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穏やかな原始人の優雅

 キリスト教徒でもない日本人がクリスマスを祝う必要などないはずだが、これだけクリスマスが行事として世の中に定着したのは、その宗教が素晴らしいからでも行事がイケてるからでもないらしい。ずばり肝は金儲けであった。例えば若人にとってのクリスマスは恋人と二人で過ごす聖夜としての意味合いがあるが、散文的に言えばぶっちゃけセックスデーにすぎず、しかし残念ながらそれだけでは儲からない。儲けるには彼らをホテルに誘導して宿泊料を落としてもらわねばならぬ。というわけで、バブルの時代に業績を伸ばしたホテル業界がこの「聖夜」作戦を展開した結果、日本の若者は多くもない預金をはたいて割高になった宿泊料金を払って彼女を喜ばせたり、宝飾品を買って彼女を喜ばせたり、いやその前にバイトに励んだり、更にその前に恋人作りに励んだりした。何たる不毛。全てはホテル産業や贈答品産業に吸い取られるための仕掛けなのだ。そこにはキリストの誕生も古代北欧の冬至祭もどこにもないのだ。歴史も伝統も精神世界もないのだ。あるのは燃える商魂だけ。クリスマスツリーのオーナメントの輝きに商魂の炎を眺める宇宙人。「すぐに忘れ去られるものばかりが溢れる中、忘れ去られる前にできるだけ儲けようと」血道を上げる地球人を土星の冷気を込めて眺めやる宇宙人。
 そんな宇宙人も、『穏やかなゴースト』と併読した宮沢清六著『兄のトランク』に、「すぐに忘れ去られる」ものだけではない普遍的思想や金言を見つけて溜飲を下げている。宇宙人とてクリスマスに恨みがあるわけではないので、敬虔なキリスト教徒が本来はこうして過ごしたいであろう聖夜に相応しい心の在り方を、清六氏の言葉を借りて提示してみようと思う。以下は『兄のトランク』の抜粋だが、時間のある方は是非とも全編読んでくれなのだ。『穏やかなゴースト』も中園君の残した絵画の口絵と共に全編堪能してくれなのだ。※印は宇宙人のつぶやき。

――兄と一緒に子供のときから映画や音楽や詩を鑑賞したが、兄がだまって沈黙して何も言わなかった時は、必ず彼が何かの点で感動し、或いは深い意味のあるときだったことに気がついたのです。…これは今考えますとむしろ実にいいことだったと思うのです。私が沢山のことまでも、他人が苦労して得た答えを鵜呑みにして、ダイジェストや虎の巻で間に合わせ、「結論」と「答え」だけを知ってしまい、その方程式や道程を自分で考えないことの習性に陥らないために、ありがたいことだったと思います。――
(※「他人が苦労して得た答え」をネットで引き出すことが知識だと思っているスマホ世代に読んでほしい。清六氏は単に宮沢賢治の弟であるのみならず、その思想の深い理解者であり、且つ自身もまた兄に劣らぬ人格者なのであった。)

――詩人は常に来るべき文化の先陣に立つものであり、最も鋭敏なる災害予報機でなければならないとも思う。…彼(賢治)はあの頃の社会主義者達と全然異なった道を歩いて行った。彼は社会運動をやる代わりに、稲作増収の肥料設計と、石灰岩抹の幾百車かを酸えた野原に撒き散らした。彼は社会の不正を糾弾する代わりに、冷害の太陽に挑戦し、温度上昇のためには大火山島爆発をさえ夢想し、肥料の雨を田畑に降らす企画を造り、雨雲に対する古今未曾有のステートメントを発した。それから彼は陰鬱な長編小説を書く代わりに、明るく綺麗な童話を書いた。これらの素朴さをすら、詩人の夢と嘲笑する狐どもが、それでは何をやったというのだろうか。――
(※日本の社会主義運動に対する辛辣な批判なのだ。ところで社会主義の本場であった旧ソ連・ロシアでは、詩人や知識人の存在意義とはまさしくこうしたもので、今も昔も詩人の社会的地位は高く、人間世界を理想に近づけるために実社会に関与する姿勢が求められていた。日本の知識人はそうした意識が元より希薄で、なるほど昭和の社会主義運動は「陰鬱な長編小説を書く」ばかりとの揶揄も当てはまっている気がする。)

――安易につくられる賢治の伝記映画などを拒んで今日に至った…――
(※そうだったんだ。そういえばスケートの浅田真央ちゃんが現役の頃、彼女の伝記を売り出そうとした出版社が、真央ちゃん本人の意向で出版を差し止められた事件があった。「事実と違う」ことが原因だった。一体、事実と違う伝記を売り出して何を儲けようとしたのやら。「他人が苦労して得た答え」を無視して「結論」と「答え」だけでうまい汁を吸おうという浅ましさ。そうか、宮沢賢治もそうだったのか。)

――若葉をむしり、木の根茎を掘り、菜食だけをしていて外見は粗野でみにくかったが、きっと心はやさしく美しかったそんな先行人類。――敬虔で神秘的なものを本能的に信じ、自然を崇って相手に迷惑をかけないような先行人類。――平和で静かな北上山地の動物たちとも互いに犯し合わないで、何代も生活した、丁度「雨ニモマケズ」で賢治が「サウイフモノニワタシハナリタイ」と考えたような人類が優雅なこの辺にも居たと私は思い度いのである。この人間の祖先(=原始人)は世界の各地で生活方式の違った別の人種に絶滅されたということになっている。別の人種――石器をつくることを知り、動物を狩猟して肉食するようになった闘争的な人種――生物学では、進歩して智的に優れたと考えられているこの生物を、学者はオーストラロピテクスと呼んでいる。――
(※肉食から遠ざかっていた頃の日本人は、原始人に近かったのかな。優雅な原始人。優雅ってなんだ。)

――「世界」というのを『広辞苑』でひきますと、一番真っ先に書いてるのが仏教での「世界」です。「世」とは「三世」とかいいまして、過去、現在、未来を「世」といいます。「界」は「東西南北」「上下」をいうと書いてます。ところで「東西南北」は平面です。「上下」は立体です。ですから宇宙全部ということになります。…「個人が幸福になれば世界が全体幸いになるんだから、それでいいのでしょう」というのは、大変ちがうと思います。世界という意味の考え方がちがうのです。賢治の言っているのは地球だけのことではないのです。宇宙全部、過去、現在、未来。…「地球上の人間だけが幸福になっただけで、全部が幸福になるということではないのだ」――
(※宇宙人はバカが嫌いなので、バカがいないか極めて少ない社会で暮らしたいと思っている。その方が居心地いいもんね。皆が賢く優雅になってくれれば、皆が幸せを享受できるだろう。…そう願っているが、算命学者としては、そんなバラ色の世界は存在しないことを認めるしかない。全員が幸せになるなど、陰陽論ではあり得ない。それでも賢治の理想には共感するし、応援もしたい。)

――(賢治の言葉として)苦痛を享楽できる人はほんたうの詩人です。もし風や光のなかに自分を忘れ世界がじぶんの庭になり、あるいは惚として銀河系全体をひとりのじぶんだと感ずるときはたのしいことではありませんか。――
(※試練や困難に直面しても、これを乗り越える過程を楽しめる人が質の良い人間なのだろう。いちいち落胆したり絶望したり、愚痴ったり誰かのせいにしたりという人間が今の病める世の中には多くて、しかもそれらの声がやたらと大きい。こうした声が聞こえないように耳を塞いだり家に引きこもったりする気分も判らないでもない。「風や光の中に自分を忘れる」境地にまでは到底至っていない宇宙人なのだった。)

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