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巨人の肩からこんにちは

アウトプットすることへの葛藤

noteを書き始めてから、およそ1年ほどが経過した。
いま投稿数を確認したら63件、ほぼ週に1件以上は投稿してきた計算になる。いくつかの登壇も経験させてもらった。そして来年に向けては、またこれまでになかった形でのアウトプットをいくつかしていく予定がある。

アウトプットをする際、ある程度できあがると、いつも二つの悩みが頭をもたげる。

・このアウトプットは誰かの役に立つのだろうか
・既知の事実の寄せ集めにすぎないのではないだろうか

書き始める段階では、自分なりに考えた想定読者がおり、またもちろん自分が見知った知見がベースとなってはいるが自分なりの体験により新たな価値が生まれると信じている。だからこそ書くのだ。

しかし、なぜかアウトプットする過程でこの葛藤はたち現れてくる。

わかりやすさと凡庸さの狭間で

アウトプットをする際には、なるべく平易な表現を使いたいと考えている。
学んだ結果というよりも、学ぶプロセスでの気づきに重みをおいている。
「学び方」については十人十色であるが、このような方法もあるよという提示は人の選択肢を拡げるものだからだ。

このプロセスで気をつけなければならないのは、わかりやすい
を通り越し凡庸にならないかということだ。
「言語化されるとあたりまえに感じられるが、その言語化を聞くまでははっきりと実態を捉えられていなかった」
そういうことが成し遂げられるアウトプットこそが目指すところだ。
「言語化されるとあたりまえに感じられるし、実際当たり前だ」というものに陥らないようには気をつけたいと考えている。
数年前に少し流行った「アフリカでは1分間に60秒が流れています」とかそういうものは、笑いとして面白いがそういった言葉遊びに学びはない。
自分のアウトプットがそうなっていないか不安になるため、葛藤がうまれるのだ。

と、いうことにこの記事を書きながら気づくことができた。

言語化すること自体、学びとして意味がある

いざ言語化してみると、それはもう既知のナレッジだということになるかもしれない。
それでも、アウトプットを目指して言語化する営みは自分の成長という観点では意義深いものだ。

現代に生きる我々は、まっさらな気づきを得る機会はあまりないだろう。基本的になにかしらの巨人の方に乗っている。
巨人が与えてくれた気づきに比べて、自分が内省しもがき得ることのできた上積みのなんと些細なことか。

しかし、それでもよいのだ。積み重ねが大きな変革へとつながるだろうし、
小さな一歩の共有がきっと誰かの役に立つ。

おそらく、アウトプットする際に私のような葛藤を抱える人は多いだろう。アウトプットする前から葛藤に圧倒され、アウトプット自体断念することもあるだろう。

怯まない。迷わない。開き直る。
きっとあなたのアウトプットは、誰かのインプットになる。

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