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たそがれ商店街ブルース 第3話 神社へ

 雨宮ドラッグの少し手前には八百屋さんが2軒ある。
 私が住むアパートから向かっていくと、まず右手に原青果店があり、その奥の斜向かいには青木果物店があった。
 この2つの八百屋さんは商売敵というよりも、むしろ仲良しで「トマトだったら原さんとこの方がジューシーよ」とか、「リンゴなら青木さんとこの方が蜜が詰まってるわよ」と、お互いに相手の店を勧め合いながらうまく共存していた。

 原青果店のトミさんは6年ほど前にご主人を亡くされたため、今は70を過ぎて尚、1人で切り盛りをしているのだが、持ち前の明るい性格と元女優というメンタルの強さもあってか、傍から見る分にはそれ以前となんら変わらないと、皆が口を揃えて言う。
 しかし、その反面、そんなふうに明るく振る舞っているトミさんの姿を見ると、逆に辛くなる時があるという意見を聞くこともあった。

 原青果店の前では、トミさんが箒を使って落ち葉を集めていた。この冬一番の寒波が来ていることもあってか、いつもよりも腰が屈んで小さくなっているように見えた。
「トミさん、こんにちは」
 私が背後から声をかけると、トミさんは箒を持つ手を止めてこちらを振り返り、私を見上げた。
 私がストーカーみたいな格好をしているせいで、おそらく誰だかわかっていないのだろう。トミさんはまるで宇宙から降ってきた謎の物体「モノリス」を前にした類人猿のように、私の頭からつま先までを一通り眺めたあげく、それでもまだポカンとしていた。そこで、私はニット帽をおでこの上までずり上げて、マスクを顎までずり下げた。
「山野辺です」
 すると、トミさんは安心したような表情を見せた。
「なんだ、山ちゃんだったかい。急に変質者みたいな人が現れたもんだから、あたしにもこの歳になって遂にストーカーがついたのかとびっくりしたわよ」
 そう言ってトミさんは「ひー、ひひー」と声を出して笑いだした。
 ああ、この笑い声だ。トミさんのこの笑い声を聞くと私は思わず笑顔になる。過去にどんな悲しい出来事があったとしても、笑っていればなんとかなると、そんな気分にさせてくれるような笑い声なのだ。
 商店街の人たちの中には、無理に明るく振る舞っているんじゃないかと訝っている人もいるけれど、私はそうは思わない。もしそうだとしたら、もっと顔が引きつって、引きつりジワで顔がしわくちゃになってしまっているはずだからだ。しかし、トミさんの顔はピンとハリがあり、とてもじゃないが70を過ぎているようには見えなかった。それに、天国のご主人だってこの笑い声を聞きながら「トミさんたら、また笑ってらあ」なんて言っているに違いない。

 私はトミさんに風邪をひいてしまったことを伝えると、トミさんは「あら、最近風邪が流行ってるっていうからね。それに山ちゃん、あんた独り身でしょ、大変よねえ」と言って私の左腕にそっと手を当てた。
 さっき酒屋の神田さんも言っていたように、私は現在独り身の人間だ。しかし、生まれてから今の今までそうだったわけではない。

 この町に越してくる前は、私にも妻と3才になったばかりの息子がいた。当時の私も今と変わらず、しがない会社員ではあったが、それでも家族3人で幸せに暮らしていると思っていた。しかし、どうやらそう感じていたのは私1人だけだったようで、ある日仕事から帰ると「ありがとう。さようなら。探さないでください」と書かれた置き手紙を残して、妻と息子はいなくなっていた。おそらく相当切羽詰まっていたのだろう、その置き手紙に書かれた文字は、達筆なのか下手くそなのかもよくわからない程に崩れていた。
 その3日後に、妻のサインが入った離婚届が送られてきた。離婚届に書かれていた妻の文字は置き手紙の文字とはまったく違い、とても丁寧で筆圧が強く、キッパリとした意思が感じられた。
 それからというもの、私は何かの間違いであって欲しいと願いながら、1人の日々を過ごした。それはそうだろう。こんな急な展開を簡単に受け入れられるほど私は強い人間ではないのだ。
 しばらくの間はひょっこり帰ってくるんじゃないかなんて思ってもいたが、2ヶ月、3ヵ月、と経つうちに、これはそういう類のものではないのだということを悟り、私は離婚届にサインをして役所に提出した。そして、すべてを一からやり直すために、当時勤めていた会社を辞め、家族3人で暮らしていた家と街から離れ、単身この街へとやってきたのだ。
 商店街の人たちにこの話をしたことはない。きっと、まだ私の中でも誰かに話せるほど、すべてを受け入れられてはいないのだろう。

