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山宿すったもんだ #1

 この一カ月を過ごした避暑地を移動する宇宙人。涼しくて快適な高原ではあったが、これ以上いると飽きるので二軒目へ向かう。次の滞留地は人里離れた山奥で、最寄りのバス停からは4時間以上歩く距離だが、幸い宿の送迎車がその奥まで運んでくれたので、荷物を背負っての徒歩は2時間弱に短縮された。しかし関門がある。その宿の前には乳白色した渓流が流れているが、これを渡る橋が流されて以降再建されず、代わりに滑車とロープでできた二本のジップラインが設置されているのであった。「裏銀座」と呼ばれる縦走路への登山口に至るにはこのジップを渡るしかなく、巨大なザックを背負った登山客らは頼りなげな木製ベンチにポツンと腰を据え、果敢にもロープを繰って激流の真上を滑って行くのであった。宇宙人も助けを借りてどうにか対岸へ到着。次回は自分一人でできるようにならねば。
 ここは硫黄泉の湧く渓流沿いの温泉地で、沢水が青みがかった乳白色をしているのは温泉成分のせいである。沢は魚が棲めず、ボウフラもわかず、飲料にもならない。透明な飲み水は別の沢から引いている。宿には発電機があり、調理にはガスを使っている。敷地内の地面を掘って温泉を汲み取り、館内の内湯を張っている。洗い場には木桶と椅子のみで、蛇口も石鹸類もない。昔を知る人は「湯量が減った」と言う。どうやら温泉は枯渇ぎみらしい。沢を遡ればいくらでも熱い湯が湧き出しているが、敷地外なので取水できないという。なお河原を1分ほど下ると野趣溢れる野天風呂もあるが、人ひとりが寝そべる程度の深さしかなく、脱衣所もないので、明るいうちは足湯くらいしか味わえない。テント泊の客なら夜中にこっそり入浴しているやもしれぬ。星空はきれいな場所だ。
 天気の良い日に登山をしたい宇宙人は、ここで涼みながら働き、好天を見計らって山に登るつもりである。下界は宇宙人を溶解させかねない猛暑日が続いている。残暑が収まるまでのひと月をこの山宿に引きこもり、健康的に労働しつつ体力を増強しよう。そう考えていたが、そうは問屋が卸さなかった。

 隣人トラブルは世の習いだが、こんな山奥にも同様のトラブルはあった。知る人ぞ知る秘境、雲ノ平から三俣山荘一帯を管理している有名人の「伊藤さん」は、この温泉地と裏銀座をつなぐ唯一の登山道「竹村新道」に平行する形で、ごく最近「伊藤新道」を切り拓いた。安全な竹村新道とは異なる沢登りルートである伊藤新道は上級者向きで、地図には破線で表示されている。沢登り経験の乏しい宇宙人は、以前知床の斜里岳で水攻めに遭って懲りたので、伊藤新道を使う予定はないが、上級者たちは登ってみたいだろう。その需要に応えるべく伊藤さんは、当温泉地のわが山宿とジップラインを挟んだ対岸に、新たな山小屋を去年の秋にオープンさせた。これが隣人トラブルの始まりである。
 トラブルと言っても騒音が届く距離ではないから市街地でのそれとは様子が異なるが、要するに商売敵が現れたせいでわが山宿は今年から客が明確に減ったらしい。都市に住むオーナーはおっとりした初老の夫婦で、山宿経営は体力的に無理なので管理人を雇って運営を任せている。管理人はクマの如き大男で、宿の経営全般から登山道整備、温泉の管理、食糧の歩荷など一手に引き受けている。これにバイトを二人加えて補助させ、交代で休みを取るという仕組みだ。
 宿の定員は30名。わが経験からして、優秀な人材を抱える宿はスタッフ一人当たり15人の客を切り盛りできる。多少モタモタしたスタッフでも10人くらいは何とかなる。それ以下の人数しか見れないとなると、よほど能力の低いスタッフか、凝った料理を出しているかだ。果たして当宿は、残念ながら後者であった。

 クマの管理人は自分流の効率で作業しているが、傍目には非効率が目立つ。その上整理整頓のできない人なので物がどこにあるのか探すのに手間がかかり、更にこだわりのカレーとかを作っている。メニューはそれだけだが、映える盛付けにも余計な時間が掛かっている。客が少ない時はそれでもいいけど、満室の日はどうするのやら。宇宙人の他にもう一人いるバイトは10日早く入山した素人で、「よほど能力の低い」シニア男性に該当する。シニア人材は女性なら有能なのであちこちで歓迎されているが、男性はそうではない。前職が何であろうと、こうした場所に流れてくる輩は役に立たないのが常である。男性諸君よ。こういうシニアにならないよう、現役のうちに財産を蓄えておきたまえよ。
 幸い、宇宙人の入山から数日は予約数が少なく、仕事を覚えながら効率化のための改善策を練る時間はありそうだ。衛生面も問題あるから、改善していこう。と思っていたが、事態は急展開するのであった。

 四日目になると食材が不足し、クマの管理人は買い出しに下山した。使えないシニアバイトと二人の留守番は心もとないが、今どきの宿らしくフロントにはスターリンクがある。電波の届く範囲は限られるもののスマホも普通に使えるし、有事の際は電話すればいい。
 果たして有事が起きた。宿泊客の食事を提供した後、自分達の夕食を作っていたら、突然三つあるコンロの火が消えた。ガス欠である。なに、ガス欠なら新たなガスタンクに繋げば良いではないか。なのに調理中のシニアは「どうしよう、どうしよう」と子供のように叫んで茫然自失状態である。別に我々の食事なら電子レンジや七輪で調理してもよかろうに、と呑気な宇宙人にシニアは、「明日のお客の朝食のお米が炊けない」と珍しくマトモな事を言う。それはそうだな。ではやはりガスを新しいのに繋げばいい。まだ明るいから作業は難しくないだろう。あ、私は知らないよ、来たばかりで教わってないし。なに、お前も知らないだと? ではクマに連絡して教えてもらえよ。電波良好なんだから。

 驚くべきことに、このシニアはそんなことさえ宇宙人の指示を受けないと気付けないポンコツであった。前職は英語の教師だったという。こんなんじゃ学級崩壊してたんじゃないの。子供は質の低い教師を遠慮なく馬鹿にするからねえ。「電話が繋がらない」とスマホ片手にうろたえ続けるシニアに、宇宙人は「そのまま掛け続けろ。私はオーナーに電話する。下界同士の方が繋がりやすいだろうから、オーナーからクマにプッシュしてもらう」と言い捨て、フロントから電話を掛ける。すぐに繋がった。さすがスターリンクだ。オーナーに事情を説明して電話を切る宇宙人。しばらくするとクマからシニアへ電話が掛かって来た。よしよし。リモートの指示を受け、シニアは屋外へ出てガスタンクを転がしてくる。あ、すぐそばになかったんだ。力仕事になって大変だね。助けが必要だったら言ってくれたまえ。とりあえず屋内からシニアの奮闘を監視する宇宙人。また奴がうろたえ始めたら喝を入れねばならぬ。
 クマと繋がってからものの5分でガスは無事に開通した。ほら簡単じゃん。何だって子供みたいにオロオロする必要があるのだよ。そんなへなちょこな人生を60余年も生きてきたのかね。もう一遍赤ん坊から人生やり直したまえ。そう思いながら表面上はシニアの奮闘を讃えてやる宇宙人。こいつと一カ月も一緒に仕事か。先が思いやられるな。え、これがタイトルの「山宿すったもんだ」かって? 違うよ。すったもんだはここからなのだ。(つづく)

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