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邪馬臺国丹後説❶長野氏説

長野説

船等に詳しい長野正孝氏の説を紹介します。

3世紀の船で瀬戸内海は渡れない!

長野氏の説の根底は船の知識です。
造船の技術的に当時の瀬戸内海は渡れなかったとします。

4世紀応神天皇の時代に帆船が使われるようになりました。

そして瀬戸内海を船で渡れるようになったのは21代雄略天皇の治世
5世紀になってからといいます。

なので物理的に畿内説はだめ!ということです。
畿内勢力では外洋船は作れない。
※遣唐使の船を作ったのは広島

倭国大乱とは海運業者間の貿易戦争

知られざる丹後王国

長野説には大まかに5つの国が出てきます。
1.九州倭国
2.出雲
3.丹後
4.大和倭国
5.敦賀

3番の丹後はあまり耳馴染みないのではないでしょうか。
元々、「タニハ」と呼ばれる日本海側に丹後王国が栄えていた。(現在の豊岡・京丹後市付近)
北九州〜富山を結ぶ海運が主体の国。
朝鮮からは鉄、東からは翡翠や黒曜石を輸入し、再加工・製品化して輸出していた。

そこで北九州を主体とし、朝鮮半島と交易をしていた北九州、2世紀には最大の港であった出雲と争いに。俗にいう「倭国大乱」とは『鉄』の「貿易戦争」であったと長野氏は言います。

そこで卑弥呼が魏に使いをだす。

では卑弥呼は北九州、出雲、丹後・・・どこの女王だったのか

鉄の輸入・輸出

当時の日本は鉄が作れなかった。
なので朝鮮から鉄を持ち帰るために「船」を作った。
そして加工し、製品化した鉄で「船」を作った。
その過程で鉄は消耗する。
なのでまた鉄を求め、「船」を作る。

卑弥呼が魏に使いを送った理由

繰り返すが卑弥呼が使いを送った理由として長野氏は「鉄の安定供給」を挙げている

そしてより「鉄」が必要だったのは丹後である。
北九州はどちらかというと大陸への安全横断や兵站輸送がメイン。

なので使いを送ったのは交易業に特化していたのは「丹後」である。
交易の相手と話をしないといけないのは「丹後」であるとする。
※出雲の話は出てきません。

邪馬臺国の話としてはここまでです。
しかし、ここからが面白い。

更に続く貿易戦争

応神天皇による敦賀ルートの確立

前述の通り、応神天皇治世化で帆船が開発されます。
それに伴って航海距離が伸びます。
敦賀ルートの開拓。
敦賀といえば、、、そう「神功皇后」「応神天皇」ですね。
応神は「敦賀王国」を作りました。

九州倭国東征「応神東征」「敦賀建国」

応神のお膝元は豊後国です。
八幡神社の総本山 宇佐神宮がある豊後は4世紀「秦」王国といわれるほど渡来人が来ていたようです。
そしてその渡来人を率いて敦賀に大移動し、敦賀王国を築いたとされています。

八幡⇨ヤハタ⇨八・秦⇨たくさんの秦

敦賀航路の開発によって痛手を受けたのは元々日本海側を主体としていた「タニハ」こと丹後王国

丹後王国は一時的に没落するようです。

出雲の盛衰

魏志倭人伝当時出雲は日本最大の港だった。
それは出雲半島が、現在のように陸続きではなく島だったから。
時が経つに連れ斐伊川が氾濫し、出雲水道を埋め、陸地続きとなり港機能が大幅に劣化。

そのため、船曳道を作ったりしたが、、、
5世紀には大型帆船が誕生し、九州から敦賀まで一気に進めるようになった。(寄港の必要が無くなった)

日本海経済の中心は出雲から丹後、敦賀に変わった。
吉備の乱の頃に九州倭国に「国譲り」を要求されたと思われる。

「タニハ」丹後王国の復活(たたら製鉄)

帆船の開発や敦賀王国の誕生による丹後王国の地位低下。
しかし、「タニハ」丹後王国は復活。
たたら製鉄という技術を中国から輸入。
自前で鉄の加工ができるようになりました。
それにより勢力を回復していきます。

これにより、北九州勢力や宗像三神は衰退したといいます。

雄略天皇による瀬戸内海航路の確立

高地に住んでいた瀬戸内の人々

香川県高松市には石清尾古墳群などの住居跡(標高200m)
紫雲出山集落跡(352m)
など高所に住んでいたらしい。
航路を開拓するということは港(停泊地)を作ること
食料を調達する屯倉の準備
低地に降りてきた人の職の確保をしないといけない

