日光東照宮の陽明門は「日光行くまで、けっこう言うな」といわれるほどに、世に類を見ることのない「結構」な豪華さ。今もその美しさは変わらぬもので、特に至高に満ちた飾り細工は、見る人の心を洗ってくれます。 その陽明門の前、神厩舎(馬を飼うところ)には猿の彫刻を施した8枚の浮彫画があります。猿が馬を守る動物であるという伝承から用いられているのですが、この8枚で猿の一生が描かれており、人間の平和な一生の過ごし方を説いたものとされています。 「見ざる、言わざる、聞かざる」で有名な三猿
昭和41年(1966)、宮崎市で一つのドラマが生まれました。歌手・平尾昌晃と寿司職人・村岡正二のドラマです。ふたりは、平尾が九州に来た時にはいつも村岡の自宅に泊めるほどの間柄でした。 平尾が体調を崩したとき、野菜嫌いの平尾に村岡が「おいしく野菜が食べられるすしを作ってやる」と考えたのが野菜の巻きずし。芯にレタスを使うというアイディアはすぐに浮かんだものの、それと相性のいい具材がなかなか見つかりません。試行錯誤の末、たまたまネタケースにあったエビを目にし、さらにマヨネーズも加
文政7年(1824)の『江戸買物獨案内』に、「本石通十軒店」に「翁屋庄兵衛」が「玉鮓」なる店を開いていると書いてあります。この「本石通十軒店」が、今の日本橋本石町です。「十軒店」とは雛人形の問屋などが10軒ほど集まっていた場所で、さほど広い範囲をさす地名ではありません。それより前の文化2年(1805)頃の絵巻の『熈代勝覧』には「すし屋 庄兵衛」の「玉鮓」が、今の日本橋室町に描かれています。つまり「十軒店」とは正確な意味での「十軒店」ではなく、より広い範囲であったことが知れます
紀北町の沿岸にある島勝神社では、10月の例祭にカマスの姿ずしを作って奉納されます。俗に「カマス祭り」。大漁祈願と海上安全を願うものでもあり、以前は三番叟の舞や山車などもにぎやかに出ましたが、今は人手の都合上、平成25年(2013)を最後に、中断されています。ただ、神様にお供えする膳の方は大事に作られ続けており、膳に乗るダイコン、ソマカツオの塩漬けの切り身、クロムツ、 山イチゴの葉に載せた甘酒などの準備に、カマスのすしも用意されます。こちらは男の仕事。 すしの作り方は、新鮮
先輩・美空ひばりとは本当の姉妹のように扱われ、「太陽のひばりに月のお千代」といわれたそうです。声の出し方からいっても、美空ひばりの男っぽい歌い方とは真逆で、島倉はか細い声を使いながらの歌い方。日本の心は美空が歌わなきゃいけないとまいわれました。しかし美空が亡くなり、島倉も逝ってしまうと、人の心を裏から照らすのは月の光。島倉の歌の偉大さを初めて知った人も多かったのです。聞く人にはしみじみと聴かせる、そんな歌い手でした。 生まれは東京、品川。6歳のときのけがでは47針も縫い、
山深い地方の中心地的存在、人吉市。ここで大正3年(1923)に誕生した駅弁屋「やまぐち」で、昭和33年(1958)に発売となったのがこの駅弁、「鮎ずし」です。「いつ買っても、昔と同じ味がする」と評判の名品です。 同じ味に仕上げるためには、作り方も同じであるべき。今はアユは地元産が使えませんが、そのほかは同じ。鮎ははらわたが取り除かれて仕入れ、店で中骨を取り、1時間ほど塩漬けします。次に酢に漬けるのですが、これが2〜3時間で、要は作り手の腕の見せ所。時間や天候を見て判断する
「昭和の名人」と称された落語家です。飄々とした語り口は、今日のモノマネさんたちには格好のネタですね。ひと口に「落語家」とくくりますが、じつは「落語」は数ある「お噺」のうちのひとつ。したがってこの商売のことは「噺家」というべきでしょう。 この人が生んだ話の傑作の中に「ふたつ面」というのがあります。江戸時代の後期、歌舞伎で人気があった悲劇の役者・小幡小平次(空想上の人物だが、モデルはいたとされる)をもとに、大正14年(1925)に発表された戯曲「生きている小平次」で怪談噺が創作
はい、今年も暑い夏です。とくに盆地は熱がこもり、「底冷え」ならぬ「底暑」の候。京都は例年通り、猛暑です。京都の近郊だったらそれほどでもないだろうと思い、向かったのはJR京都駅前から電車で約40分の亀岡市。保津川下りで有名なところで、涼しいイメージがあるところです。しかし、川沿い地域ならいざ知らず、亀岡の玄関口・亀岡駅前は、やはり暑かった! さて、亀岡の駅前を散策するうちに、見慣れぬすしを見つけました。箱ずしであることは間違いないのですが、具が、これまでに見たことがないよう