「なんだったら、あたしがお嫁にいってあげようか」
 トミさんは私の腕に手を当てたまま、まるで映画のワンシーンのように、私の目を真っ直ぐに見上げた。
「あんたみたいに若い子だったら、きっと天国のお父ちゃんも許してくれると思うの」
 私は元女優であるトミさんの迫真の演技に対し、いったいどんな返しをしたらよいのかわからずに、ただヘラヘラと愛想笑いをするばかりだった。
 すると、このやりとりを見ていた斜向かいの青木果物店の奥さんが、こちらも負けじと言わんばかりに「ああ、私も早くあなたから解放されたいわん」とベテラン舞台女優よろしく、大きな声でご主人に吐き捨てている声が聞こえてきた。
 すると、トミさんはまた「ひー、ひひー」と声をあげて笑い出し、私の腕から箒へと持ち替えて再び落ち葉を集め始めた。
 私はトミさんに「雨宮ドラッグに行った後でまて寄らせてもらいます」と伝え、原青果店をあとにした。

 私は家を出た時よりも確実に元気になっていた。やはり、人間というものは、人と人との繋がりの中で生きる活力を得る生き物なのだということを、この時ばかりは思わずにいられなかった。

 原青果店を越えたあたりからは、徐々に踏切の向こう側の様子が見えるようになってくる。とても日曜日の昼間とは思えないほど閑散としたこちら側とは打って変わって、踏切の向こう側は人が多く出ているようだった。
 向こう側の商店街を行き交う人たちの頭上には、大手ハンバーガーチェーンやコーヒーショップ、コンビニエンスストアが、赤や黄色や緑の看板を掲げていて、まるでブラウン管テレビの画面に顔を近づけた時のように、色とりどりの景色が広がっていた。
 それに比べ、私の背後に広がるこちら側の商店街はというと、道路のコンクリートの灰色と、そこに引かれた白線だけがやたらと目立ち、まるでモノクロのインベーダーゲームのような色合いをしていた。
 踏切を一本挟んだだけなのに、どうしてこうも雰囲気が違うのだろうか。前から疑問に思っていたことではあったが、改めてこの違いを目の当たりにすると、まるであの踏切が天国と地獄の境目であるかのように思えてきた。
 どちらが天国で、どちらが地獄だと感じるかは人それぞれ違うのだろうが、今の私には、どうしてもこちら側が天国であるような気がしてならなかった。

 雨宮ドラッグの入り口、つまり、踏切の目の前まで来ると、あちら側の商店街にいる人たちの表情までもがよく見えた。
 ハンバーガー屋さんの手提げ袋をぶら下げて、幼い子供と手を繋ぎながら歩く父親らしき男性の幸せそうな表情。温もりを共有するように、寄り添いながら歩く若い男女のうっとりとした表情。寒さなんて関係ねえと、短パン姿で自転車に跨る少年たちの逞しい表情。
 これらは一見どこの街にでもある、ありふれた光景のはずなのに、踏切のこちらから眺めていると、それは何処か遠くの国の出来事のように思えた。


 雨宮ドラッグはとても小さな薬屋さんで、店の前にはオレンジ色をした象のお置物がある。オーナー兼薬剤師のミヤ姉さんは、店の目の前に踏切があるからというわけでもないのだが、まるで天国と地獄の門番でもしているかのようにいつも険しい表情をして、踏切を挟んで斜向かいにある大型ドラッグストア「ビッグドラッグ」に出入りする人々を睨みつけていた。
 この日も外から店内を覗いてみると、切長の目をさらに強調するように、黒縁の鋭い形をした眼鏡をかけたミヤ姉さんが、カウンターの中で眉間に皺を寄せたままボールペンをカチカチカチカチと出したりしまったりしている姿が見えた。
 私は直感的に、今お店に入っていくのはタイミングが悪いと思い、いったん雨宮ドラッグの前を通り過ぎると、線路沿いを少し行ったところにある五目森ごもくもり神社で、風邪が完全に治るようにお参りをすることにした。    