ここをやったのが雄略天皇である。

厳島=市杵島

厳島神社の祀神は宗像三神の末っこ市杵島姫である。
雄略天皇の時代、瀬戸内の高所に住んでいた人たちを降ろすために宗像の海人を瀬戸内海に派遣して漁の指導をさせていたようだ。
そして、その流れで宗像三神の市杵島が勧請されたようだ。

吉備の凋落

瀬戸内海航路ができたことにより、畿内に近い吉備にも影響が。
それまで通行料等で稼いでいたので取れなくなった。
その既得権益を打破したのが瀬戸内海航路であり、
それに反発したのが雄略天皇時代の「吉備の乱」である。とする。
※実態としては上記のようにゆっくりと同和させていったようである。

「日本書紀」と「瀬戸内海」

日本書紀では瀬戸内海と4人の天皇の関係性が書かれている。
・神武の「東征」
・神功皇后の「凱旋」
・応神と秦氏の「東征」
・雄略の「吉備制圧」

実際に瀬戸内海で活躍したのは雄略のみ!
他3人に関しては「日本書紀」が書かれた7世紀に皇極天皇の九州への移動を参考に書かれたのではないか?

鉄で見る「神武東征」

神武が東征したとされる頃は紀元前だ。
当然、鉄はない。
なので石の斧やナイフだけで船を作らないといけない。
しかし、それは無理。
「日本書紀」に書かれているような船団を用意するのは不可能。
かつ、ルートも宇佐⇨安芸⇨吉備と言う瀬戸内海航路。
絶対に無理。

かつ、九州の土器が畿内に入っていっていない。

日本書紀で神功皇后に積み重ねられた伝説

  1. 瀬戸内海航路通行して河内王となる。
    神武東征ルートを踏襲させた

  2. 663年白村江の戦いの斉明天皇の動きを再現
    斉明天皇の動きの正当化のために新羅征伐の伝説を追記

  3. 応神を敦賀に連れて行く

  4. 卑弥呼に姿を重ねさせる

これだけでも神功皇后という架空人物を用意した意味がある。

住吉3神の神格化

住吉3神は瀬戸内海航路開拓に貢献した3人を祀るという長野氏。
その1人は雄略天皇。
そして神功皇后を合祀して、神功皇后(=卑弥呼)も畿内の人にしたかったとのこと。
まぁ皆さんご存知でしょうが、日本書紀の天皇家万世一系のため。

対立の構造

日本海ルートと瀬戸内海ルート対立の構造

応神天皇の敦賀王国建国を手伝ったのは渡来人「秦」氏である。
つまり、日本海(北九州〜敦賀)を守ってきたのは蘇我氏である。

そんな蘇我氏と敵対していたのが、「乙巳の変」を起こした中臣氏であり、天智天皇である。
※最近は倉石川麻呂による蘇我氏間の勢力争いの説も出てきた。

蘇我氏を駆逐してしまったため、大陸との往来などの海運技術者を失った。
それによって白村江の戦いは大敗し、遣隋使や遣唐使の失敗に繋がっていく。

「春」に朝鮮に渡る

三国志の記録を見ていると倭国勢力が玄界灘を渡っていたのは
旧暦の4月〜6月に集中しているそうだ。
そして9月から1月は記録がないらしい。

遣唐使などが遭難したのは出立が秋、帰路が冬だったからのようだ。
(宮廷儀礼の関係上こうなるらしい)
そして陰陽師が力を持ったため、時化の関係なく出港しなく行けなくなっていたようだ。

長野説を年表化

長野説

長野説を年表化してみました。

瀬戸内海ルートと「豊」

神功皇后を表す漢字として「豊」が用いられます。
山口の豊浦、卑弥呼の後継者と言われる「台与」など。

そして開拓された瀬戸内海航路にも豊の文字が。
四国側ですが、香川県に「豊浜」の文字が見えます。


豊浜地区

豊浜の中でも和田浜地区は良港として海運業で栄え、今も土倉など残っているようです。
そして気になる地名が2つ。
八幡神社もありますね。(曰く付きですが祀神は応神天皇ですね)

一ノ宮

一ノ宮ってその国のトップの神社を表すものです。(武蔵は6個一ノ宮あるらしいですが)
讃岐なら田村神社です。
しかし、豊浜にも一ノ宮神社が、、、

姫浜

仏殿城(川之江城)が1581年に落城した際に、姫が海に身を投げ、その遺体が流れ着いた場所とされています。
しかし、神功皇后と関係が?と思ってしまいます。

まとめ

簡単ではありますが、どうだったでしょうか長野説。

瀬戸内海航路でも中国側なのか四国側なのか
それとも海のど真ん中をいったのか
その辺りも知りたいところですね。

吉備が凋落しているので四国経由したのでは?と思います。

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