六本指の猿 2

「納得できません! 勝者が敗軍の将に母親を差し出すなど、これまでの歴史で一度も聞いたことがありません! どうか、お考え直し下さい殿下!」

 蜂須賀正勝の激しい言葉が、室内を満たした。

 秀吉は、うんざりした顔で、声の主を見て、ついで、他の家臣たちを見渡した。皆、黙って、主君である秀吉と、古参の家臣である正勝を、不安そうな目で見つめていた。普段の会議においては常に巧みに弁舌を振るう石田三成でさえ、沈黙を守っていた。

 秀吉は、ため息をついた。やれやれ、みんなそんなに正勝が怖いか。まあ無理もない、年老いたとはいえ未だに迫力のある外見は健在で、少しでも口答えすれば太い腕で体をねじ切られそうだからな。この古強者と話せるのは、俺だけだろうな。

「俺は、勝者なんかじゃねえよ」

 その事実を口にすることが、秀吉は忌々しかった。

「小牧長久手の戦いで、俺はあの狸おやじに負けた」

 糞! 内心で秀吉は毒づいた。これというのも、あの間抜けな甥の秀次のせいだ! 俺があいつに、兵を預けなどしなければ……。

「家康があの後兵を退いたのは、俺があいつの旗印であった織田信雄を脅して、降伏させたからにすぎん。あいつの持つあの精強な軍事力は、未だに健在なんだよ。鉄の結束を誇る三河武士共に加え、あいつは本能寺で信長様が亡くなってから、甲斐の武田に仕えていた連中まで配下に加えやがった。その上、今のあいつは関東の北条や奥州の伊達と同盟の画策までしてるって話だ。東国の大勢力が結託して俺と敵対するようになる前に、あいつを懐柔しなきゃならねえんだよ。俺に従わせなきゃならねえんだよ。俺は妹まであいつに差し出した。だけどあいつは上洛してこねえ。だったら今度は母親でも差し出す他ねえだろうが」

「……その妹である朝日様は、既に人の妻でございました。殿下は無理やり離縁させ、家康に嫁がせた」

「仕方なかったんだよ。俺には子どもがいないから、親兄弟しか人質に仕える手駒がないんだよ」

「てめえこの猿! あんまり調子にのってんじゃねえぞ!」

 正勝の怒号が、部屋を震わせた。

 秀吉を含む、その場にいた全ての者が、その突然の怒声に、震えあがった。

「てめえの妹とおっかさんを手駒だあ!? てめえ、関白様だ天下人さまだと周りから持ち上げられているうちに、人の心を忘れちまって、本当の猿になっちまったのかあ!? ああん!?」

 正勝は立ち上がり、腰を抜かした秀吉にずかずかと歩み寄り、その顔を引っぱたいた。

「蜂須賀殿お!」

 石田三成が、立ち上がった。顔が青ざめている。

「いくら貴方とはいえ、今の殿への振舞いは無礼!」

「黙れ小僧!」

 正勝は、三成を睨みつけ、怒鳴り返した。

「俺はてめえと違ってなあ、こいつが信長様の下で足軽やってた頃から知ってんだよ! 猿だか人だかわかんねえような汚ねえなりしてた時から知ってんだよ! けどなあ、あの頃のこいつは家族を大事にする優しい男だったぜ。ちょっと前まで殺し合いをしていたような相手に、妹さんやおっかさんを人質として差し出すような、冷たい心を持っている奴じゃなかったぜ! 俺がこいつを一発しめて、あの頃にもどしてやらあ!」

