愛の理
放課後、僕は、世界愛理さんに告白した。
「好きです。付き合ってください」
二人きりの教室で、僕はそういったのだ。
高校の卒業式の前日だった。
僕にとって、彼女は初恋の人だった。
高校の入学式で、初めて出会った時から、僕は彼女に憧れていた。
奇跡といっていいことに、高校生活の三年間の間、僕と彼女は、ずっと同じクラスだった。
だけど、情けないことに、僕は、彼女に好きだという気持ちを、その日まで、伝えることが出来なかった。
三年間、毎日目にしていたし、言葉を交わすことも何度かあったのに。
勇気が、なかったから。
これじゃいけないと、毎日思い続けていたのに。
今日こそ、今日こそ告白するのだと、毎朝決意とともに目を覚まし、やはり毎晩、明日こそ告白するのだという決意と共に眠りにつく。そんな日常が、三年間、繰り返された。
怖かったのだ。
彼女に、拒絶されることが。
いや、もっとひどいことが、起こることを、恐れていたのだ。
彼女に、嫌悪されることが、怖かったのだ。
気持ちを伝えなければ、あくまでもただのクラスメイトとして、時には僕に笑いかけてもらえる。
今を壊すことにおびえて、どんなことよりも言いたい言葉を伝えることが出来なかった。
遂に、卒業の時がやってきた。卒業すれば、もう、彼女を目にする機会は、なくなる。事ここに及んで、僕は、ようやく勇気を手にすることが出来た。卒業する前に、彼女に告白をする。
……たとえ断られても、構わないと心に決めて。
彼女が僕の告白を受け入れてくれるとは、正直、まるで思っていなかった。
僕はただ、やらなければならないことから逃げたまま、高校を卒業してしまうことだけが嫌だった。このまま永遠に彼女と会えなくなることで、逃げ続ける自分自身への言い訳が生まれてしまうことが嫌だった。
そして、今に至る。
真正面から、返答を待つ僕を、彼女はじ、と見つめる。
沈黙に支配された、永遠にも感じられる時間。
午後の陽光にさらされた教室で、二人きりでいるこの時間に、僕は押しつぶされそうな圧迫と、かつてない幸福を感じていた。
今、かつて一度もありえなかったくらい長く、彼女は、僕を見つめてくれていたからだ。
この時間が、本当に永遠に続いてくれればいい。
僕は、そう思いさえした。
「なんで?」
だが、沈黙の時間は、彼女が口を開くことで、壊れた。
「なんで、て?」
僕は、機械的に、聞き返した。
「なんで君は、私が好きなの?」
「それは・・・・・・」
すごく恥ずかしかったけれど、僕は、言った。
「き、きれいだから! 君が! 僕がこれまでに人生で出会った女の子の中で、一番きれいだよ、君は!」
「ごめん、じゃあ付き合えない」
「・・・・・・・え・・・・・・」
驚いた。
付き合えないといわれたことにではない。そんなことは、予想の範疇だった。まさかその言葉が、質問をしたうえで言われるとは思わなかったからだ。
「理由、いおっか?」
彼女は、その美貌を全く崩さぬまま、言った。無言で、僕は頷いた。
「君がまだ、本当の愛を、知らないからだよ」
「へ?」
またもや、予想外の言葉だった。
彼女が、そんな難しそうな言葉遣いをするなんて、正直、思わなかった。
僕がイメージしている彼女は、正直、あまり頭がよさそうな女性ではなかったからだ。
いつだって、彼女は、教室のどこかで、笑っている。そんなイメージしか、僕にはなかった。世界のあちこちにある悲しみなんてまるで存在しないかのように。
「本当の愛って、何?」
思わず、僕は口にしていた。
「君、80歳のおばあちゃんとセックスできる?」
彼女は、逆に、聞き返してきた。
「は?」
質問の意図が、わからなかった。
「君、おばあちゃんはいる?」
毎日家で目にする、僕の母親の母親に当たる女性の姿を思い浮かべながら、僕は頷いた。
「じゃあその人でいいや。その人と、セックスをしたい?」
僕は、これまた家に頻繁で見る、風呂上がりの祖母の裸身を思い浮かべた。
しわで覆われた肌。
しなびた乳。
曲がった腰。
白髪ばかりの髪。
入れ歯の入った口。
肌から浮き出た骨。
その裸身をベッドに押し倒し、抱きしめ、その体に僕のペニスを挿入する様子を想像した。
僕は、頭を振った。
「なんで?」
「なんでって・・・・・・」
僕は、言葉に詰まった。
なんとも、言いにくかった。
「綺麗じゃないからでしょ。もしかしたら、若い頃は綺麗だったかもしれないけれど、今のおばあちゃんの姿は、あなたの性欲の対象になるような外見じゃないから、君はおばあちゃんとセックスしたいと思わない。違う?」
「まあ、そう・・・・・・かな」
でも、その事実が、僕からの告白を拒絶することと、どう関係があるのだろう?
