらくれることなく──冷酷に、それを握り潰した。
「け……剣次郎……」
唖然とした表情で、剣一郎が弟に声を掛ける。
「……」
剣次郎は、その場に立ち竦んでいた。
呆然とした表情で、空洞となった目から血涙を流しながら、そこに佇んでいた。
「……。……? 何だ……? 何が起こったんだ……?」
不意に、剣次郎が呟いた。
己の身に何が起こったのか、衛が自分に何をしたのか、彼には全く分かっていなかった。
「おい兄貴ィ……そこにいんのかァ……? 見えねェ……暗くて何も見えねェ! おい、何でこんなに静かなんだよ……!?」
「剣次郎!はやくそこを離れろ!」
辺りを探るように、きょろきょろと頭を動かす剣次郎。
そこに剣一郎が声を掛けるも、両耳の聴覚を失った彼には、その声は届かなかった。
「兄貴、そこにいンのか……!? あいつはどこだ……!? あのチビはどこに行きやがったんだ!?」
暗闇と静寂に包まれ、見えない敵に狙われる感覚。
際限なく溢れ出る絶望感。
それらによって、剣次郎は恐怖に囚われていた。
パニックに陥り、その場で滅茶苦茶に小太刀を振り回していた。
「くそッ……! どこだ……!? どこに行きやがったッ!? くそッ見えねェ!! どこだ、どこだッ、てめェはどこだッ!! どこだよッ!? どこに行きやがったァァァァァァッ!!」
絶叫を上げる剣次郎。
その右手に、衛が鋭い蹴りを放つ。
剣次郎の小太刀が弾き飛ばされ、数メートル程先に転がった。
「もう喋るな。てめえの喚き声は耳障りだ」
衛が冷ややかな声で呟く。
今の剣次郎の耳が、何の音も捉えないことを知りながら。
そして、剣次郎の両こめかみを、左右の手で掴んだ。
「や、止め──」
叫びながら、剣一郎が駆け寄ろうとする。
だが、その時既に──
「フンッ!!」
──衛は腕に力を込め、無慈悲に捻り回していた。
「こほ──」
口から呼気を漏らしながら、剣次郎の首が一八〇度回転する。
頸椎が、ごきりという音を立ててへし折られていた。
衛が両手を放す。
捩れて真後ろを向いていた剣次郎の首が、元の位置へ戻ろうとする。
それを待つことなく、体はゆっくりと地面に崩れ落ち──消滅した。
「……これで二匹。残りは貴様だけだ」
剣一郎に向かって、衛は簡潔にそう言った。
ぞっとする程、冷たい表情であった。
「……貴様……!」
震える声で、剣一郎が呟いた。
その目はいつも以上に鋭く、狂気を孕んだ瞳をしていた。
剣一郎は、怒りを必死に押し殺そうとしていた。
少しでも気を抜けば、剣次郎の如く、怒りに身を任せて特攻しかねない程、その体には怒りが満ちていた。
「剣三郎のみならず……剣次郎までも虫けらのように……もはや許さん……!」
剣一郎は静かに、ゆっくりと構える。
「……貴様は生かしては帰さん……この場で確実に斬り捨て、弟達への手向けとする……!」
「御託を並べるな」
応じるように、衛も構える。
どんな攻撃にも対応出来るよう、ゆとりを持った構えであった。
「死ぬのはお前だ。地獄で弟達が待っているぞ」
「ほざけ……!」
剣一郎が、怒りと共に、そう吐き捨てた。
──そのやり取りを最後に、辺りが静寂に包まれた。
「……」
「……」
両者は構えたまま動かない。
眼前を睨み付け、相手の出方を伺っていた。
その中で、己はどう動けばいいのかを考えていた。
──相手がどう動き、こちらはどう対処するか。
──こちらが攻め、相手がどう返すか。
そういったシミュレーションを、僅かな時間が経過する間にも、何十、何百と行っていた。
辺りに風が吹き始める。