 五目森神社は線路沿いの住宅地にひっそりと佇む、お世辞にも立派とは言えない小さな神社だ。しかし、境内の入口には小さいながらに年季の入った鳥居があり、どことなく人懐っこそうな顔をした狛犬までいるので、私はこれはこれで趣深い神社だと思っていた。
 それに、本殿の右奥には御神木だと思われる大きなクヌギの木があり、その下には、今はもう使われなくなった古い井戸まであった。そして、野良猫とカラスがたくさんいた。

 私は鳥居の前で一礼してから境内へ入ると、参道の右端を通り手水舎へと向かった。そして、手と口を清めた後に、コートのポケットからハンカチを取り出して水滴を拭うと、ズボンのお尻のポケットに入っている長財布から、お賽銭用に10円玉を取り出した。
 ちょっとケチくさいかなとも思ったが、10円玉の他には500円玉しか入っていなかったので、今日のところは神様もこれで勘弁してくれるだろうと思ったのだ。
 すると、本殿の裏の方から突然、バサッと重いものが倒れた時のような大きな音が聞こえてきた。
 あまりにも急に大きな音がしたので、私は思わず体をビクッと大きく震わせた。
 今のはいったいなんの音だろう。野良猫が通り過ぎただけならこんな大きな音はしないだろうし、万が一カラスが木にぶつかって落っこちてきたとしても、こんな音はしないだろう。ひょっとして、神様が私のケチくさい心を見透かして怒っているのだろうか。
 まさかね。
 私は音の正体をろくに確かめることもなく、気を取り直し、10円玉を握りしめたまま賽銭箱の方へ向かおうとした。
 すると、こんどは神社の脇を通る線路の上を、特急列車がけたたましい音とともに猛スピードで通り抜けていった。そして、それに合わせて無機質で冷たい風が勢いよく吹き抜けると、枝に残っていたクヌギの枯葉が、1枚、2枚と井戸の中へ落ちていった。

 特急列車、音、風、クヌギ、落ち葉、井戸。

 私は今朝部屋で感じたような違和感を感じていた。

 特急列車、音、風、クヌギ、落ち葉、井戸。

 それは、そこにあるはずのものがないような、そんな違和感だった。

「あっ」
 私は思わず声を出していた。
 いつもなら閉まっているはずの井戸の蓋が開いていたのだ。もしかしたらさっきの音は、なんらかの拍子で井戸の蓋が落っこちてしまった音だったのかもしれない。
 しかし、いったいどうやって……。
 私は井戸の蓋というものを実際に手で持ったことはないのだが、それは相当重たいだろうということは予想がついた。
 だって井戸の蓋だ、強い風が吹いたくらいで開いてしまうようだったら、ダメだろう。
 ということは、まさか幽霊が……。
 一瞬そんな考えも浮かんだが、今は日曜日の昼間だ。あまりにもバカバカしいので、その考えはすぐに捨てた。

 私は蓋の開いた井戸をしばらく眺めたまま、このまま放置するべきなのか、蓋を閉めるべきなのか逡巡していた。しかし、ここはやはり私が閉めるべきなのだろう。万が一、取り返しのつかないような事故が起きてしまってからでは遅いのだ。私はそういう結論に達し、握りしめていた10円玉をいったん財布に戻すと、再びレザーの手袋をはめ、井戸の方へと足を一歩踏み出した。
 すると、私の足で潰された落ち葉がクシャリと、やけに大きな音を立てた。その瞬間、本殿の屋根に止まっていたと思われるカラスが鋭い声で鳴きながら、異様に大きな黒光りする羽根を広げ、私の頭上すれすれを飛んでいった。
 私は再び体をビクッと震わせた。
 まったく、私はなんでこれだけのことで、いちいちビクついてしまうのだろうか。大の大人が情けないではないか。
 私はすぐに体をビクつかせてしまう自分にやれやれと思っていると、今度は1匹の巨大な黒猫が目の前を猛スピードで駆け抜けていって、もう一度体を大きく震わせる羽目になった。

「たく、どいつもこいつもバカにしやがって」

 さっきまでの太陽はいつの間にか灰色をした雲の中に隠れてしまっていて、あたりは薄暗くなっていた。時折吹き抜ける北風は冷たく、乾いた音を立てて足もとの落ち葉を揺らした。
 私はなんだか薄気味悪い気がしてきたので、このまますべてを放棄して引き返そうかとも思ったが、それはなんだか負けたような気がしてならないので、私は意を決し、恐る恐る井戸の方へ向かって歩き出した。


第4話へ続く

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