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「ぼっち」で群れをつくる

はじめ

この記事は ぼっち Advent Calendar 2019 5日目の記事だ。
狂気とも思える、@papanda さんの一人アドベントカレンダーにお邪魔させていただく格好だ。もし12/5より前にこの記事を開いてしまった人はいったん閉じて、12/1-4のぼっちジャーニーを楽しんでほしい。

ぼっち礼讃

私は「ぼっち」でいることが好きである。自分自身にとって、一人の時間は大切なものだ。

私は「ぼっち」でいる人が好きである。「ぼっち」であるということは他者を排斥することではなく、物差しを自分で持ち、行動するということだ。

コラム ファーストペンギン

「ファーストペンギン」という言葉がある。勇気あるペンギンが海に飛び込むと、群れが後を追うように飛び込んでくるという逸話だ。
このファーストペンギンは、ようするに「ぼっち」だ。今いる環境からの脱出、今いる環境の変革、その環境の目線からは気づかないことに気づき行動をすることができるのは「ぼっち」だ。

ぼっち気質

「ぼっち気質」のようなものを持った人がいる。自分のものさしを持ち、周囲に流されず意思決定できる人々だ。(他人のいうことに聞く耳を持たない「がんこちゃん」と「ぼっち」は同一ではない。少なくとも本稿においては区別する)

ぼっち気質の特徴をもう少し掘り下げてみよう。

・一人でいることが苦にならない
・自分のものさしで意思決定することを恐れない
・周囲の空気を読んで溶け込む、というのは少し苦手

「がんこちゃん」との大きな違いは、空気を「読まない」のではなく「読めない」という点だ。(偉そうにいうことではないが)

私の周囲には、ぼっち気質の人たちが多くいる。ぼっち気質同士で何やら議論しているので耳を傾けていると、こんな話をしていた。

「立ち話してるとき、どのタイミングで切り上げればいいかわからないんですよ」

あるときはこんなことも話していた。

「イベントとかでみんなが部屋の片づけをやり始めるとき、どう手伝っていいかわからないんです」
「すでに人が足りてるから自分は邪魔になるのではと考えるのです」
「手伝いたくないわけではなくどうしていいかわからないんですよね」

廊下ですれ違ったときに、どの距離まで接近したら会釈するべきか…を真剣に議論していたこともあった。彼らは万事、真剣なのである。
会釈については、同様の悩みを抱えているぼっちが多かったので簡単に資料にまとめたほどだ。

会釈

自分のものさしを持ち、ファーストペンギンとしてイノベーションの先頭に立つ「ぼっち」だが、少なくとも私のまわりのぼっちは奥ゆかしい人たちばかりだ。

一丸となってバラバラに生きる

「アナキズム」の新書につけられた副題、「一丸となってバラバラに生きろ」。この言葉が、「ぼっちの群れ」にピッタリだと感じている。

「ぼっち」の「群れ」?

とても不思議に感じるかもしれない。
しかし、実際に存在するのだ。ぼっちの群れが。

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それぞれがそれぞれのものさしを持ち、決して迎合しない。
だが反目しあうわけではなく、互いに納得して受け入れることはする。
そして方向性が揃えば、強力に機能するチームとなる。

「ぼっち」は、自分が他人とは異なることを知っている。裏を返せば、他人が自分と違うことを知っている。他人と意見が異なるときに「どうしてわかってくれないんだ」といった逡巡はないのだ。

迎合しない集団をまとめるには、共通のビジョンが必要となる。そのビジョンをもとに対話を繰り返すことで、「ぼっち」のチームは機能的な、自己組織化したチームになっていくのだ。そう、タックマンモデルはぼっちにも適用されるのだ。

タックマンモデル

共通のビジョンとお互いへの信頼さえあれば、実は「ぼっち」は群れをなすことができる。しかし、自らのものさしをもち異議を唱えることをいとわない彼らは「チームワークに欠ける」という誤解をうけやすい。そして「ぼっち」は「孤立」していってしまうのだ。

チームの理想形として「自己組織化」を掲げているのに、自己組織化の素養をもった「ぼっち」がチームの外側におかれてしまう…それはとても残念なことだ。

物言うメンバーはあつかいにくい異物ではなく、チームを自己組織化へとみちびく「ぼっち」だ。ぼっちと共存し、ぼっちを集め、群れをつくる。そして自分自身も、ものさしをもった「ぼっち」になる。2020年が、あなたのぼっち元年になることを願う。

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