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決して美しくはない

※個人の発信です。

割と外は優しいのだと感じる。

相容れる関係では無い田舎(※都会も)の老人は少子化によって少なくなり、住みたくもない地域で過ごされている子供達にも親から何か言われているのかまあまあ暖かそうだ。

老人達は駅の駐車場を有料にし、無意味な貼り紙をカゴに乗せて選挙カーを未だに使う永遠に関わりたくない老耄でしかない無い現実から目を背けながら。
そこまで恨みを抱かないのなら優等生を今も昔も押し付けすぎているのでしょうね。
コンプレックスを引きずってる歳上は昔から醜い者でしたから。

目の前の住人も我が家と違って子供達に優しい。
その子も仮面ライダーカブト放映以降の産まれかもっと後かは知らないけれど。
地方にいる時点で羨ましいだなんて微塵も感じない。
プラマイゼロの家族愛。

私達は美しくない。
私達ダメ一家を依代にして余計なもので溢れた多数派の家庭やコミュニティで成り立ってしまっている現実からなんとか恩恵を受け取り縋るフリを私はカモフラージュとして行っているから。

それが楽だ苦だの話でもそういう問題でもない。

すぐ近くで都会に憧れながら大した職もイベントも貴重な自然もない腐った田舎を嫌悪しながら、他者の頭が良くはなさそうな幸せに嫉妬しながら「そんなもんか。」と笑って自我を保つ。
冷笑じゃない。
サクラがやるお約束の歓声。
無料なのがいけ好かない。

そんな毎日はまるでながら作業だ。
少し独特か他にもそうやって過ごしている方がおられるなら別ですが、

表では嫌悪する表情を装いながら、自分は自分の道を生きていると錯覚したふりをしながら次のことを考える。
景色として見える遅れた多数派の欺瞞合戦を見ながら飲み込まれまいと悩み足掻く。

飲まれてしまったら死んだも同然。

けれどそうなったとしても「そんなもんか」と仮説を立てて自我に戻る。
余裕がなくなった現実にいるから。

それは美でもなければ幸せでも不幸でもない。

許容し合うしかないだけ。

一つお伝え致しますが、集団で善を取り繕う事は出来ても、ゼロから創る孤独を悪だと認識しながら生きていくのであれば、もう後戻り出来なさそうだと周りやインターネットを観て仮説が成り立つ。

私はとっくにそうは感じない。
生き急ぎたくないから。
それに孤独が怖いと思い込んだり、孤独が素晴らしいと思い上がると他者の温もりを実感できなくなる。
その中間点を見出すのが難儀だからこそ価値があると今はそれしか考えられないかもしれないので足掻き続ける。

たしか、両極端におられるそんな方々ほど幸せになりたいと掲げていたっけ。

私からすれば強欲そのもの。

物は欲しくなくても概念を欲しがるくらいなら自分に素直になった方が節制できそうだとよく考えている。
結局捨てることが怖いと正直に言えないからややこしくなるのでは?

美しくなんかない。
だからこそ内に秘められた想いは忘れないようにしたい。

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