 蜂須賀正勝は、秀吉の頭上で、拳を振り上げた。

「やめてくれきゃーも! 蜂須賀殿!」

 その時、女の声が、室内を、走った。

 襖を開き、入ってきた老女が、発した声だった。老女でありながら、大きく、力強く、それでいながら、蜂須賀正勝の怒号とも違った、人の耳に不思議な響きを与える声だった。

 その姿を見て、立ち上がっていた石田三成は再び座り、彼女に対して頭を下げた。他の家臣たちも、彼と同じように、頭を下げた。

 蜂須賀正勝は、立ったまま、茫然として、彼女を見つめ、つぶやいた。

「なか様……。大政所さま……」

 秀吉も、呟いた。

「おっかあ……」

 秀吉の生母にして、今は大政所と呼ばれ、この大阪城に住む女性、なか。

 まさに今、秀吉とその家臣たちが開く会議の議題となっている人物が、部屋に、入ってきたというわけだ。

 本来、女性がこのような場に乱入するなど、あってはならないはずのことである。しかし、この場にいるものの誰一人として、彼女を排除しようなどと、考えることすらできなかった。

「蜂須賀殿の、おれを心配してくれる気持は、涙が出るほど嬉しいけどよう……」

 ゆっくりとした足取りで、なかは、正勝と秀吉に歩み寄っていった。

「徳川様の所におれをいかせてほしいってその子に頼んだのは、おれなんだきゃあも。あさひを慰めるためにいかせてほしいって、おれが頼んだんだぎゃあ。あさひは昔から泣き虫のさみしがりやでよう。婿殿と別れてたった一人で徳川様のところへ嫁へやられて、きっと今頃心細くてさみしくて、毎日泣いてるんだと思うんよ。あの子のところにこのおっかあがいって、笑わせてやりたいんよ。だからよう、おれにいかせてくれきゃーも。この老い先短い婆には、もう子どものためにしてあげられることなんて、これくらいしかないんだぎゃあ。だからよう、秀吉のことを、どうか責めないでくれちょーよ」

 なかは、跪いて、深々と頭を下げた。

 蜂須賀正勝の、怒りに赤くなっていた顔が、緩んでいった。

 なかの傍らに、腰を下ろし、「お顔をお上げください、大政所様……」と、丁寧に、声をかけた。

「大政所様の、お心も知らずに、無礼を働いたこと、誠に申し訳ございませんでした……」

 ああ、同じだ。秀吉は、思った。あの時と同じだ。あの時と同じように、おっかあはおれを助けてくれた。

 秀吉は、母を見つめながら、昔のことを、思い出していた。

 彼が、決して一生忘れることが出来ないであろう、情景を、思い出していた。

 男が一人、倒れていた。

 血に、まみれながら、倒れていた。

 それをみつめて、少年時代の秀吉は、立っていた。その頃はまだ、「日吉(ひよし)」という名前で、他の人間から、呼ばれていたが。

 少年の手には、小刀が、握られていた。

 小刀は、血を滴らせていた。

 日吉は、汗を、体から、滴らせていた。目の前の情景を、自分が激情に駆られてしてしまった行動の結果を、頭が理解することを、拒んでいた。

 おれはいまなにをしたんだ?

 なんでおれのおっとうであるこのおとこはたおれているんだ?

 心中に浮かぶ疑問に、答える者はいない。そして心の奥底では、その問いの答えに日吉は気づいていた。気づいていたけれど、それを理解することを、本能が拒んでいた。

 日吉の母である、なかが、立っていた。小刀を持って立つ息子と、倒れた夫を見つめながら、茫然として、立っていた。彼女の傍らにいる日吉の弟と妹たちも、沈黙を守ったまま、彼らを見つめていた。

「人殺し!」

 沈黙は、家族でない者の声によって、破られた。

 家の入口にいつの間にか姿を見せていた、近所の村人が、その光景を目にして、叫んだのだ。

 彼は、踵を返して、駆け出した。

「日吉が竹阿見を殺したぞ! 六本指の日吉が、親父を殺したぞ!」

 叫び声が、外から聞こえた。

 それを、ぼう、と聞く、日吉の肩を、なかが、つかんだ。

「逃げるみゃあ!」

 彼女は、叫んだ。

「逃げるみゃあ! 日吉!」

 その叫びが、日吉を、ようやく我に返らせた。

 少年は、駆け出した。

 血に濡れた小刀をもって。

 裸足で、大地を踏んで、外へと駆け出した。

 少年は、サルと呼ばれるくらい、敏捷だった。大声を聞いて家から出てくる鈍重な村人たちを後ろに置き去りにして、彼はあっというまに村を抜け出して、わき目も降らず、一心不乱に、走り去っていった。

