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TOKYO2020と思い出のスケボー回顧録

初の投稿です。よろしくお願いします。

凄かったですtokyo2020は。終わってから一週間以上経つのにまだ余韻に浸っています。まず予想外だったのが女子パークが想像以上に盛り上がってて面白かった事。熱心に練習してた選手の皆さんとそのご家族ならびに支援者の皆様には感謝しかありません。卑屈な考えかもしれませんがこの日本社会において長いあいだスケボー愛好者たちは蔑まれてきたような社会風潮があり今回の競技新種目という事と選手たちの大活躍はイメージの払拭に貢献されたと感激してるオジサンたち非常に多いのではないでしょうか。

このパークという種目名は私のイメージだとパークはプールで、ストリートがパークな感じがしますがそこはジェネレーションギャップでしょうか。スノーボードのパーク競技はスケボーだとストリートのほうに近いですかね。

私がスケボーに夢中になったのは80年代の第二次ブームの頃で、いまの東京都庁が建設し始めた頃、新宿中央公園で夢中にやってました。その頃の都庁建設予定地にどこかのテレビ局か輸入代理店か知らないがトニーホークを呼んでボトムに平面のない本当にパイプを半分にカットしたようなハーフパイプ(ランページ)を立ててデモンストレーションをやってる古い動画がありますがこれのもう少し先の85年頃からです。

Tony Hawk - 1984 on Japanese TV - Part 1

うしろに京王プラザホテルでしょうか。今回のオリンピックでよく耳にした「ジュードーエア」をトニーホークがデモしています。この頃よくこんなものを・・アメリカから運んだんだろうなぁ。毎週のようにここから目と鼻の先にある新宿中央公園に集まりスケボーをするようになり、顔見知り・仲間ができましたが、たまに外人の子供も混じるようになりカルチャーショックを受けます。日本人はフレンドシップがないねぇ~と言われたことを思い出します。これは頭を殴られたような衝撃でした。どうもお互いに知らん顔して一緒になって遊んでいるのが奇妙に見えたようです。そんなことがあってから私の中では声をかけたりするようなマインドが形成されたように思います。その頃はまだ代々木公園に歩行者天国があって新宿からがんばって渋谷方面へプッシュして行くとバンドや竹の子族なんかがお祭り騒ぎしているのを毎週観れたりしたのですが、そんな中で合板ベニヤ製のジャンプランプを出して高いエアーを決めてかっ飛んでいたのがムラサキやストーミーのライダーたちでした。彼らは体に店のステッカーを貼って滑っていたのをよく覚えています。その頃必ず見かけたあのお兄さんがいまや日本チームの総監督だもんなぁ・・と感無量。そんな時代のスケボーだったので必然的にストリートよりもパークのほうが共感してしまうのです。手すりやなんかに当て込むような練習もしましたが、その頃のトレンドはジャンプランプでボードつかみ、いかに高く いかにかっこよくエアできるかを競っていました。その頃の練習がのちに雪山や海で生かされることになろうとは・・。

実はこのトニーホークが来日してた頃私は千葉の九十九里のほうに住んでいたのですが、とにかくこの頃は雑誌くらいしか情報がない時代で、情報がないのにそういうことに憧れが強かったのだと思います。たまたま中学校の先生で産休代行の若くかっこいい真木蔵人似のサーファー先生になぜか気に入られ蓮沼というところにあるおそらく日本で最初につくられたうちのひとつ(まだ残っているのではないかと思いますが)のスケートパークとそのパークを設計したという鴨川のサーフショップ(記憶が確かなら)タニーサーフさんのオーナーさんに会わせてもらったことがありました。渋くてかっこいいオジサンだった記憶です。そのときバンザイパイプラインと書かれたワッペンみたいなものとワックスを頂き甘い香りが脳裏に焼き付いた思い出があります。蓮沼と鴨川は結構な距離がありますが貴重な休日によく連れて行ってくれたものだなぁと思います。

その後東京にきてからスケートする場所には本当に渇望することになるのですが、今回のアーバンスケートパークをみると本当に綺麗で羨ましく、江東区が残して下さるという記事を読みましたがあんないい施設はどうか取り壊さず若い世代に使わせて頂けることを切に願うばかりです。また若いスケーターさんたちも大事に末永く、そしてなにより事故なく使って頂けるよう願って止みません。(つづく)

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