木々が風に煽られ、枝と葉がざわざわと音を立てていた。
揺れによって、枝の木の実がいくつか落ちる。
音を立てて、地面に転がった。
そういった周囲の変化を気にも留めず、両者はなおも睨み合っていた。
「……」
「……」
殺気が込められた視線が、互いを突き差している。
肌が焼け焦げる錯覚を、両者は感じていた。
一際強い風が、その場に訪れる。
羽虫や木の実を吹き飛ばす程の勢いを持った風が、両者の体を激しく叩きつけた。
──その時であった。
「キエエエエエエエエエエッ!!」
剣一郎が動いた。
斬撃を加えるべく、右足を踏み込む。
「──ッ!」
同時に衛も動いていた。
ステップインし、剣一郎の踏み込む足を蹴る。
「くっ……!」
ストッピングを受け、剣一郎が体勢を崩す。
そこに、衛が裏拳を放つ。
人中を打たれ、剣一郎が後ろへよろけた。
「ぶッ、アアアアアアアアアアアアアア!!」
しかし、すぐに体勢を整え、袈裟斬りを放った。
「チッ……!」
衛は剣一郎の右側面に回りつつ、斬撃を躱す。
「せいッ!!」
それを追うように、剣一郎が刃を返し、横薙ぎに一閃。
衛はバックステップし回避。
直撃は免れたものの、切っ先が右腕を掠めた。
「うおおおおおおおおおおおっ!!」
剣一郎が咆哮。
衛の心臓目掛け、突きを放った。
「──!」
衛は、着地した直後に、右足で前に踏み込んだ。
刀の平地部分に左掌を当て、軌道を逸らす。
そして、余った右手で打撃を打ち込むべく、拳を握った。
──その拳は、空手道でいうところの正拳と比較すると、歪な形をしていた。
親指と人差し指は、正拳と同じようにしっかりと関節が曲げられ、固定されている。
しかし、中指、薬指、小指と進むごとに、第三関節が徐々に開いていっており、螺旋階段を彷彿とさせるような形になっていた。
瓦稜拳と呼ばれる拳型であった。
──受け流した太刀が、すれ違っていく。衛の右肩の横の辺りを、掠めることもなく。
直後──鋭い咆哮と共に、衛が渾身の瓦稜拳を放った。
「イィィィィィィィヤアアアアアァァッ!!」
禍々しさを湛えたその拳は、剣一郎目掛けて直進。更に、空間を抉り取るような凄まじい勢いで回転。
そして──剣一郎の、右肋骨部に直撃した。
「ぐぅッ!?」
うめき声を上げながら、剣一郎は苦悶の表情を浮かべた。何とか堪えようと、歯を食いしばり、意識を保つことを心掛けた。
──しかし、瓦稜拳は止まらない。
命中してもなお、ドリルの如く回転し、真っ直ぐ突き進む。
剣一郎の肋骨をバキバキとへし折り、内臓を千切る苦痛を与えながら、体内へと潜り込んでいく。
そして──ようやく右拳が動きを止めた。
衛が放った瓦稜拳によるコークスクリューパンチによって、剣一郎の右の肋骨は全て砕け、折れた骨と拳によって、周辺の内臓はグチャグチャになっていた。
──『瓦稜螺旋拳』。
それが、その凄まじい拳打の名であった。
「……」
確実に敵の体内を破壊した事を、拳の感触から感じ取る。
衛は無言で、打ち込んだ瓦稜拳を素早く引き抜いた。
「ん……ぐ……! ゲホッ! ゴボッ!!」
咳き込むと同時に、剣一郎の口から血が吐き出される。吐血は一向に収まることなく、むしろ血の量は更に増していった。
「ごぼっ!! ゲホゴホッ……ぅっ……ゲエエ……ッ──」
血反吐を周囲に撒き散らしながら、剣一郎は、どう、と背中から地面に倒れた。
「……」
衛はその様子を、しばらく睨み付けていた。
そして、剣一郎の砕けた肋骨部に膝を置き、身動き出来ないように圧をかけた。
