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私の概略

現在地点

今のいる場所
40歳を過ぎて転職。
そこから10年以上在籍しています。
まぁ、隠すことではないですが1967年生まれです。
職種は・・・人生で初めてする「広報」なんていう業務。
何故、そこに至ったか、ゆっくりと振り返っていきます。
どうぞ、お付き合いください。

本noteの主役? どらがん

「こう見えても東京生まれ」

話す言葉が関西寄りなので良く間違われますが、生まれは東京です。
掴みでよく話します。
でも小学校に上がる前に岐阜へ移住・・・父親の転勤でした。
長良川と金華山が美しい辺りです。
小中とずっと近所の学校でした。
父親は転勤と言っても、当時所属していた会社が吸収合併されて大会社へ移籍・・・夜間高校しか出ていないため会社で相当苦労したそうです。
年下の大学出の上司にいじめられたと・・・今ならパワハラといわれる部類ですね。
そんな父親の口癖は「国立大学へ行け。私学は許さん。嫌なら工業高校に行け。」でした。
確かに苦労して育ててもらってはいましたが、中学生の自分がそんな言葉を素直に聞くわけはなく・・・
でも何故か、ちょっとだけ成績が良かったおかげ(そこだけ自慢?)で運よく5年制の国立学校に潜り込むことができました。
そして、今でも思います。
あの時、しっかりと勉強しておけば・・・( ;∀;)

医療に関わる仕事をしたい

大した夢もなく進んだ学校で、落第ギリギリの進級を繰り返していました。(本当に危なかった・・・)
機械学科なのに情報処理が好きという変な学生でした。
そんなある日、6歳下の妹が腰を痛め、入院をしました。
病状を説明される際、見た写真に驚きました。
「身体が輪切りにされてる・・・」
それが初めて見たMRIの画像でした。
その頃はまだMRIはとても高価で大きな病院でなければ導入されていませんでした。
それから医療機器に関して調べ、CTスキャナも知りました。
私自身は小学校4年生の時に左手小指を複雑骨折し、1年以上ギプスをつけてようやく切断事態を免れたことがあります。(今でも満足に動きませんが)
その際に「レントゲン」というものは認識していましたが、輪切り画像には驚き、夢中になりました。
人の病気を治すための機械に関わってみたいという、初めてともいえる夢を持ちました。
それで放射線診断機器を扱う大手電機企業を志望し、就職できました。

寄らば大樹の陰

今も思います。
転職で苦労したときのことを思えば、我慢してでもあの会社に居れば、困ることはなかったのかな・・・と。
でも、はっきり言えます。
今の仕事が好きです。

もちろん、大手企業では面白いこともありました。
志望していたMRI関連の仕事に関わることはできませんでしたが、フィールドサポートとしてレントゲンやCTスキャンだけでなく、珍しいところでは空港の手荷物検査機などにも関わりました。
特に医療機器にも電子制御の流れが来て、画像処理などでコンピュータの知識が生かせました。
でも、やはり個人的に一番思い出深いのはアナログだったエックス線画像のデジタル化でした。
あれで、今の人生の第一歩が始まったと思っています。
スペシャリストになりたい!と思い、その夢を上司にも訴えました。

その機種に少し詳しくなれた頃、生活も精神的にも安定し、家庭を持ちました。
寄らば大樹の陰・・・生活は安定します。
きっとパートナーも安心したと思います。
でも、会社で必要とされるのはフィールドサービスという名前の営業部隊でした。
理想とはかけ離れていきました。

それから流転していくことになります。


20230407 追記
みなさん、こちらの事件は記憶に新しいことと思います。

「タイマーで故障を偽装し部品を売る」島津製作所子会社による悪質不正行為の全容

起こるべくして起きたか・・・という印象です。
私のいたところではここまで露骨ではないですが、こういうことをしないといけないのかな?と追い込まれるような気分になることが多々ありました。
サービス提供部門をベネフィットセンター化させて行き過ぎた例だと思いますが、実生活でも似たようなことはありますよね・・・ 

こんなことをせざるを得ないようになったサービスマンの方が気の毒で仕方ないです。


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