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思考の整理メモ 自分のためにする作文と字書きとしてのアイデンティティのズレについて

アイデンティティという言葉をよく自己同一性とか肩書きのようなものだとふわふわとした理解で使っていたが、今一度調べてみると、「自分が自分であること、さらにはそうした自分が他者や社会から認められているという感覚」のことらしい。

今まで自分は自分の趣向や嗜好を満たすために小説を書き続け、それを保管する目的もあり、pixivに投稿してきたが、その作文がついでに評価されたがゆえに、自分のための小説を書く=字書きとしてのアイデンティティが維持されるという図式が固定されがちだった。
(ついでに、という言葉はだいぶ思い上がっているように感じる。)
だが、本来は、他人のために小説を書く=字書きとしてのアイデンティティが維持されるという図式なのかもしれない。
(字書きの中には小説だけでなく、幅広い文章があるのは勿論知っているが、メモなので小説という言葉に限定している。)

創作者の筆の折れる原因の一つは感想の少なさだと聞くが、自分の書く小説という分野は絵に比べて、
まず読んでもらわなければ中身もわからないし、パッと見では良し悪しもわかりにくいので、そもそも評価をもらえることの方が少ない。
なので、感想が少ないことは初めから承知の上でやっている。
…とはいえ、交流を狭めてからというのも、そもそも僕自身が人の目に触れる機会が少なければ、その分見てもらえないのも必然であった。
つまり、初めのうちのいいねを貰い始めた頃よりも
評価で心が満たされる基準が高くなってしまっている。これが本当によくないと思っている。
以前に増して渇くのでもっといいねの水を私に恵んでくださいとも言えない。返せないものを欲しがるべきではないと思っているからだ。
ここで、話は戻るが、
しかし、承認欲求、アイデンティティもボロボロになりつつあり、もはやガレキレベルではあるが、それでも自分のために小説を書きたいという欲求があるため、冒頭の
自分のために小説を書く=字書きとしてのアイデンティティを維持する
という図式が成立しないのに混乱していたのだ。
正しくは、
他人のために小説を書く=小説が他人に認められる=字書きとしてのアイデンティティを保てる
という図式が正解なのだと思う。

これを置き換えると、
自分のために小説を書くことは字書きとしてのアイデンティティとは全くの関わりがないということ。
つまり、繰り返しにはなるが、
どうしても自分好みの小説を書いたならば、
字書きとしてのアイデンティティなど考えなくていいと、自分に言い聞かせることができる。

この考えが多くの人に適用するなんて思ってはいないが、少なくともみずのたる自分自身には合っているのではと思う。

2024.8.29


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