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四季を旅するからだ

あきやあさみさん提唱の「自問自答ファッション」に出会ってから、季節の変わり目に断服式(衣替え)をしたり、3年日記でその日の天気や気温、着ていた服やその感想を記すようになった。
最高気温は34℃。晴れのち曇り。今日も今日とて暑い。ワンピースで一日を過ごす。

一年で一番暑い日はいつなんだろう?とふと気になって調べてみた。
グーグル先生によれば、立秋(8月8日)頃らしい。秋が立つ、ということは、夏の盛りは頂点まで達していて、あとはそこから秋へと転がり落ちるだけ。なんとなく8月いっぱいは暑いんだろうなとざっくりとした感覚でいたけれど、確かにお盆が過ぎれば涼しい風が入り込むようになり、月末にはファッションにも秋の気配をひそませたいなと思うこともある。
ただ、今の気象だと9月も暑いということも普通にありそうだけれど。

そんなふうに季節を考えるようになったのも、3年日記をつけ始めてからだった。
今日も暑いね、とは思うけれど、長いスパンで、昨日今日明日と地続きで、気温を眺めたことはなかった。
最近読んだ整体の本に、「季節に応じて身体の状態も、骨盤が緩んだり縮んだりして変化している」と書いてあって、そうかちゃんと自分の身体は適応しているのかと思った。
自分の持ち物、容れ物のはずなのに、オートメーションで動く身体についていけていない。何も指示しなくても胃の中のものは消化してくれるし、血は巡らせてくれる。
そんな自動化の中で季節の変化さえも支えてくれていた。

わたしたちは、まるで四季を旅する旅人のようだ、と最近思い始めている。

コンセプトを「つつむひと」に決めてから、プレゼントという英単語に「ここに在る」という意味が含まれていることを知った。それから日常の中でも、そのフレーズに引っかかるようになった。

何か特別なことをしなくてもいい。
ただわたしはここにいて、深く呼吸をしている。
そんな存在になりたい。

けれども、思考は前ばかり向いて、未来のことだけを見てしまう。
在ることは難しい。特に今の時代はすき間を埋められるようなコンテンツばかりであふれているし。
けれどもわたしたちは今ここに在って、物理的に場所を移動せずとも、舞台背景だけが移り変わり、変化していく四季の中にいる。
と思うとちょっと楽しくないですか?
現実的なことをいうと、立っている地面そのものが自転公転していて朝晩や四季が移り変わっているわけですが。
人生は旅だ、と誰かが言っていた。観光地や海外に行かなくても、四季というルールの中では、いつでもわたしたちは旅人だ。

四季を旅するというと、アンデルセンの「雪の女王」を思い浮かぶ。
正確にいうとそれを元にした映画というか。
観た当時はふんわりとしたあらすじを知らず、ただ世界の鮮やかさに目を奪われた。
幼馴染のカイをさらわれたゲルダは、雪の女王に会いに旅に出る。その途中で花が咲き乱れる魔女の家へと辿りつく。その家はまるで春を具現化したような場所に、幼いわたしは思えた。
それから続く王子と王女、山賊の出会いも夏や秋を連想させる舞台になっていて、最後の最後に冬の雪の城へ行く。
山賊の女の子がね、可愛かったんですよ。もうどの映画を観たのか覚えてないんですけど。

そんな感じで、春には春の装いや暮らし方をしたいし、夏には夏の、秋には秋の…といった暮らし方をしたいのだと気づいた。
それは旅装を整えるのと同じなのかもしれない。
春の国に行くための、春にあったパッキングをする。寒い日もあるだろうから上着も欲しいだろうな。でも日中は過ごしやすいから外でご飯を食べたいな、敷布も用意しようかな、みたいに。

そしてそれは断服式と似たようなものだった。
今の季節が終わるから荷物の整理をします。次の季節のために、あれを用意しておこうかなと考える。
先を見て計画を立てるのは、次の季節を楽しむのに最適だった。
実際、春の内に日傘を用意していたので、急に日差しが強くなっても慌てずに余裕をもって過ごせた夏でした。
自問自答ファッションに出会う前は、暑いときに秋のことは考えられない、ファッション業界は時間の進み方が早すぎると感じていたが、そうではなかった。次の季節を楽しむために用意しておくことは悪ではなかった。
昔からロードムービー系が好きだったのだけれど、そういうのも思考に関係あるのだろうか。
冒険の前は市場での身支度が欠かせない。

…結局何が言いたかったのかというと、ファッションに向き合ったら、四季の感じ方とらえ方がより鮮やかになったなってことです。
そして今の季節を楽しむということは「ここに在る」ということなのだと思う。今の自分の体の様子や感覚をちゃんと自覚できているかな、と問いかけてみる。
わたしはいつもそれらを放り投げて、ぼんやりと鈍いまま浮遊をしているので。

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