【怖い話】 桃色の栞 【「禍話」リライト 掌編⑤】
実家のトイレの壁に、へこみがあったのだという。
「へこみって言うか、くぼみ? スペース? 花とか芳香剤とかを置いておける、正方形の小さい空間──わかります?」
とにかく、ちょっとしたモノを置いておけるような「へこみ」が、便座の横の壁にあったそうだ。
トイレットペーパーの替えを置いたり、お母さんが小さな造花を飾ったりしていた。
ある日の夜のこと、トイレに用を足しに行った。
電気をつけて、便座に腰をかける。
用を足し終わった後にふっ、とへこみに視線をやると、見慣れないものが置いてあった。
文庫本だった。
造花の脇、へこみの側面に立てかけてある。
両親との三人暮らしなので、「お父さんかお母さんが読んでて、忘れていったのかな」と思った。
でも、ふたりともトイレで本を読むなんてクセ、なかったような──
手に取ってみる。
日本の、いわゆる文学小説で、それなりに有名な作品である。
確か悲しくて重苦しいストーリーのはずだった。それも両親の性格には似つかわしくない。
ぱらぱらとめくっていくと、あるページで指が止まった。
栞が挟まっていた。
きれいな桃色の栞だ。女の子が使いそうな色合いをしていた。
栞は可愛らしいのに、そのページで展開していたのは、とても悲惨な場面だった。
目についた文章や台詞だけでも「あぁ、悲しいシーンなんだな」とわかって、わずかに気が滅入る。
両親のどっちかは知らないけど、こんなつらい本も読むんだなぁ。
そんなことを思いつつ文庫本を戻して、トイレを出て部屋に戻った。
翌日にトイレを使った時、文庫本はなくなっていた。
回収したんだなと思って、家にいたお母さんに尋ねてみた。
「昨日の夜さぁ、トイレに文庫が置いてあったんだけど、あれってお母さんの?」
「文庫本?」お母さんは首をひねった。「いや、私は知らないけど」
「じゃあお父さんかなぁ。いや、今はもう無くなってたけどさ」
そこまで言って、変だなと思った。
夜にトイレの中にまで持ち込んで読んでいた本を、そのまま置き忘れるだろうか?
そのことを言ってみると、お母さんも「それもそうよねぇ」と頷いた。
「そんなに夢中だったなら忘れてもすぐに取りに戻るだろうし。お父さん寝ぼけてたのかな。で、なんていう本だったの?」
「あのね、有名なやつで──」
書名を告げると、お母さんは「えっ」と驚いた。
目線を下げ、頬に手を当てて、深刻そうな顔つきになった。
どうしたの? と聞くと、お母さんは探るような口調でこう尋ねてきた。
「変なこと聞くけど──その本、桃色の栞が挟まってなかった?」
「え」 今度はこっちが驚いた。「挟まってたけど。それがどうかした?」
お母さんは顔をわずかに伏せながら、静かな声でこう答えた。
「高校時代にさ、自殺しちゃった同級生の女の子がいたんだけどね」
「自殺──?」
「それ、その子がよく読んでた本なの。桃色の栞を挟んで──」
昨日は彼女の命日でも誕生日でも何でもないし、第一、親しくしていたわけじゃないんだけど──
なんなんだろうね。
どういうことなんだろう。
お母さんは少し顔を青くしながら言った。
夜に帰宅したお父さんも「知らない」と答えた。
手に取って開いたはずの文庫本は、家のどこにもなかった。
それだけの出来事だと言う。
細かい理屈は抜きに。
波長のようなものが合って。
「何か」が現れる。
世の中には、そういうことがあるのかもしれない。
【完】
☆本記事は、無料&著作権フリーの怖い話ツイキャス「禍話」
禍話インフィニティ 第三十四夜より、編集・再構成してお送りしました。
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