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Tani. #1979 009-9

Tani. 009-8から続く

2023年が通り過ぎた
元旦。
地震が起きる。

「書く」とか
「表現」とか
「芸術」だとかの
無力感を感じたのは2011年。

同年代の空気だとか
自分の体験だとか
こうやってnoteで発信することの
意味を改めて考える

意味を考え始めると
足が止まる
無言を貫くことも
表現の一つなのだろう

このnoteは誰かに強制されてるものではない
だからいつでも、アップできるし
辞められる。

義務と決めつけたら窮屈で
ルールがなければ、ランダムだ

でも、なぜまた書くのか?

多分、小さな細かな理由は
いろいろあって、
こうだ、と一つ言い切ってしまうことは
自分に嘘をついてしまうかもしれないなと
思う。

戦争や
政治。
「こうでなければならない」
と「正義」を表明すること

芸能人のスケキャンダルや
救えなかったペットに向かって
「信じられない」
ということ

ネットの社会では
言い切ることの潔さ
表明することの
強さ
明確さに
満ち溢れている

それはそれでいい
言いたいことが言えるのは
自由な社会だ

ネットだからこそ
輪が拡がり
救われたり
つながるものがある

だが一方で
強烈な批判や
圧倒的な正義に
違和感を覚える自分がいる

絶対的な悪
絶対的な善
それは存在するのかもしれない

ただ自然から生まれた
人間は
初めから不完全で
弱い

こうでなければならないと
言ったその指先から
何か別のものが
零れ落ちて行くものが
あるんじゃないかと思う

こんなことを書くと
目くじらを立てて
お前には、「正義」
がないのか!
と批判を受けるかもしれない

連帯だったり
団体だったり
する人から
怒られるかもしれない

そもそも何に対して
怒っているのかわからない
他人のために
憤っているのかもしれない
ただ怒りを
正当化するのは
その時点で政治的であると思う

政治的なものが生まれると
そこからは、
と書き始め
同じ土俵に上がってしまうな
とも思う。

そう思わせる媒体を自分は
目にしていて
考え込んだり
いちいち、そうかなと
首をかしげている

人を救うために送る
義援金も
愛していると囁く言葉も
人を傷つける言葉も

テキストだけでなく
画像も 
動画も
人工知能も

あまねく、
思考と
思想と
アイデアが
飛び交うこの場所で


曖昧に。
不規則ながらも
自分は書いていければ、と思う。


旅の話に戻ろう。



令和6年能登半島地震により被害に遭われた皆さまに、
心からのお見舞いを申し上げます。


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