 橋を渡り、道をかけ、ひたすら走る彼が足を止めたのは、もう日がくれたあとだった。

 息を激しく切らしながら、彼は徐々に走りを緩めてゆき、木の傍らに倒れこんだ。

 周りを見渡せば、人の気配さえない、森の中だった。

 人がいない代わりに、人を食う獣が出てきそうな、暗い森の中。

 しかし、ここがどんなに恐ろしい場所だとしても、またあの村に戻ることなど、彼には出来なかった。

 人を殺した彼を、村人たちは決して許さないだろうから。

 畜生。内心で、少年は毒づいた。

 全て、この手のせいだっていうのか。

 月の光の下で、日吉は、右手を見た。

 親指が二本ある右手を見た。

 指が六本ある化け物には、人並みの幸せなんか、得ることが許されないってことなのか?

 日吉は、誰にでもなく、心中で、問うた。

 化け物。

 昼、日吉が、実の父の形見である小刀で刺し殺した養父は、いつも、彼を化け物と呼んで罵った。

 彼だけではなく、村人の多くが、そうだった。

 もの心つく頃から、彼は自分が他者と違うのだということを思い知らされていた。

 彼が生まれた時、その右手の指が六本あるのを見た周りの連中は、母であるなかに、こんな子は殺してしまえと、言ったそうだ。

 指が六本もあるなんて、気味が悪い。きっと前世で悪行をした報いで、こんな化け物に、生まれてしまったんだ。こんな子を生かしておいたら、きっとあんたの家にだって、ひどい災いが降りかかるに決まっている。そう、彼らは言った。

 だが、なかは、首を振った。

 殺しなんかしねえ。この子はきっと、おれたちみたいなどこにでもいる人間には出来ない、えれえ事をやるために、生まれてきた子なんだ。人と手の形が違っているのは、その証なんだ。おれは絶対、そう信じる。

 そう、彼女は言ったと、聞いたことがある。村人たちがそう話すのを、日吉は盗み聞いたのだ。

 まったくなかは変な女だよ、あんな汚い顔の猿が、そんな出来物になるわけにゃあだろうに。

 そういって、彼らは笑った。

 村人たちは、日吉を気味悪がり、しばしば迫害した。特に、彼と同年代の子どもたちが、彼を「六本指の化け猿」と呼んで、よく絡んできて、蹴ったり殴ったり石を投げたりしてきた。

 とはいえ、そんなことをいうやつらを、日吉は殴り返したし、蹴り返したし、石を投げ返していたが。

 日吉は、喧嘩が強かった。「猿」と彼があだ名されたのは、彼の容姿だけでなく、動きが敏捷だったことも理由の一つだったのだ。

 スピードは、戦いにおいて有利さを生む。日吉は自分を攻撃する連中を走って追いかけ殴り、時には木に登って上から石を投げ、相手が投げ返してきたら素早く降りて逃げたりした。

 戦略は、効果を上げた。日吉が10歳になる頃には、彼に直接ちょっかいを出す悪ガキは村の中には大体いなくなったものだ。

 最も彼らはその代わり、彼の弟や、妹へと標的を映した。どちらも優しく気弱な性格だったので、しばしば一方的に虐めを受けたのだ。

 だが、それも、長くは続かなかった。弟や妹を傷つける連中に対しても、日吉は攻撃を加えたからだ。

 日吉は、弟と妹たちが、好きだった。彼らだけが、日吉を慕ってくれたからかもしれない。

 弟と、妹と、母であるなかといった家族たちだけが、日吉という少年が好意をもって接することが出来る相手だったのだ。

 弟たちの父親であり、なかの現在の夫である竹阿見という男は、しかし別だ。この義父を、日吉は憎悪し、竹阿見もまた、日吉を憎悪した。

 てめえみてえな化け物が俺の息子だなんてな、反吐が出らあ。

 竹阿見はよく、そういった。

 悔しかったが、それでも、日吉は、彼に口答えすることを、我慢していた。 母のいる前で、家庭にいさかいを起こしたくはなかったから、ずっと、我慢していたのだ。今日までは。