少し前に、環境庁長官と水俣病患者との懇談の場で、庁の職員がマイクの音量を下げたとかでずいぶんな騒ぎになったことがありましたねぇ。患者側が「発言は3分以内で」という制限時間を守らなかったとのことですが、それにしても「お役人のご都合主義」を感じざるを得ませんでした。 この人だったらどういう思いをしたでしょう。石牟礼道子。詩人であり、ノンフィクションの作家でもあった人です。文壇への本格的デビュー作は『苦海浄土』。サブタイトルは「わが水俣病」。悪名高き「水俣」の名を冠した水俣病のつら
ハスカップって知っていますか? 小さな青い、酸味の強い実がふたつずつなる、あのかわいらしい植物です。北海道や本州中部山岳などで自生するスイカズラ科の低木ですが、アイヌ語でこの木の果実をハシカプというところからハスカップと名づけられたそうです。今ではジャムやジュースとなり、北海道の特産品として有名ですが、昔は、さほどみんなが食べた記録は乏しいんですけどもね。主食にもなりゃしない。まぁ、毒にならないから食べた、という感じでしょうか。 なんとか、この実を有効利用できないかと、地元
はい、前回の続きです。「おおむらすみこれ」という、九州は肥前国の大名ですが、すしでいうと、大村ずしの始まりに関わる話があります。 文明年間(1469~1486)、大村藩(現・長崎県大村市)主・大村純伊は島原藩・有馬貴純から重なる攻勢を受け、文明6年(1474)、唐津沖の玄海の孤島・加々良島へと逃れましたが、その6年後、旧領地を取り返すことができました。領民はたいそう喜び、領主や将兵を迎え、食事を献上しました。 あまりに突然のことで食器がそろわず、とりあえず「もろぶた(浅い
奈良県吉野のアユずしといえば、だれもが思い浮かべるのは「義経千本桜」に出てくる「釣瓶ずし」でしょう。この芝居が書かれたのは180年ほど前ですが、そのベースにあるのは、タイトルからもわかるように平家物語。900年ほど前の世界です。その頃からある「釣瓶ずし」。アユの発酵ずしのことです。井戸にある釣瓶桶に似た桶の中にアユを漬け込んだものです。本来、アユなどの魚をつける桶ですが、物語では、そこに入れたのは人の生首で…、という話はやめておきましょう。とにかく、歴史ある釣瓶ずしでした。
今週と来週は、歴史学の世界では結論がまだ出ていないことを取り扱いましょう。まずこの人、龍造寺隆信。歴史好きな人はご存じでしょう。 九州は肥前の戦国時代の人。小さい時に出家していましたが、天文15年(1546)、還俗します。以後の活躍はいうまでもなく、やがては肥前全国を統一する武将になったのです。天正8年(1580)、佐賀城を引いて今の須古城に隠居しますが、政治や軍事の実権は握り続けました。 さて、須古といえば須古ずし。箱の中からラケット状のへらで取り出す、全国でもめずらし
高知県の、海から距離がある地方では「田舎ずし」といって、山菜や野菜類のすしが作られます。これはこのコーナー・第9号にも載っています。その中でも今日は、とくにタケノコずしを紹介しましょう。春になるとニョキニョキ出てくるタケノコ。これを具にしたタケノコのちらしずしは全国どこにでもあるでしょうが、これを「鋳込み」のようにしたり姿ずしの具にしたりするのは、あまり例がないのではないでしょうか? 写真の、丸いのが印象的なのがありますね。こちらが「鋳込み」型で、タケノコは短く切らないので
最初にいっておきますが、ここで記すすしの話と政井みねは、直接、関係はありません。でも、ここで記したような、多分、うれしくもあり、実は悲しい「すし」の話の象徴が、政井みねであるのです。 「政井みね」って、いったい誰でしょうか? ノンフィクション作家・山本茂実が著した「あゝ野麦峠」に出てくる、最後の画面で「あぁ、飛騨が見える」とつぶやきつつ最期を迎えた、あの若い娘です。 明治の日本は富国強兵策の一環で、品質のよい生糸を売って、外貨を稼ぐ必要がありました。よい糸を取るには若い女
カスベ。東北や北海道地方以外の人には、魚の名だとわからないでしょう。カスベとは、前回このコーナーで出しました、韓国の「ホンオ」、つまりガンギエイのことです。ただ「ガンギエイ」といってもいろいろあって、正確にいうと、ガンギエイ目の総称を指します。名前の由来は、一説にはアイヌ語がもとになったともいわれますが、一般には「カスにしかならない」から「カス」「カスッペ」と呼んだから、と伝えられています。やはり、長く放っておくと、アンモニア臭が漂うのが原因でしょう。 もちろんカスベは、新