「……! ゲホッガハッ!! ガアアアアアアアアアアアアアア……ッ!!」
剣一郎は悶え苦しむが、衛の拘束から逃れることができない。彼に出来た唯一の抵抗は、衛に怒りと憎しみをぶつけることだけであった。
「グ……グッ……おのれ……おのれ魔拳……! 弟達の……仇……!!」
「……」
剣一郎は血反吐を吐きながら罵り、衛に怒りに満ちた瞳を向ける。
自らの骨が内臓に突き刺さり、引き裂いているのを感じていたが、それでも、憎悪の言葉を吐かずにはいられなかった。
「貴様……だけは……ゲホッ……絶対に、許さん……!」
「……」
咳と共に血を飛ばしながらも、剣一郎は言葉を紡ぎ続ける。
その姿を、衛は冷酷な眼差しで睨み続けていた。
「我が命……に……代えても……貴様、だけは……こ、の場で……八つ、裂きに──」
「黙れ」
突如、衛が声を発し、剣一郎の言葉を遮った。
静かだが、凄みのある声であった。
その声に、思わず剣一郎は口を閉じ、衛の目を覗き込んでいた。
その時──剣一郎の体が、ビクリと震えた。
「……っ!?」
背筋に冷たいものが走る感覚と、胃の中のものが逆流しそうになる感覚が、剣一郎を襲った。
──剣一郎は、理解してしまった。
衛の瞳に絶えることなく宿っていた炎。その正体を
それは──憎悪であった。
剣一郎の目に宿る怒りや憎しみを遙かに凌駕する、どす黒い憎悪の炎が、衛の黒い瞳の中から溢れんばかりに燃え上がっていたのである。
「お前に聞きたいことがある」
「な……何っ……?」
衛の迫力に気圧され、剣一郎の声色に、若干の戸惑いが生じる。
「斉藤和江を知っているか」
「斉、藤……?」
その問い掛けに、剣一郎は一瞬混乱する。
初めて聞く名であった。
そんな名前を持つ者知り合いなど、彼にはいなかった。
「誰だ……そいつは……そんな、ことを、聞いて……何に──ぐわッ!?」
剣一郎の言葉は、彼自身の上げた呻き声に遮られる。
衛の拳が、剣一郎の顔面に叩き込まれていた。
「知らないか。なら次の質問に移る。加藤明久を知っているか」
再び衛が問い掛ける。その表情は、依然として冷酷なものであったが、その中に僅かに怒りが混じっていた。
「知らん……一体だ──ぐうっ!」
そして再び、拳が叩き込まれる。
「分からないのか……? なら吉田孝太郎はどうだ……!?」
「知らん──ぁがっ!?」
先程よりも鋭い拳が叩き込まれる。
「佐藤美知留は……!? 三上洋介は……!? 新庄明子は!?」
「げっ──ぐっ──げぁっ──!?」
再び衛が拳を叩き込む。
その拳打は、剣一郎の返答が終わる前に放たれていた。
「吉田真由美は! 加藤憲明は! 木村新二は!!」
もはや、剣一郎の返答を待ってなどいなかった。
ひたすら誰かの名を叫びながら、剣一郎の顔を殴りつけていた。
時折、拳槌や肘打も交えながら、只々打撃を放っていた。
そんな打撃の雨に晒されながら、剣一郎は混乱していた。
(何だ……!? こいつは一体、何を言っている……!? 誰の名を口にしているのだ!?)
皮膚が裂け、血が噴き出す。
流血により、剣一郎の顔が赤く染まっていた。
それでもなお、衛は誰かの名を叫びながら、ひたすら殴り続けた。
「黒川慎吾!! 山本順平!! 東憲明!! 西村真由!! 磯山耕作!! 二階堂伸介!! 葉山佐友里!! 浅木竜二郎!!」
(そもそもこの男は本当に人間なのか……!? これまで我々は、数多の武人を葬ってきた……! その誰もが、何らかの執念や気迫を纏っていた……! だが、この男の気迫は……奴らが放っていたそれとは違う……!)
