濃い年始。

2024年明けたね。というか、もう10日目。

私は明けてすぐのふたつの大きな出来事に、心が一瞬固まってしまって内にこもってました。一個前にナンシーが言ってた「息苦しさ」は、こういう時にも発動するね。仕事を辞めたので、実家で正月を迎えたわけだけれど、ずっとついているテレビから 流れる映像に心がついていかず、ダイニングの隅に移動してイヤホンして一人ラジオに切り替えてた。

こういう時さ、何がしんどいかって、起きた出来事はもちろんだけどそれの受け止め方の差異みたいなものに疲れてしまうことが多々ある。ちょうどその日は我らが大好きなチキさんと砂鉄さんがsessionで現状を伝えてくれていたから助かった。情報を誰から摂取するかって大切だね。ひとつの物事をみて、受け止め方は様々あっていいと思っているし、寧ろそうでないといけないよねって思っているけれど、心が疲弊している時は信頼出来る人からニュースを摂取するに限る。


退職してからもうすぐ2週間が経つけれど、あの場所で日々感じていたモヤモヤを思い出すことがほとんどない。笑える。生活圏内にあるけど、行こうとも思わないね。一部のこれからも仲良くしたい人たちの事は気になるし考えているけど、まだ連絡しようという気にならない。たぶん私休みたいんだと思う。もうひとつ仕事をしている私は、昨日が退職後初めての何もない日でした。部屋ひっくり返して、出来てなかった大掃除と模様替えをしたり、要らなくなったものを捨てたりしてた。今日で2日目だけどまだ終わってない。
私、毎年元旦にどんな一年にするかを手帳に書き出すんだけど、今年はその中に「暮らしに人を介入させる」っていうのがあって、そういう部屋にしようかと思ってて。日本に帰ってきたらまたごはん食べに来て。


ごきげんなおじさんが多いって良いね。ことばの響きだけで平和。日本では希少かもしれない(おじさんだけのコミュニティでは彼らはいつもごきげんな感じはするけどね。砂鉄さんと澤田記者がよくいう”ごきげん軍団”がまさしく)。何人か近しい人たちを思い浮かべてみたけど、身内でもごきげんじゃないおじさんとその予備軍て多いかもしれない。家族には友好的だけど、お店の人にはなんか態度が大きくなる人とかね。あとその友好的に接している家族にすら「誰のおかげで暮らせてると思ってるんだ」が見え隠れしている人もいる。要するに全方位にえらそう。男女共にいるけど、やっぱり男性に多いような気がする。これも「男らしさ」の弊害なのかな。年始にカフェでこんな会話が聞こえてきたんだよ。ちなみに30前くらいと思われる女性二人。

「友達が結婚する相手で身長だけは妥協したんだって。」
「3cmしかその子より高くないらしくて。」
「わー私無理かも。ヒール履けないじゃん。彼にエアマックスとか履いてもらうしかないね。」

「アプリで知り合った人と会ったんだけど、顔も良くて身長も180超えててめっちゃいいっておもったんだけど、なんか違うなって思ったらあんまりいい学校でてないみたいで無いなってなった。」

その後も理想のプロポーズの話(何でしてもらう前提?)やら、転勤で地方について来て欲しいと言われて〇〇県はないわーと思って断って別れた話やらが続き、エンタメとして聞いていたけど白目剥きそうだった。なんか彼女たちの周りにいる男の人に同情した。

こういう女性の目がごきげんじゃないおじさん予備軍を増産させているのかもしれないなって思った。フェミニズムを知った私はこの会話にゾッとする訳だけれど、20年くらい前はそういうこと言ってたかもしれない。それにもゾッとするわ。知らないって怖いね。

これからどういう仕事の仕方していくかまだ模索中だし、仕事にはならないかもしれないけれど、こういう事に声を発していくことは続けていきたいな。

新年最初に読み終わった本は60年以上前に書かれたエーリッヒ・フロムの「愛するということ」。マレーシアのごきげんなおじさん達は愛で満ちていそうだよね。自分が愛されていて自分自身を愛していたらごきげんにもなりそうじゃない?

明日は残りの掃除をするのと、映画を観に行こうと思っている。文庫化された砂鉄さんの「わかりやすさの罪」も読みたい。これからフリーランスで暮らしていこうかなと思っているけど、まだしばらくは休みたい。けど、雇われるわけじゃないから動き出しのタイミングなくだらだらほぼ無職を続けてしまいそうな気もする。大丈夫か、私。また書きます。

奇しくもこちらも模様替えのタイミングで玄関先にお花を飾るスペースを作って(ついでに横には盛り塩も置くことにした)、帰る度に嬉しくなってるたかみんより。

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