 竹阿見はいつものように、日吉を罵った。そしてあろうことか、罵倒の矛先を、なかにも向けたのだ。

 日吉みてえな化け物を生んだおめえにもなあ、反吐が出らあ! 中古のお前を嫁にもらってやった挙句、こんなのまで引き受けやがった俺が本当に哀れだぜ! 指もまともに揃ってねえ出来損ないを生んだおめえも、女の出来損ないだってのによう。

 その言葉を聞いて、日吉は、激怒した。

 自分への侮辱ならば、いくらでも耐えることが出来る。

 しかし、なかへの侮辱には、耐えることが出来なかった。

 気が付いたとき、日吉は、小刀を手に握っていた。それは、戦で死んだ彼の実の父親の形見だったものを、なかが彼に与えてくれたものだった。

 我に返った時、日吉は、その小刀が、竹阿見の皮膚に深く刺さっていることに、気が付いた。

 自分が、義父をこの手で刺したことに、気が付いた。

 生まれて初めて、日吉は、人を殺した。

 あまりにも、あっさりと。

 「は、はは」

 今、月に照らされて木陰に座り込みながら、日吉は小さく笑った。

 なんだ。みんな、人を殺しちゃいけねえって言うから、人の命ってのはどれだけたいそうなもんだと思っていたが、こんなに簡単に奪えちまうものだったとはな。それとも簡単に消えてしまうから、人の命ってのは大事にしなきゃいけないものだったってことかな。

 俺の命も、きっと、もうすぐ簡単にあっさりと、消えてしまうだろう。父親を殺したやつを、お天道様が許すわけがない。元から俺は、きっと神様やら仏様から、嫌われていたんだ。だから、こんな指をもって、生まれさせられたんだろう。父親を殺してみじめに死ぬことは、生まれた時から俺にとって決まっていたことだったのさ。

 おっかあは、馬鹿だ。日吉は、思った。

 俺の指は、「えれえ事をやる人間である証」なんかじゃなかったのだ。いくら自分の息子が可愛いからって、ありもしない幻なんかみて、馬鹿だ。

 だがそこで、日吉はこんなことに気が付いた。

 そうだ。彼の母親は、彼を愛していたのだ。

 彼が死ぬことを、彼の母親は、どう思うだろうか。

 日吉は、立ち上がって、夜の空を見た。

 美が、そこにあることに、日吉は気が付いた。

 視界の総てを覆いつくす、星空の美しさに、彼は気が付いた。

 例え指が六本ある化け物であっても、月や星の光は、同じように美しい姿を見せるのだということに、彼は、気が付いた。

 世界は、醜い。

 ただ、指の数が自分と違うというだけで、石を投げる人間がいる。

 世界は、美しい。 

 父親を殺した人でなしの目にも、星空は、変わらぬ美しさを見せてくれる。

「生きてやる」

 日吉は呟いた。

 例え、全世界が自分を忌み嫌い、憎んだとしても、俺は生きてやる。この星空が、俺の頭上にある限りは。俺を愛してくれた、母や弟たちが、この世にいる限りは。

 俺は、生きてやる。

 その日、貧しい農村に生まれた、日吉という名の少年は、彼の義父だった竹阿見と共に、死んだ。

 戦乱の続くこの国を生き抜き、やがてはその戦乱を鎮め、この国の歴史に「秀吉」という名によって刻まれる男が、その日、生まれたのだ。

 


 

 

 


 


 

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