算命学余話 #G106 「正義の認識」
前回の余話#G105で取り上げた画家、中園孔二にかかる生前エピソードと命式について、読者の反応を見ると、どうやら彼と同じ官星を宿命に持っている人ほど感動が深いという印象を、私は受けました。あくまで個人の印象ですので、一般論として通用する見立てであるかは定かでありません。しかし、例えば私は宿命に官星がありませんが、恐らくそのせいで、官星を主星に持つ人たちや、官星を多く持つ人たちほど強い共感や深い感動、「思い当たる節がある」という気付きに至らなかったのではないか、と自己分析しています。
この自己分析を補強するエピソードは後述するとして、先にロシアの現代作家が気になることを言っていたので、それを紹介しましょう。ソ連崩壊後のロシアの文豪リュドミラ・ウリツカヤは、その作品が高く評価されて邦訳も多数出ていますが、2010年の作品『緑の天幕』(邦訳は2021年)は、70年続いたソ連という時代を市民の目線で総括したような大長編です。ソ連と聞くと西側世界では「暗黒帝国」のようなイメージと結びつきますが、勿論その中で暮らしていた人々までが暗黒な悪魔だったわけではなく、彼らもその中で苦しみ、抵抗し、そして苦しいだけではなく喜怒哀楽があった。要するに、様々な立場の人が同時代を生きていた。ある時は被害者となって、またある時は加害者となって。巻末の訳者あとがきには、ウリツカヤの以下の発言が記されています。
――「時代に勝った者などいません。拷問やラーゲリに心を折られなかった者たちも、野心や私欲や嫉妬に打ち負かされました。それは集団的な罪、集団責任であって、公正に裁くのは天のみです。いえ、天にもそれができるかどうか定かではありません。私にわかるのは、私には誰も裁くことなどできないということです。…ソ連当局は人間の持つあらゆる人間性を破滅させる強大なシステムを作り上げました。それは人間を『人間でなくさせる』大いなる機械です。…『ソビエト的人間』とはつまり、従順且つ臆病で尊厳に欠けた、怠惰で好奇心のない人間のことです。」…
そうした社会が人を「ソビエト的人間」に変え、「従順且つ臆病で尊厳に欠けた、怠惰で好奇心のない」者たちが更に「強大なシステム」を助長するという負の連鎖に陥ったとき、そこから抜け出すための拠り所となりうるのは結局のところ「文化」なのだとウリツカヤは言う。――
現在進行中であるウクライナ・ロシア間の紛争で、一方的にロシアが黒でウクライナは白だといった単純で恣意的な色分けに酔い痴れている輩の、子供じみた浅はかさが浮き彫りになる発言ですね。「人間はそんなに単純ではない」ことは、役者に演技指導する映画監督だって知っていることなのに。一体、彼らは自分が正義の味方であると本気で考えているのでしょうか。自分が清廉潔白だとでも。だとしたら浅はかさの極みです。こういう輩には、「私にわかるのは、私には誰も裁くことなどできないということです」というウリツカヤの金言など脳みその奥には届かず、平気で気に食わない誰かを密告し、裁いて晒して悦に入るのでしょう。ソ連時代の悪習のように醜悪です。そして彼らこそが「従順且つ臆病で尊厳に欠けた、怠惰で好奇心のない人間」であり、同種の仲間を社会に増殖させていくのです。
算命学の話に戻します。『緑の天幕』を読むと、算命学者の目は、仲間を裏切っても平気でいられる人と、そうでない人がいることに気付かされます。そしてその境界は、恐らく官星の輝きが寄与しているのではないかと思うのです。
『緑の天幕』では、仲間を裏切った自分に耐えがたい嫌悪感を覚え、いつまでも自責の念にかられる人物が描かれる一方、全然自責に苦しまない真逆の人物や、仲間を売るように人を仕向けるテクニックに長けた当局の役人も描かれています。現代で言うところの「司法取引」というやつですが、昨今のオレオレ詐欺の「出し子」が司法取引で「ルフィ」を売るのとはわけが違います。ルフィを売るのは第三者から見ても正解ですが、ソ連では天地が逆転していました。だから「尊厳が欠如」したのであり、その前に何が「尊厳」であるのかが問われたのでした。こういう問題提起は今も昔も日本文学にはないものです。欧米にもなくて、ロシア精神の十八番と言っていいでしょう。
尊厳はプライド、自尊心のことで、判りやすく言えば「卑怯なまねはしない」ということです。独りよがりではない公正な正義の有無が問われている。五徳で言えばまさしく官です。正しい正義を持っているから、そこに名誉が与えられるのです。
しかし名誉ばかりに囚われると、逆に正義は遠ざかっていきます。その時の官は、正しく輝いているとは言えず、間違って輝いているのなら、官とは相剋関係にある寿が反応して異常な動きを見せます。それが悪目立ちです。不名誉で有名というやつです。最近の話題で言えば、ビッグモーターやジャニーズや松本人志といったところでしょうか。不名誉で名が上がっても、褒められたものではありません。それまでの彼らの名声には、正義が伴っていなかった。偽りの名誉だったのです。
今回の余話は、正義や名誉の感じ方についてです。正義とそれに続く名誉を司る官星は、当然自分の行いが正しいかどうかに関心が高いですし、社会に悪を見るとこれを攻撃して正したいという欲求に駆られます。しかし他の五徳にとっては、実はそれほどでもないです。そこに齟齬が生じる。この辺りについて、少し考察してみます。
なお、以前の余話でも話題にしたことがありますが、五徳のうちの四番目である「官」は、三番目で中心でもある「禄」という重力を振り切って次のステージに移行する性質があるため、人間が動物的な本能から脱して叡智(印)へと向かう境目にあるとされています。つまり動物ではなく人間であるためには、正義や名誉、つまり尊厳をまず備えていなければならない、ということです。それを備えずに生きることは、動物と同じ、食って寝て、性交すれば満足する人生ということになり、「禄」で止まるならそういう人生になると。そして上述のウリツカヤの発言を見れば、どうやらロシア人はそういう人生では満足できない民族であり、そのことに常に言及するから世界文学の中で高い地位を維持しているのです。この辺りも、考察の価値がありそうです。
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