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愉快な靄の街


愉快な靄の街

 気がつくと私はその街に立っていた。
 随分と靄がかかって見えるその景色が自分の頭のせいなのか、実際にこの街全体が靄に包まれているのか、どういうことかうまく判別できなかった。
 どこからか音楽が聞こえる。陽気な、南国調の曲が流れている。すぐ後ろから聞こえている気もするし、随分と遠くから聞こえてくる気もする。何故か全く距離感が掴めず、それは私の中にまた新たな靄を生じさせる。
 街からはその音楽の他に、行き交う人々の声が聞こえた。しかし、そこには、私の視界の先には誰もいなかった。囁くような話し声や笑い声だけが街のそこかしこから聞こえてきたが、やはりそれもどこから聞こえてくるのか、耳をすませばすますほどわからなかった。わからないことしかなかったが、気味の悪さや居心地の悪さのような感覚は覚えなかった。寧ろ長閑で平和な空気が私を包んでいることを私は不思議に思ったくらいだったが、すぐに何が不思議なことなのかもわからなくなった。
——完璧な日曜日
 何となく、そのような言葉が頭に浮かんだ。浮かんだがそれもすぐ忘れた。どうだってよかった。
 遠くの方で、低くくぐもった爆発音のような音が聞こえた気がした。やはりどこから聞こえてきたのかはわからなかった。頭の中で鳴っているのかもしれない。私にはわからなかった。
 少し街を歩いてみると、針葉樹の並木道を見つけた。真っ直ぐ、ただ真っ直ぐ、視界の果てまでその並木道は続いていた。真っ直ぐ過ぎて見ているだけで疲れてしまいそうで、私は、街路樹の誘う動線上から身を抜いた。道のへりに見つけた、朽ち損じ続けている、といった面持ちの黄色のペンキで塗られた木製のベンチに腰をかけた。街の音楽は鳴り続けている。私はシャツの胸ポケットから煙草を取り出す。くしゃくしゃになった梱包紙の中に煙草は二本残されていた。一本を口に差しこみ、青紫色の百円ライターで火をつける。肺を膨らませる。絵に描いたように真っ青な空へ煙を吐き出す。私は私を見ていた。私は、私が遠くなっていくのを見つめていた。ベンチに身を任せている私を見つめていた。意識があるのか無いのか判別の難しい表情を浮かべ空を見上げている私。離れていく。遠くなっていく。私が空に吐き出したもの。それはどうやら私だったようだった。あと一本残された煙草は誰が吸うのだろうか、ということを気にしながら私は青に溶け込んでいく。溶けながら浮上し続ける私は、陽気で愉快な音楽の響く街をくまなく見渡せる所まで来る。しかしやはりここが何処なのか、私には皆目わからないのだった。何もわからなかった。
 遠くでまた低くくぐもった爆発音が聞こえた。聞こえた気がした。私の気のせいなのかもしれなかった。すべてが曖昧で、靄の中にあるようだった。私は、もう一本残された煙草だけが気がかりだった。

#完璧な日曜日 #小説

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