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算命学余話 #U61「守護神#2 甲×夏」/バックナンバー

 戦後最大の噴火被害を生じた御嶽山から命からがら生還した方の一人が、「一緒に登山していた仲間を置き去りにし見殺しにしてしまった」と涙を流して後悔されていました。誰も経験したことのないあれだけの自然災害だったのですから、どう考えてもこの人の責任ではないと思うのですが、ご本人にとってはそうではない。同じ台詞は戦後69年経った最近も聞かれました。空襲で一緒にいた家族全員を失った当時小学生の老婦人が、「死んだ皆に申し訳ない」と今でも泣くのです。まるで生き残ったことが悪いことのように彼らは感じている。

 自分だけがシェルターに隠れて他の人を追い出したとでもいうならともかく、その人が助かったのはほんの偶然としか言いようがないのに、当人はそのように罪悪を感じるもののようです。尤も、自らシェルターを独占するような人間もなきにしもあらずで、こういう人ほど死ぬまで罪悪を感じることはなさそうですが、そういうのは脳みそに修繕が必要な例外として置いておき、健全な精神の持ち主は自分だけが生き残ったことを、なにやら誰かを犠牲にして、その犠牲の上に図々しく生き延びたと考えるものらしいです。
(尤も、こうした台詞を私は外国では聞いたことがない。空爆や自然災害、人為災害で大勢の死者を出した時、少数の生き残りが死者を悼む言葉を発することはあっても、「申し訳ない」とか自分を責める台詞は出てこない。確かに自責の念を抱かねばならない理由は見当たらない事態ではあるのだが、「謝ってばかりいる」と揶揄される日本人の感性とは随分違う。私の思い過ごしだろうか?)

 こうした「犠牲の上に図々しく生き延びた」という考え方は実に暗示的で、算命学的に云えば真理を突いているものです。陰陽と五行のせめぎ合いで世界が成り立っていると考える算命学では、運勢のパイの総量は決まっており、切り分けたパイを奪い合ったり与え合ったりするのが人間の営みだと冷ややかに見做しています。
 大勢が死んだ中で一人或いは少人数だけが生き残ったということは、算命学の理論では確かに大勢の犠牲を踏み台にして生き延びたという判断になるのです。その人が悪意を以て他者を蹴落としたかそうでないかは、問題ではありません。算命学は善悪を論じず、ただ事実として、生き残った者は死者を踏み台にして生き残ったのであり、その事実は以後その人の人生に良かれ悪しかれずっと影響し続けると、淡々と示すだけです。
 しかし「申し訳ない」と振り返って悔やむことのできる人は、そうした人生の重みや、奪ったり与えたりして最終的に誰が勝ち組とも云えないような世界の法則を、感覚的に体感できている人なのです。こういう人たちには長く生きていてほしいです。そうでない人が多い昨今、或いはそうでない国民性の国の人々が自分こそ世界のスタンダードだと大手を振って闊歩する昨今にあって、この世のあらゆる事象の互換作用の存在を無視する方向へ流れがちな人心を、反対方向へ引き戻す力を発揮できるからです。

 今回のテーマは、算命学余話#U56から始めた甲の守護神の続きで、夏生まれを解説します。夏生まれは巳月、午月、未月です。特に午月は真ん中辺りで夏至を挟み、守護神法では同月生まれであっても夏至や冬至の前後で守護神の取り方が変わる場合があります。なぜ変わるのかは前回の#U56でくどくも説明した通り、自然現象を眺めていればわかることなのですが、何度でも云わせてもらいます。「自然現象を考慮せずに個々の鑑定技法を丸暗記したところで、正しい理解や命式判断には結びつきません」。
 これだけくどくどしく何度も叫んでいるというのに、個々の技法にこだわる学習者は依然として多く、余話を執筆する意図がこちらの思惑通りに読者に伝わっていない実態を痛感させられます。前回の余話#U60玄では宗教が胡散臭く見える理由について考察しましたが、占いが世間で胡散臭いものと見做されている原因もまた、宗教の場合と同じなのです。

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