7月22日

モンテ千秋楽。4年間皆で待ち続けた、モンテカルロイリュージョンの千秋楽がやってきた。正直、体調良くなかったし予定詰め込みすぎてて集中力はないしアウトプットの時間もないしでコンディションの良い観劇とはまったく言えなかったけど、最初にそうなりそうだと思って買い控えていた回のチケットを後から買えるだけ買った程度には、やっぱり未練あったんだなーと思った。
無事千秋楽を迎えられたこと自体は喜ばしいし公演自体もとても良かったけど、それ以上に、もうモンテの再演を待たなくていいのだという安堵が強い。うち、もう、モンテの再演を待たなくてもようなったとよ。やっとあの日々から解放されるばい。
そしてその気持ちはきっとたわださん(とたわマネ)のほうが強かろう。今回舞台の上のたわださんはのびのびと歌い踊りながらもどこか張り詰めて見えて、正直ちょっと胃が痛かった。そんなふうには見られたくないだろうけども。あれから背負わせ続けた肩の荷はおろせたのでしょうか。だとしたら我々も背負わせた甲斐があったというものです。次があるなら、次こそは、再演ではないモンテが観たいです。
帰宅して夜、映像の世紀がたまたまオリンピックの回だったので、見た。

モンテは結果的に再演がオリンピック周期に合致してしまったけど、この4年の間にいろんなことがあって。ひとつにはやはり世界情勢が大きく変わって、パリ大会の出場可否について、ボイコットが現実味を帯びたことだった。
つかこうへいの戯曲には、国とか世界とか人類とかの大局を、個人間の感情、曰く「痴情のもつれ」に映してみせるようなものが多くある。広島とか幕末とかが具体的だけど、底本熱海にもその側面はもちろんある。それに比べるとモンテって状況が限定的だし写実的だよね〜なんて思っていたけど、いざこうなってみると、単に当時のボイコットの空気感が分かってなかっただけかもなあと思った。夏枝への愛を貫くために原爆を落とすのと速水を愛するがゆえにオリンピックを辞退するのは同じ理屈だった。直面するまで、ただ「愛」を証明するためにどれだけのものを投げ出せるかという、一種のチキンレースみたいなものだと思っていた。や、まあ、知らんけど。てきとう言うてますけど。少なくとも私に届いた令和のモンテカルロイリュージョンにおいてはそうだった。
カテコまでぐちゃぐちゃに泣いてた嘉島くん、ぐっちゃぐちゃだったくせにラストシーンで「私が生涯部長と呼べるのは貴方おひとりです」って言うときだけ、まるで恋するみたいな顔をしていて。そうかも〜、と思って急に泣けてしまった。当時誰のために書かれた戯曲だったとしても、私にとっての令和のモンテカルロイリュージョンの部長も、生涯たわださんおひとりですよ。

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