剣一郎の脳裏を駆け巡る疑問。
それも、機関銃の如く浴びせられる打撃の痛みによって、徐々に朦朧となり、薄れていった。
(この男は……この退魔師は……一体……何者……なのだ……!?)
──衛の殴打は、なおも続いていた。
口から放たれる人名も、既に六十人目を超えていた。
そして遂に、六十九人目の名前が唱えられた。
同時に放たれた一撃を最後に、衛の拳打の雨が止む。
衛は肩で息をしながらも、剣一郎を睨み続けていた。
「う……あ……が……」
剣一郎が呻く。
衛の拳打によって、今や彼の顔は、顔中の骨はひしゃげ、皮膚は腫れ上がり、所々が裂けていた。
もはやその姿に、弟達の仇への怒りは感じられなかった。
眼前で、憎悪の炎を燃やし続けている死神。
それに対する、疑問と恐怖の感情で塗りつぶされていた。
「誰も知らねえのか──誰一人として分からねえのか──」
「……ぁ……が……」
衛が呟く。
怒りと憎悪で、声が震えていた。
「なら地獄への手土産に教えてやる──今挙げた名は──!」
「……ぃ……」
衛がこれからしようとしている行動を、為す術もなく見つめる剣一郎。
口を動かそうとするが、顎の骨や歯が折れており、上手く言葉を発することが出来なかった。
「この人達の名は──!」
「……っ……た……い……」
衛が固く握り込んだ右拳を掲げる。
爆発させまいと抑え込んでいる憎悪の感情が、微かに漏れ出しているかのように、その拳は大きく震えていた。
「貴様らが渋谷で惨たらしく殺した!!」
「……な……に……も…………の…………」
衛はその右拳ただ一つに、全身に流れている抗体を凝縮させる。
溜め込んでいる抗体によって、右拳が禍々しい赤光を放ち、炎のように揺らめいていた。
そして──
「罪無き犠牲者達の名前だ!!」
──剣一郎の額を目掛け、咆哮と共に全身全霊、渾身の一撃を振り下ろした。
──その瞬間、周囲に凄まじい轟音が鳴り響いた。
9
──辺りが、再び静寂に包まれる。
剣一郎の頭の周りには、赤黒い血溜まりが広がっていた。
衛が放った一撃は、剣一郎の頭蓋骨を、中に詰まった脳味噌ごと粉砕していた。
「……」
断末魔の叫びを上げることもなく、剣一郎の体が何度か痙攣し、それっきり動かなくなる。
それからゆっくりと、体がぐずぐずに崩れていき、塵となって消滅した。
「……はぁ……はぁ…………はぁ…………」
ゆっくりと呼吸を整える。
それから、己の右拳に目を向けた。
赤黒い血に染まっている拳はまだ、先程殺した兄弟達へと怒りと憎しみで、静かに震えていた。
その手をゆっくりと開きながら、ここに来るまでに会ってきた、犠牲者の遺族達の顔を思い出した。
そして同時に、彼らが口にしていた言葉が、衛の耳に木霊した。
──彼らは皆、怒りや悲しみを湛えた表情をしながら、大切な人々の理不尽な死を嘆いていた。
そして同時に、その人々を無残に殺した犯人に対し、決して届かない憎しみの言葉を呟いていた。
その言葉は、片時も離れることなく、衛の耳にこびり付いていた。
他の目撃者や遺族達の話を聞いて回っている時も。
三兄弟の退治に向かう時も。
生死を賭けた、死闘の最中にも。
そして今、この瞬間も。
惨劇を引き起こした凶悪な妖怪は、衛に完膚なきまでに叩きのめされ、消滅した。
しかし、元凶にどれだけの苦痛を与えようとも、殺された人々は決して帰って来ない。
失われた命は、日常は──決して甦ることはない。
「……」
未だに震えが治まらない右手を、衛は再び固く握り込んだ。
「…………」
衛はただ、己の右拳を見つめていた。その顔には、悲しみと虚しさが混ざったような、やるせない表情が浮かんでいた。
拳の震えが止まっても、衛は拳を見つめたまま、しばらくその場に佇んでいた。
第2話 完