「でもね、私も、いつかは君のおばあちゃんと同じ年になるんだよ」
「・・・・・・」
想像することが、難しかった。
知ってはいても、信じることが出来ない、とでもう言うべきか。
「その時、私とセックスできる?」
「……その時に、ならないと、わからない」
「少なくとも、今の君のままじゃ、できないよ」
「・・・・・・どうして?」
「君が私を好きなのは、私が綺麗だから。おばあちゃんになって綺麗なじゃくなった私を、あなたは好きではなくなるから。でも、そんなのは愛じゃない。愛とは、呼べない」
「……じゃあ、何?」
「ただの、欲望だよ。もしも今の私と見た目がそっくりなロボットと、おばあちゃんになった私がいれば、君はロボットの方を好きになるでしょ。そんなの、私という人間を愛しているとは言えないよ」
彼女の話は、難しい。
僕は頭がよくないから、頭の中がグルグルして、ようやく一つの言葉を口にすることしかできなかった。
「君は、誰?」
自分でも、なんでそんな言葉が出てきたのかわからなくて、僕は内心で驚いた。
「そう。そういうことだよ」
彼女は、頷いた。
「そういうことって、どういうこと?」
「君は私を好きだって言った。でも、君が好きだといっている「私」って、いったい何なのかな? 君にとって、「私」ていうのはどんな存在? ちゃんと、答えられる?」
黙るしか、なかった。
僕は、頭が悪いから。
「そんなことすら答えられないなら、やっぱり、君は私のことを愛してはいないんだよ」
「・・・・・・」
「私は、私を愛してくれない人の彼女になるつもりは、ないから」
そう言い残して、彼女は僕に背を向けた。
「さようなら」
そう言い残して、彼女は戸を開けて、教室から出て行った。
教室に、ひとりぼっちの、失恋した僕を残して。
その後ろ姿が、僕が見た最後の、世界愛理さんの姿だった。
翌日の卒業式に、彼女は出席しなかったから。
卒業式に出ないで、彼女は、高いビルの屋上に上がって、飛び降りた。
なんでそんなことをしたのか、理由は誰にもわからなかった。
卒業式から少したってから、もう永遠に会えなくなるかもしれないと思っていたクラスメイトたちとまた肩を並べて、もう永遠に誰も見ることが出来なくなった彼女の笑顔を、写真の中に眺めながら、僕は、最後に交わした彼女との会話を、思い出していた。
君は、誰?
「私」って、何?
今なら、答えられる気がした。
花だ。
僕にとって、彼女は花だった。
教室でしか見ることが出来ない、美しい花だった。
でも、本当は、彼女は花ではなかった。
教室以外の場所でも、彼女は生きていて、何かを考えたり、何かに悲しんだり、何かに苦しんでいたはずなのだ。
彼女がただ、周りに笑顔を見せるだけの存在でしかなかったなんてことは、絶対にないのだ。
だけどそれを、僕は知らない。
僕が知っていた彼女は、ただの、花に過ぎなかったから。
・・・・・・・愚かなことに、世界から永遠に彼女が失われてしまってから、僕はその事実に、気がついてしまった。
やっぱり、僕は、馬鹿だったのだ。
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