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ジョン万次郎の人間力@英雄達の選択

英雄達の選択でジョン万次郎をやっておりました。
なんとなくは知っているけど、、、という感じですね。

番組を見てすごい人物だったことがよくわかりました。
紹介したいと思います。


経歴

ジョン・マンジロウ(John Manjiro)は、日本の歴史において注目すべき人物で、江戸時代末期から明治時代初期にかけて活動しました。以下に、ジョン・マンジロウの経歴の概要を示します。

- **生い立ち**: ジョン・マンジロウの本名は吉田 万次郎(よしだ まんじろう)で、1827年頃、香川県の土庄町(現在の観音寺市)で生まれました。彼は漁師の家庭に育ちました。

- **アメリカ船に漂着**: 1841年、16歳のとき、万次郎は仲間とともに漁船で出漁中、嵐に遭ってアメリカの捕鯨船に救助されました。この船は「ジョン・ダンフィー号」で、アメリカの捕鯨業者であるウィリアム・ハートによって所有されていました。

- **アメリカでの生活**: 万次郎はアメリカに連れられ、ニューイングランド地域で暮らしました。彼はアメリカの言語や文化を学び、捕鯨の仕事に従事しました。また、航海術や船大工の技術も身につけました。

- **帰国**: 1851年、日米修好通商条約が締結されると、アメリカに渡った日本人は帰国が許されることになりました。ジョン・マンジロウも帰国を決意し、1851年に帰国しました。

- **帰国後の活動**: 帰国後、万次郎は日本で英語教育を行い、西洋の技術や文化を広めました。また、江戸幕府の要職に就くこととなり、外交関係の橋渡し役としても活躍しました。

ジョン・マンジロウは、日本とアメリカの架け橋となり、日本に西洋の知識をもたらす役割を果たしました。その功績から、彼は日本とアメリカの歴史において尊敬される存在となっています。

ChatGPT

土庄町(観音寺市)とかは置いておいてw
そして1851年に日米修好通商条約で帰国と書いてますがペリー来航してないやん。
ChatGPTくん。雑。

ただ、万次郎の人生は波乱万丈なのはわかると思います。
そこを1つ1つ見ていきます。

沖鳥島146日間(今できることをやる)

ChatGPTだと16歳、番組だと14歳で遭難。沖鳥島に漂着。
なんと沖鳥島にいた期間が146日にも及んでました。
これは知らない人が多いと思います。
5人で漂着したそうですが、最若年の万次郎が皆を励ましていたそうです。
ここにも万次郎の人間力が垣間見得ます。

島には木々が無く、水の貯めもなく、アホウドリしか食べるものが無かったそうです、そのアホウドリも産卵期を迎えいなくなってしまったそうです。

現代人なら1週間ともたなさそうですね。

捕鯨船乗船での環境帝応力

捕鯨船に助けられた万次郎一行。そのまま捕鯨しながらハワイへ。
そこで一行は4人はハワイに残り、万次郎のみアメリカに行きました。
それは乗員に気に入られたからだそうです。
言葉もわからない中で万次郎は積極的にコミュニケーションを取り、できることは手伝ったとか。
そして船長に「アメリカで教育したい」と言われアメリカ本土に渡ることになりました。

アメリカ本土で教育を受ける(応用力)

万次郎は小学校に入学します。年齢的には長じていましたがやはり言語の問題もあり大苦戦したようです。
そこで学校だけではなく教員の家にまで行って教えを乞うたとか。

そして航海術などの高度な内容ではトップを取るまでになっていました。
現代でもいますよね。今まで基本の段階で躓いていた人が基本がわかると一気に伸びるという感じ。万次郎もそのタイプだったのでしょうか。

捕鯨船乗船(アイデンティティ確立)

航海術を身につけた万次郎は海へ出ます。それは3年4ヶ月の長期に渡るものでした。途中琉球に寄ったようで下船したかったようですが船長が許してくれませんでした。
しかし、この際の体験で世界の色々な国を見ることができたのは万次郎の生涯にとって大きかったようです。

この乗船中に船長から「姪の婿になって欲しい」とまで言われます。
しかし、ここで「Japanese!」と手紙に書いて断ります。

自分は日本人だ!日本を開かせて世界とつなぐ!という使命に目覚めます。
※当時の日本は鎖国政策により外国人の扱いが酷かったようです。

砂金採掘

ここは余り知られていないのではないでしょうか。
万次郎が3年4ヶ月の航海を終えてアメリカに戻るとゴールドラッシュが起きていました。
万次郎も便乗。日本に帰る資金を貯めるためです。
万次郎は砂金採掘で600ドルを稼いだそうです。それは捕鯨船の給与の17年間分に相当する額だったようです。

自力でハワイへ

万次郎は稼いだお金でハワイへいきます。
そして昔別れた遭難仲間4人に一緒に帰ろうと声をかけます。
そして皆同意。
ここで手漕ぎボートを購入しています。この代金は万次郎が払ったそうです。
民間の船はハワイ〜上海便しかなく、琉球沖から手漕ぎボートで沖縄に移動・上陸する作戦でした。
当時は鎖国が厳しくいきなり土佐に戻っても外国人扱いされる虞(再出国や打首)がありました。
なので薩摩藩配下でありながら独立国という建前であった琉球王国に行こうとなったようです。
この作戦が結果として吉と出ます。

島津斉彬に気に入られる

琉球を選んだのは「吉」だと言いました。
それは当時の薩摩藩の藩主が島津斉彬だったからです。
島津斉彬は開明派です。その斉彬にとって海外の知見を多く持った万次郎は貴重な存在でした。万次郎はアメリカや世界のことを斉彬に伝え、砲台設置に関する意見も述べたようです。

ペリー来航

ペリー来航時、幕府幕閣は対応に苦慮しました。そこで抜擢されたのが万次郎でした。ときの老中・阿部正弘は万次郎に「アメリカの真意」を問います。
万次郎は答えます。「日本は世界最低のマナーの国である、人を人として扱いましょう。」と。つまり「アメリカは戦争したいのではなく、交易をしたい」ということを伝えました。
そして島津斉彬と昵懇の阿部正弘にも気に入られなんと幕閣に入ることにもなります。

そして翌年の「日米和親条約」締結で彼は自分の使命であった日本と世界をつなぐ!を果たしたのでした。

そしてその後、多くの人々が万次郎の影響を受けます。
・坂本龍馬
・岩崎弥太郎
・勝海舟
などです。
そして土佐から吉田茂という総理大臣を生んだのも万次郎の影響が大きいと思います。

万次郎の凄さ

私が感じた万次郎の凄さは環境適応力です。
遭難にめげず、長期になっても明るく振る舞う。根が明るいのでしょうが。
船上でも言葉がわからない中でできることをやる。
そしてアメリカで異国の言葉を全く知識の無いところから1から学ぶ。
そして日本に帰るためにはお金が必要と判断し、砂金を採掘する。
更に日本に戻るための算段を立てる。
日本では求められていることを的確に伝える。

言うに易しですが、実行は難しいでしょう。

更にはコミュニケーション力でしょう。
どこに行っても嫌われない。
そして日本に帰る際は別れた4人を誘うという人間力。
(もしかしたら旅費も万次郎が払ったのではないか?とも思えます。)


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