今年の24時間テレビ
今年もこの日がやってきた。
24時間テレビ。
夏も残りわずかだと実感する一つだと思う。
我が家では昔から24時間テレビを見ることが夏の恒例行事となっている。
特に今年は父の大好きななにわ男子がパーソナリティーということで、決まった時からとても楽しみにしている様子だった。
父はいつからか、なにわ男子の大西流星くんのファン。
昨日は国技館で推し活をしてきたようで、母から写真が送られてきた。
なにわ男子のパネルの前で楽しそうに笑っている父の姿は、まさに“なにふぁむ”。
長くなりそうなので父の“りゅちぇ”愛はまた別の機会にすることにしよう。
障がいがあるということ
我が家がなぜ毎年24時間テレビを見ているのか、
それは私の兄に知的障がいがあるということが大きな理由だ。
兄は生まれつき知的障がいがあり、トイレやご飯、着替えなどの身の回りのことが一人ではできない。会話も口が不器用でうまく発語できないため、スマホやおもちゃのパソコンを使って言いたいことを単語で伝えている。
そんな兄は自分に障がいがあることの自覚もないくらいに、理解できないことが多い。両親や施設の人の介護なしでは生活できず、好きな時に好きなところに行くこともできない。
幼い頃の私はそれはとても悲しいことだと思っていて、兄の通っていた特別支援学校で軽度の子達を見るたびに羨ましいとさえ思っていた。
ドラマ「初恋、ざらり」
このドラマの主人公は軽度の知的障がい者。
一見健常者に見える彼女は、普通の会社で健常者のふりをして仕事をする。けれどできないことや理解が難しいことがやっぱり出てきてしまう。
そんな自分に落ち込み、恋愛をしても障がい者という自分が付きまとう。
その葛藤がリアルで、まさにざらりとした気持ちになる。
“障がい”を自覚してしまうということは、とても苦しい。
ほんの少しできないことがあるだけ、だけどそのほんの少しがとても大きくて、一生付きまとう。
軽度であればあるほど、私たちには理解できない苦しみがあるのだと思う。
いや、どんな障がいでも同じなのかもしれない。
軽度だろうが、重度だろうが、障がいがあるということは、私たち健常者にはわからない悔しさや苦しさがあるのだろう。
虹色のチョーク
障がいがある人の気持ちは私たちにはわからない。
わからないけれど理解しようとする人たちがいる。
「虹色のチョーク 知的障がい者と歩んだ町工場のキセキ」
24時間テレビ内で放送されたこのドラマには
障がい者と働く人たちの葛藤が描かれている。
働くことでしか得られない幸せがある
この社会で毎日働く私たち健常者に、この言葉の意味を理解できる人はどれほどいるのだろうか。
健常者の私たちの本音は、できれば働きたくない。
でも働かないわけにはいかないから、できれば好きなことを、できれば楽なことを、条件や福利厚生などを重視して職を選ぶことが多いと思う。
私もそうやって生きてきた。
でもそれは当たり前に働くことができるから。
選べる側にいるから。
知的障がいを持った人たちの中には、そうやって働いて社会と繋がることそのものに憧れを抱いている人も多い。
このドラマではそれがとてもリアルに描かれている。
私の知り合いの知的障がい者にも、給料をもらうということに強くこだわっている人がいる。仕事の都合で毎月同じ給料ということはなく、月によって多少増減するものなのだが、少ない月にはひどく落ち込んでしまうらしい。
このドラマの中でも、自分と同じ作業をしている人に仕事を取られるのではないかと不安になり癇癪を起こしてしまったり、リーダーではなくなりひどく落ち込んでしまったり。
私たちからしたら些細なことでも“変わる”ということに大きく影響されている障がい者が描かれていた。
本当に一つ一つがリアルですごい。
同じことを繰り返し言っていたり、ルーティンにこだわっていたり、そういうことは日常茶飯事だ。
水族館で同じところにずっといたシーンも、
イルカのショーが始まるのに動こうとしないことも、
あるわ〜w と共感の嵐。
ただ一つリアルではないのは、あんなに優しく理解のある健常者はほとんどいないということ。そこだけは現実とは大きく違う部分だ。
でもいつかドラマのような世の中になってほしい。
働いてお金をもらう。当たり前のことが嬉しくて生きがい。
そんな障がい者と健常者がお互いを尊敬し合い仕事ができる、生活ができる、そういう世の中に。
自分という存在を認めてもらうことってみんな嬉しいものだから。
「障がい者なめないでください」
障がい者と暮らしてきた私には、ドラマの中で出てくるこのセリフにはひしひしと感じることがあった。
黙々と淡々と一つの作業を繰り返す仕事を私たち健常者は、“誰でもできる仕事”と呼ぶことが多いと思う。
私は学生の頃、恵方巻きを作る工場で仕事をしたことがある。
期間は三日間で節分に向けてヘルプとして募集されているものだった。
1日8時間、ひたすら具材を乗せるだけ。
その工場では1時間に1回チャイムがなるのだけれど、もうその1時間が長い。
とてつもなく長い。
5分おきに時計を見てはため息をついていたくらい長い。
それを毎日、毎月、毎年と続けている人たちの凄さを知るきっかけとなった。
ドラマの中でも単純作業を行う障がい者が描かれていたけれど、みんな自主的に頑張ろうと動いていたのは、やっぱり“働く”ということの憧れが強いからなのではないだろうか。
そんな彼らを尊敬し、尊重していたからこその結果がそこにはあったと思う。
24時間テレビは偽善なのか
これほど賛否両論ある番組はあるのだろうか。
御涙頂戴、障がいや病気を見せ物にしている、いろんな意見を目にするたびに私は思うことがある。
この番組を通して、夢を叶えた人がいる。
成長した人がいる。
生きる希望を見つけることができた人がいる。
そして、そんな人たちを見て元気をもらった人がいる。
それだけではダメなのだろうか。
お金がどうとか、演出だとか、そういった難しいことはよくわからない。
でも、もっと単純に考えてもいいのではないだろうか。
この番組に夢が叶えられるチャンスがあるのならば、生きることを伝えられる機会があるのならば、私はあるべき時間だと思う。
これからも続けていくべき番組だと思う。
希望とか夢とか、安っぽく聞こえる?
でも簡単で単純な言葉だからこそ、より多くの人に伝えられるのではないだろうか。
今年もたくさん元気をもらい、そして私はなぜ毎日こんなにダラダラと過ごしているのだろうかと反省し、自分を鼓舞するきっかけにもなった。
明日のために、今日つながろう
今年の24時間テレビのテーマ。
明日のために今日やっていること、
私がやっていること。何も思いつかなかった。
些細なことでもいいから何かないかと考えたけれど、何も思いつかない。思いつかない毎日を過ごしていることが恥ずかしかった。
とりあえず今日を乗り切ろう、今日を頑張ろう、
いつからかそんなふうに時間を過ごすようになっていたのかもしれない。
“人間どうせいつか死ぬ”なんて言い訳して、何かすることから逃げていたのかもしれない。
未来につながることは難しい。
でも明日につながる何かならできるかもしれない。
明日のために、今日つなげられること。
とりあえずこの記事を書き終えたらストレッチでもしよう。
明日の私が少しでも健康でいられるように。
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